その名は真紅郎②
『一番・レフト。つない~』
アナウンスの声でまるで一軍の舞台のような歓声と拍手が上がった。
なるほど、随分人気なものだな。
ショートの守備位置で帽子のつばを触りながら万田はそう思った。
プレイボールの声がかかり先攻のスパークスの一番打者、綱井が打席でバットを構える。
バットを持った両手と左足を小刻みに動かすフォームが綱井の自然体らしい。
その初球、ボールを上から叩いた打球はマウンドの前で高くバウンドして万田の元へ転がった。
鈍足の打者なら難なくさばいて楽々1アウト、というレベルの凡打だ。
(はっっっや!!!)
前進して捕球した万田が驚いたのは、綱井のそのスピードだ。
綺麗な前かがみのフォームで軽やかに走る綱井は、万田の予想よりも軽く見積もって2m近くほど早い位置にいた。
左のグラブで取ったボールをすぐさま右手に持ち替え、一塁に投げる。
万田はプロでも強肩の類に入る選手であり、その動きにほとんど無駄は無かった。
強いていうならば、一歩足取りが遅れた程度のものだ。
「セーフ! セーフ!!」
それでも綱井は余裕で間に合った。
ファーストへボールが届くよりも明らかに速く、一塁ベースを踏んでいた。
(……なるほどな。これが日本球界トップレベルの足ってわけかよ)
万田が軽く舌打ちをして、土をならす。
実物をフィールド上で見るのは初めてだったがなるほど、どおりで稲妻と呼ばれるわけだ。
しかし今の当たりを完璧な内野安打にされるのはプライドが傷つく。
プレーが再開され、投手が二番打者に向き直った。
打者はバットの先端に右手を当て、バントの構えで投手の様子を窺っている。
手堅く送りバントか。それともバントの構えを解いてバスターエンドランか。
どのケースにも対応できるように内野陣は構えておかなければならなくなる。
綱井の足があるだけに厄介だな、と守備に就きながら万田は思う。
数回の牽制球の後に投じられた初球は明らかに走者を警戒したボールだった。
大きくストライクゾーンから外されたボールに打者はバットを引き、1ボールとなる。
そして投じられた2球目、打者がバットを引くまでは同じだった。
違ったのはただ一つ、綱井がスタートを切っていた事だ。
万田がすぐに二塁のベースカバーに入りキャッチャーからの送球を受けるが、綱井の足は既に二塁ベースを陥れていた。
綱井がスライディングから立ち上がりパンツについた土をはらう。
それからふと、万田と綱井の視線があった。
「アンタ。肩は強いけど、足はまだまだ俺の方が上だね」
綱井が歯を見せて無邪気に笑って言う。
「……はっはっは、言うじゃねぇか。その内目に物見せてやるから覚えとけよ」
◇
綱井の足を絡めた攻撃を起点にして、タイムリーと2ランホームランでスパークスは1回から3点を先制。
対して一回の裏、ドルフィンズの攻撃。
先頭打者の入夏が打席に入る。
相手投手は今年が勝負の年となる中堅の左腕投手だ。
左対左の勝負になるが、入夏は特に左投手を苦にした記憶はない。
2ボール2ストライクとなって5球目のスライダーをレフトのファールゾーンに打ち返し、迎えた6球目。
力は腹の底に。
勇名のアドバイスを思い出しながら入夏はバットを一閃した。
インコースを突いた直球を弾き返し、打球は一塁線へ。
ファーストがキャッチを試みるものの、グラブは届かずにライト方向へと打球が転がる。
ライトがボールを捕る間に入夏は二塁を陥れる。
続く二番打者が進塁打で繋ぎ、三番の万田が打席に入った。
三塁ベースから少し足を離しながら入夏は次のプレーを頭の中で繰り返しシミュレーションする。
ゴロならスタート。ライナー性の打球ならすぐに戻る。
走塁の基本ではあるが、いざという時の反応がものを言う世界だ。
カウント2ボール2ストライクからの5球目、万田が打った打球はレフトへと放物線を描いて飛んでいった。
フライという事もあって入夏は三塁ベースに足を戻して打球の行方を見守る。
レフトから距離のあるライン際の打球だが、回転もあってフェアゾーンに落ちそうだ。
飛距離から見て落ちるのを確認してからスタートを切るのが良いと入夏は判断する。
「はっはー!! 俺がとぉーる!!」
瞬間、威勢のいい声と共に入夏の視界の隅から人影が飛び出す。
正体はレフトの綱井だった。
普通なら打球が落ちる事を想定して回り込むのが定石だが、綱井は違う。
打球に向かって直線的に駆け込む。
自分がボールを捕れると信じて疑わない姿勢だ。
その俊足を活かして綱井は打球へ追いつき、そして―――。
「行き過ぎたぁぁぁ!!!」
そのスピードを殺せないまま、綱井はボールを通り過ぎてフェンスにぶつかった。
捕る者もいなくなった打球がぽとりとフェアゾーンに落ちるのを見届けて、入夏は三塁ベースを蹴ってホームベースを踏む。
フィールド上を振り返ればボールはバックアップに回ったセンターが捕球し、その隙に万田は二塁ベースへとたどり着いていた。
思いもよらぬプレーに球場がざわつく中、センターについていた選手に手を差し出されて綱井が立ち上がる。
ざわつきはやがて綱井に対する拍手に変わっていく。
彼は成功も失敗もひっくるめて愛される、スター性を持った選手なのだろう。
(―――あぁ、それは。とても羨ましいな)
入夏の胸に、ちくりとした痛みが走った。
◇
試合後にシャワーを浴び、入夏はバットを背負って球場内を歩いていた。
試合は乱打戦となり、6回にドルフィンズが5点を奪う逆転劇を見せて8-6で勝利した。
入夏は一番打者として6打席に立ち四球が2つ、2本のヒットと1打点をあげた。
しかし得点、つまりホームに生還したのは初回の一度のみ。
一方スパークスの一番打者の綱井は同じく5打席に立ち、内野安打を含む2安打。
盗塁を1つ記録し、出塁した2打席は全て得点に繋がった。
純粋な打者としての成績は入夏の方が上だが、一番打者の役割は得点を上げる事だ。
その点で存在感を出していたのは綱井の方だと言える。
つまるところ、引き分けだ。
考え事をしていたからか、入夏は角を曲がったところで男とぶつかりそうになる。
ぱっと避けたところでその赤毛に気が付く。
「あ」
「ん? あぁ、入夏さんじゃーん……」
入夏が発した声で綱井も気づいたらしい。
入夏の顔を見ると物憂げな表情からすぐに笑顔に変わった。
「もしかして、さっきのプレーで怪我したのか?」
「あぁいや、無事だったし。一軍昇格も決まったんだけどさ? そのプレーが原因でカッシーにめっちゃ怒られてさー……」
『当たり前だ。ただでさえ君は故障が多いというのに、わざわざあの場面でリスクを冒すことはない』
後ろのモヤ、樫村が不機嫌そうにぼやく。
思い返せば試合中にずっと綱井の後ろに樫村がいた。
いたというか、入夏からすればモヤが見えただけなのだが。
勇名の時はバットが近くにいないと声が聞こえないというのに、タイプが違うのだろうか。
「さっきからずっとこんな感じで小言を言ってきてさ。何とか言ってくれねーか入夏さーん」
「まぁ、確かに。言われてみればあの場面で突っ込まなくてもとは思ったけど」
『ふむ。入夏少年は話が分かるようで安堵したよ。真紅郎、僕は君の
樫村の声は子供を諭すように落ち着いているが、綱井は不満そうに頬を膨らませた。
「だってそれってさぁ、手を抜けって事じゃん? それは俺のポリシーに反するし、何よりプロとしてどうなのって話にならない?」
『下らんポリシーで人生を棒に振るな。というか君がプロを語るのは10年早いぞ、若造』
「うるっせーな偏屈ジジー!」
『それはそれとして、入夏少年』
「少年じゃないです。何ですか」
『そこの
「勇名さんですか? あの人はちょっと考え事をしているようで」
勇名は試合後に何かを思い出せそうだと言ったきり、返事が無い。
未練を思い出してくれるのなら良いのだが、まだ打撃については教えてもらいたい事が山ほどある。
入夏の心の中で何とも言えない複雑な感情が渦巻いていた。
『一つ尋ねるが、君はあの男の事をどれくらい理解しているんだ?』
「……何も。そもそも誰かを理解できる余裕なんてないですから」
一つ間が空いて、くすりとモヤが笑う声がした。
『そうだな、人を理解するという事は難しい。ただそれにしても、君は素直というか真面目だな。中途半端に理解したふりをする奴よりもよっぽど好感が持てる。僕は勇名が嫌いだが、未来ある選手の事は好きだ』
先ほどの勇名と話す時とは違う、優しさにあふれた声だ。
「ちょっとカッシー! 俺の事は!?」
『君は黙っていてくれ真紅郎。……まぁ、なんだ。つまり、僕は君の敵ではない。その事はどうか頭に留めておいてほしい』
「……敵じゃない? あなたの目的は何なんですか?」
「あー待て待て待て、これ以上説明を求めるのはやめてやってくれ!」
入夏と樫村の視線を途中で切るように綱井が割って入る。
「要するにだ、カッシーはアンタが気に入ったって事。この人見た目通り気難しい性格だからさー、直接言葉にするのが苦手なんだよ」
『真紅郎』
「でも間違ってないでしょ?」
『間違ってはいないがな……。大体、僕を気難しいと言ってくるのは不本意だ。それは君があまりに軽率だから口出しせざるを得ないだけであって』
「はいはい、じゃあ次は一軍で会おうぜ! それまでは怪我せずに待ってるからさ!」
入夏は曖昧な返事しか返せない。
その言い方だと、どうにも対決するときに怪我するように聞こえるからだ。
というか。さっき見た目と言った?
入夏が確認しようとする前に、綱井の姿は既に小さくなっていた。
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