俺と彼の第一打席④

 白色の下地の中を、スカイブルーの線中央に二つ、袖元に左右それぞれ一本ずつ走っている。

千葉ドルフィンズのホーム用のユニフォームを一言で表すのならそんな感じだ。

ホーム用のユニフォームはビジター用のものと比べて主張が控えめで、基本的に白をベースとしたものが多い。

試合を3時間ほど後に控えて、ドルフィンズの選手たちは打撃練習に打ち込んでいた。


 入夏も例外ではなく、室内のバッティングケージで快音を鳴らしていた。

その両手には勇名のいるバットが握られている。

初めて手に持った時から分かっていたが、振りやすい。


「いいじゃん入夏君。絶好調だね」


 喋りさえしなければ本当に使いやすいのに。

入夏は心の中でそうぼやきながら最後の一球をしっかりライト前に弾き返して、次の選手に場所を譲った。


水帆ずーさん!」


 独特なあだ名で入夏の事を呼んだのはチームメイトの槍塚やりづかだんである。

190cmをゆうに超える身長はプロ野球選手の中でも抜きんでて大きく見える。

高校時代は身長に対しては細身だったというが、プロに入ってから体を一から鍛え直しただけの事はある。

現在はトレーニングの成果もあって筋肉量が増え、腕も太くなったと槍塚自身が豪語していた。

それと比例するように容姿もどんどん派手になっていて、高校時代は黒髪の坊主だった髪は茶色のミディアムヘアへと変貌している。

高そうなネックレスが首元でちゃら、と音を立てて揺れた。

年齢は一つ下の22歳ながら右の大砲として期待されている選手だ。


「槍塚。ずーさんって呼ぶなって言ってんだろ」


「えー、別にいいじゃないっすか。口に出しやすいし、『ぞうさん』みたいで可愛らしいあだ名じゃん? ほら、先輩って結構可愛い顔してるしそれくらいマイルドな方がいいと思いますよ」


「次言ったらその髪をくしゃくしゃにしてやる」


「はははっ、先輩が眉間にしわを寄せてもチワワくらいにしか見えなーい! というかそれよりも、なんすかそのバット。古くないっすか?」


「……別にいいだろ、俺がどんなバットを使おうが」


 どうするべきか一瞬迷ったが、槍塚には説明しない事にした。

言ったところでどういう反応をするかは目に見えている。

このバットが喋ると言えばこいつは笑い転げるだろう。


「はーん、つまりは貧乏って事? だったら球団に言えばいいのに」


 刈り上げられた側頭部をかきながら槍塚は首をかしげた。


「そういうわけじゃない」


「あ、もしかして誰かに騙されて買っちゃったとかじゃないですよね? 宗教とかにハマったとしても俺は誘わんで下さいね」


「俺がそういう事をするように見えるか?」


「ははっ、冗談っすよ。ずーさんが必勝祈願とかすら嫌いなの知ってますし。まぁでも、気楽に行きましょうよ。頑張っても急にチームが浮上するわけじゃないんだし。それにドルフィンズは絶賛再建中でしょ。若手を育てたいんだからそんな焦らなくても」


「うるせーよ。さっさと練習してこい」


 はーい、と気の抜けた返事をして槍塚はバッティングケージに入っていく。

少しして快音が響き始めた。


『入夏君、質問なんだけどさ。このチームって弱いの?』


「弱いです。今年も最下位独走中です」


『容赦ないね』


「どう取り繕っても事実は事実なので。それもこれも、自分が情けないからですが」


『一人だけ打っても勝てない時は勝てないでしょ。その考えは傲慢ごうまんじゃないか?』


「俺が打っていれば勝てた試合はこれまでいくつもありました。4割や5割を打てる打者になれれば負ける事も、それを悔いる事も無いのに」


 思い出すのは敗北の土の感触。

どれだけの打席を、勝ちを、取りこぼしてきたのか。

一体どこまでを犠牲にすれば打撃のゴールにたどり着ける。


 人より努力してきたはずだ。

他に才もないからずっと野球だけ、真っすぐに打ちこんできたはずだ。

なのにどうして、これほどまでに遠い。


 もっと飛びぬけた才能があれば、孤独ではなくなるはずなのに。


『そうだねぇー……』


 勇名の声は、肯定とも否定とも言えない曖昧なものだった。




 試合は7回の裏、ドルフィンズが1点を追いかける展開となっている。

下位打線に入っていくこともあって、入夏は監督のにしきから準備しておけと言われていた。

大きな鏡を設置された部屋の前で、来るべき時に備えてバットを振る。

しかし練習と違い、いくらバットを振れどもその心は落ち着かない。


 打撃で結果が出ないのは運ではなく実力から。

分かっているだろ、このままじゃ未来はない。

そう意識するとどうしても肩に力が入る。

緊迫感に塗りつぶされて、力の抜け方すらも分からなくなっていた。


『ちょっと振り方が乱暴になったね。喧嘩でもするつもりかい?』


 周りには誰もいない。

となれば、これは勇名の声だ。


『力んでちゃ上手くいかないよ』


「……うるさいです」


 今シーズンまだヒットを打てていないという結果が示すように、入夏の打撃は迷走していた。

自覚はしているが、どうすればいいのか分からない。

打撃コーチからのアドバイスを仰いでも向上の兆しは見えなかった。


「俺は、どうすればいいですか」


 そう言って、すぐに馬鹿らしい気分になった。

バットにアドバイスを求める打者がどこにいる。


『今の俺は見る専門だからなぁ。それに、気に入ってもない人間に教えるのは性に合わないんだよね』


 そりゃそうだよな。

打撃コーチにも、自分にも分からない答えを出会ったばかりのこの人が知っているわけがない。


「……終わりたくない」


 唇を噛む。

嫌だ。嫌だ。嫌だ。

このまま、何も残せないまま去るのは嫌だ。

そうなったらもう何者でもない。

そして何より、自分の存在を許せない。


 ずしりと重く感じるバットを振る。振る。

誰も助けてはくれない。

自分で底から抜け出すしかない。


『……あー、もう。しょうがないなぁ』


 いかにもやれやれ、といった感じの声が聞こえた。


『いい? 今から言うのは体の使い方とかそういうものじゃない。もっと初歩的でシンプルな話だ。相手投手との呼吸を意識してみなよ。そしたらちょっとはマシになるだろうから』


「え?」


『ゆっくりでいい。呼吸を合わせるまでにじっと集中してこらえるんだ』


「教えてくれないんじゃなかったんですか?」


『だって、今の君を放っておいたら危なそうだし。まぁ、所詮亡霊のたわごとさ。俺はあくまで選択肢を見せてやるのが精一杯。行動を決めるのはその当人だけ。だからどうするかは、君に任せるよ』


「…………」


「入夏、そろそろ出るぞ。ベンチに戻ってこい」


 コーチの言葉で現実に帰る。

出番が近い。

深く息を吸い、そして吐く。


覚悟は決まった

あがくなら、ちゃんと最後まであがきたい。

バットを握りしめ、入夏はベンチ裏へ歩きだした。




『選手の交代をお知らせいたします。バッター志々海しじみに代わりまして、入夏。背番号33』


 1点のビハインド。2アウト、ランナー2塁の局面での代打策。

アナウンスにわく球場の中、逆又さかまた京華きょうかは入夏の姿をじっと見つめていた。

一塁側の座席からは左バッターの姿がよく見える。

改めていい席をとれたものだ。


「おお、ここで入夏君の出番か!」


 隣に座る角田が興奮した声を上げたので、逆又の肩がびくりと震えた。


「あ、ごめん。驚いた?」


「いえ、大丈夫です」


「ほんっと選手層薄いんだな。チャンスで打率000のバッター出すかよ普通」


「その選手がこの場面で出てくるようじゃよえーなー、今年のドルフィンズも」


 近くの観客が憐みのこもった、大きな声で話すのが逆又の耳に入る。

ドルフィンズのユニフォームを着て応援しているというのに、随分自虐的だ。

弱いのはチームだけでない、負けの多さに諦めてしまったファンも同じだ。

応援するならちゃんと応援すればいいのに。

加えて好きな選手を馬鹿にされた事が苛立ちに拍車をかけた。


「ちょっと私ガツンと言ってきます」


「いや待って」


 逆又が袖をまくって立ち上がろうとすると、角田に声で制された。

角田さんだったら、いや角田さんだから分かるでしょう。

選手がどういう気持ちで試合に臨んでいるのか。


「だって、今の人は―――」


「大丈夫だよ。よくある事だし、よっぽど大声じゃない限り選手には聞こえない。というか君に何かあったら僕がヤバい。殺されるだけじゃ済まされないから、ね? とりあえず深呼吸」


 深く息を吐いて、熱のこもった頭と早まる心臓の鼓動を抑える。

そうだ、本来の目的を思い出せ。

今はただ、この勝負を見届ける事に集中するべきだ。

打席上では入夏が円を描くようにバットを三度、くるりと回した。

彼特有のルーティンだ。

一球目、二球目、そして三球目。

それら全てを見逃して、カウントは1ボール2ストライクとなる。

投手が投げるごとに盛り上がるボルテージも、入夏にとっては我関せずといった様子だ。


「落ち着いてるね」


 角田が言った。


「そうなんですか?」


「うん。振る気が無いわけじゃないと思うけど、しっかりと見極められてる。ストライクゾーンだからといって、気持ちが早まって凡打になったらダメだからね」


「でも追い込まれましたよ」


「ははは、相撲だって土俵際が一番盛り上がるんだ。ここからだよ」


 そして四球目。

背後のランナーを気にしつつ、投手が足を上げる。

それに呼応するように入夏がバットを後ろに引いた。


 ―――打ちにいく。


 逆又は自らが野球に詳しくない方だと自負している。

それでも何故か、直感的にそう思った。


 すっ、と力が程よく抜けたスイングがボールを捉えた。

快音を響かせて打球はやや低い弾道でライト方向へと飛んでいく。

「あ」と逆又が短い声を上げたのもつかの間、ボールは惜しくもライトのグラブに収まっていた。


「あぁ~!! ダメかぁー!!」


 角田はヒットになると思ったのか、勢いよく立ち上がった状態のまま頭を抱えて声を上げた。


「いい当たりだったんですけどね」


 逆又がぽつりと呟く。

内容は良かったがしかし、凡打は凡打だ。

一塁ベース手前で立つ入夏に心無い罵倒が飛んでいくのが聞こえた。


「とりあえず座りましょう、角田さん。……角田さん?」


 角田は立った体勢のまま座ろうとしない。

不思議に思って声をかけても、耳に入っていないようだ。


「……バットが」


「え?」


 角田が指差したのは、ホームベースの方向だ。

その方向を見て、逆又も同じく目を見開くことになる。


 投げられたバットは転がる事もなく、ピタリと地面に立っていた。




 球場内の練習場で一人、入夏はバットを握っていた。

結局ドルフィンズは最後まで主導権を握れないままダメ押し点を決められ、1対4で敗北を喫した。

敗因の一つとして入夏の打席も入ってはいたが、本人にとってそんな事はどうでもよかった。


「どうでしたか。何か、思い出せました?」


「……ごめん。特に何も」


 入夏がバットに話しかけると、勇名は申し訳なさげに言葉をこぼした。


「そうですか。でも俺からすれば、それで良かったのかも」


「ん? どういう事?」


「俺は結構、疑り深い性格です。噂話や占いが嫌いで、人から話を聞いてもあまりピンとこない事が何度もあります。けど、その代わり自分の体験した事、感触は大事にしているんです」


 勇名は返事をしない。

別に構わない、という風に次の言葉を切り出す。


「だから、さっきのアドバイスは的確だったと思ってます。あの助言のおかげで、俺は落ち着いて打席に立てました。あなたが本当にあの勇名涼なのかは知りません。そこは正直な話、重要じゃない。けど」


 あの打席で感じたものは確かに本物だった。

その言葉は入夏にとって曇りひとつない本音で、勇名を信じる根拠になり得た。


「取引をしましょう、勇名さん。俺があなたの未練を探します。その代わり、俺の師匠になってください」


『……そんな事でいいのかい? そもそも君に俺の打撃が合うかどうかなんて分からないのに、どうしてそんなに―――』


「あの打席以外に根拠があると思いますか。俺は一番のバッターになりたい。俺がこの世で、最も強いバッターだと証明したい。そのためなら亡霊にすがるのだって躊躇しない」


 入夏の人生の中で、師と呼べる人物は今までいなかった。

人との関わりが薄い事も一つの要因ではあるが、野球に関して本格的に口を出された事はほとんどなかった。

高校時代の監督も、他の選手の指導は熱心にする割に入夏の指導を渋っていた。

誰からもヒントは出されず、一人で道を切り開くしかない。

そう思っていた。


 でも、この勇名という男は信用するに値する。

初めて師匠と呼ぶべき人物に巡り合えた気がした。


『……じゃあまずは、俺を認めさせることからだね。気が向いたら口出しするから好きにやりなよ』


 入夏水帆と勇名涼。バッターとそのバット。

交わる事の無かった二人の物語は、他の誰もいない場所からひっそりと動き出した。







 その姿を認めて、自然と笑みがこぼれた。

あの男がこの舞台へと帰ってきた。

他の誰も分からなくとも俺には分かる。

やはりお前の居場所はここにしかなかったのだ。


 はは。

ははははははははははははは。


 勇名涼。勇名涼! 勇名涼!!

その名前を聞くたび、燃え尽きたはずの魂に再び灯がともる。

無い心を焼くのは怨恨えんこんか、憎悪か、憤怒か。


 勇名涼。

お前を忘れた事など一度も無い。

お前が不幸にした者を、取りこぼしたものを、俺は覚えている。


 今度こそお前を打ちのめす。

敗北の土の味が知りたいのなら、何度だって味合わせてやる。

俺の前に沈め。


 必ず、後悔させてやる。

お前の人生を否定してやる。



 

 

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