三十二泊目 本当のこと


「……久々やな」


 赤神とはシフトが異なり、早番に三日入った蛍。

 『次の休みの日に帰る』と母親にメッセージを返していた、その日となった。


「晴れてよかったわ」


 季節は梅雨。

 湿気を伴う空気は暑さももたらすが、今日は二日ぶりの晴れだった。


 左手を臨めば日向灘。そんな美しい海岸線を南下し、二時間かからないほどで地元へと着いた。

 漁業の盛んな町だが同時に山々にも囲まれた土地だ。

 空、山、海。見慣れた家々。

 すべては変わらず美しい。


 それでも蛍がここへ向かおうとすれば気が重くなるのは、人の悪意のせいだ。

 今も実家の駐車場に車を入れてから数分。運転席でぼーっと景色を眺めて動けずにいる。


「……行くかぁ」


 まるで一大イベントに取り掛かるように気合いを入れ、玄関へと向かう。


「──ただいま……」


 蛍が帰ってくるとわかっている玄関に、鍵は掛けられていない。

 小さすぎず、大きすぎず平坦な声で言えば「おかえりー」と言葉が返ってきた。

 緊張しつつ靴を脱いでリビングへ向かおうとすると、ひょっこり母親が顔をのぞかせた。


(くる)


 その鋭い視線は先ほどの声と打って変わり、何かを値踏みしようとしていた。


「その靴、いくらね?」


 母親は幼い蛍の持ち物も管理したがった。

 特に服装には厳しい。自分が選んだ物を買い与えるばかりで、蛍の意見は参考程度。その基準は見目よりも、自身の持ち物より安いかどうかで選ばれていた。


 そうして大人になって蛍が自立し、自分で身の回り品を買えるようになると玄関で値段を聞くことが常習化された。


「年末セールで九百円」

「……へー。やしい安いね」

「ね」


(ほんとは四千円やけど)


 基準は不明だが、おおよそ二千円を超える物を身に着けていると途端に母親は不機嫌になる。地元で衣料品を購入する際の平均値だからだろうか。なるべく帰省時の服装には気を付けていた。


「まあ、着飾ってんブスのあんたには意味ないやろしな。安もんでいいやろ」

「……」

「お父さん今日残業げな」

「そうやっちゃ」


 そう言って母親は再びソファに腰かけ、撮りためていたドラマを見始めた。

 昼間から缶ビールを飲み、一緒にスナック菓子を食べている。

 本人の自由ではあるのだが、その行為は蛍に投げつけてきた言葉に相反するものだった。


「……」


 人はそう簡単に変わらない。

 蛍が生まれたせいで仕事を辞め、若かりし頃の美貌を失ったと責めた人。

 蛍が成人しても希望した県外に住むことを許さなかった人。


 あれだけ望んでいたであろう母親という役割から解放されたのに、時間に余裕ができても蛍のせいで失ったとされる物を取り戻そうとはしなかった。

 それどころか度々蛍に実家に戻るよう連絡をする。


 赤神のように内心を覗いたわけでもない。本当のところは不明だ。

 だが、客観的に母親を見ると薄々分かる。不出来な息子が側にいた方が労せずに役割を得ることができる。他人を貶める方が、労せず他人に自分が優れていると認識される。

 本来努力や時間を掛けて得る自己肯定感のようなものを、手軽に得る。

蛍は手が掛からなくなった今でも、彼女にとって都合がいい存在なのだ。


 蛍は父親が帰ってくるまで自室にこもった。

 防犯のためにつけられた小窓の鉄格子は、むしろ幼い蛍に外の世界をよく想像させた。

 息を殺して潜む。

 なにか大きな音を立てると、母親が勝手に入ってくるからだ。

 この家でプライバシーのようなものはない。

 自分を開示することに慎重になるのも仕方ないことだ。


 親子の会話のようなものは、家族が揃う夕食時にしか訪れない。

 どうせ話をしたとして、自分のできなさや容姿について貶めるだけ。


(早く家に帰りたいな)


 どれだけ散らかっていても。出口のない思考に囚われても。

 自宅の方がまだマシだ。

 少なくとも、この理不尽で満たされた家に居場所はなかった。









「いつ仕事辞めると?」

「辞めんよ。仕事、楽しいし」


 美味しそうな料理の並んだ食卓。

 ようやく家族らしい会話を送ることができても、その言葉には相手をおもんばかるような心は垣間見えない。


「楽しいげな。蛍の好きにさせないさせてあげなさい

「はぁ? 休みも少ねぇし自慢できる仕事でもないやろぅが。こっちで事務でんした方がまだマシやわ」

「……」


 大人になっても思う。どうしてそういうことを平気で言えるのだろう。

 誇りを持って仕事をしている。

 辛いこともあるが、概ね楽しいと伝えているのに。


 なにより、頑張っているのは蛍であるはずなのに、なぜ自慢できるかが重要なのだろうか。また一つ胸元に熱が積み重なった。


「お父さんからも言いないよぉ」


(気持ちわりぃ)


 猫なで声のように甘える声は、蛍を怒鳴ったあとによく聞いた。

 蛍が女性に恋愛的な意味で興味を持てないのも、このせいだ。


 声が受け入れがたいのではない。

 人を平気で傷つけるその口で、すぐさま人に取り入ろうとする言葉を吐く。そのことが人間というものへの理解が及ばない幼い蛍にとって、なんだか他の星から来た生命体のように思えたのだ。


「お母さん、蛍も大人なんやから──」

「なんね! おまえらはあたしを責めるとか!? 料理も洗濯もなんもできんくせに、偉くなったもんやな!?」

「っ!」


 嗜めようとする父親に、怒鳴りつけた。


(え? 父さんおるとに、なんで?)


 蛍にとっては意外だ。

 よく聞いたヒステリックな金切り声だが、少なくとも父親の前で蛍をなじることはなかった。怒鳴る姿を見せたことは記憶の限りなかったのだ。


「あたしはおまえらの家政婦じゃねぇど!?」

「そんなこた言ってねぇやろが」

「うるせぇ!! 勝手にしろ!!」


 がしゃん、と箸を乱雑に投げ捨て自室へと戻った。


「……」

「…………、いつからあんなんやと?」

「……ここ数年かな? 最近は若くても認知症になるっていうし」


 はあ、と溜息を吐く父親の肩は以前より小さく見えた。


(認知症っていうか……)


 田舎に心療内科や精神科のある病院は少ない。

 そもそもメンタルの不調を疑うことも両親の世代では滅多にないこと。

 まして、すぐさま噂が駆け巡る小さい町だ。

 万が一そう診断されたとして、噂の的になるだけ。

 かつては母親も、うつ病で仕事を辞めた同級生のことを「気合いが足りんかいよ」と鼻で笑っていた。


「蛍」

「ん?」

「好きに生きなさい」

「……うん」


 父親は、蛍がどんな言葉を投げかけられてきたかは知らない。

 だが、母親の変貌を目の当たりにして。何となく蛍が実家に寄り付かなくなった経緯を察したことだろう。


「おれ、感謝はしてるよ。でも……一緒に住むのは、たぶん無理」

「……それでいいが」


 今まで胸に秘めるだけだった言葉が、すんなりとでてきた。

 蛍がこれまで抱えてきた『許されたい』と思う心。

 それは母親のことを疑問に思いつつも、育ててもらった恩から『もっと上手く親子というものをやれたのではないか?』という罪悪感からだ。


 だが、今回はすんなりと上手くできないと伝えることができた。

 赤神に自分を曝け出したことで、何らかのハードルが下がったのだろう。

 自分もこの世界にとって、いろいろな考えを持つ人間の一人となれたからかもしれない。


「また休みの時、帰ってくるわ」

「うん。無理はせんごつしないで


 若い頃大層モテたという母親の自尊心は高く、しかし心の弱い人だった。

 子育てへの不安が大きかったが、それを自分で認めたくなかったことだろう。


 誰にだって苦手なものはある。それは仕方のないことだ。

 まして人を育てるなんて大変なこと。

 出産時も痛みを堪えて頑張ったのだ。

 自分が生まれたせいで、知らぬところで我慢を強いられてきたことだろう。

 それに関して蛍は多大な感謝の念を抱いている。


 しかし大人が子供へ鋭いナイフのような言葉を投げつけることは別問題。

 かつての母親がもう少し蛍への伝え方を工夫していたら……違った今があったのだろうか。


 育ててもらったことへの恩義、理解できない思考。

 どちらも本当のこと。


 今できる精一杯は、家族というものを辞めずに距離を保つこと。

 それでいい。

 蛍はこれまで帰省してきた中で初めて、自分の選択を責めなかった。


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