一泊目 新人研修① アカガミさん


「──赤神さんのロッカーはこちらです。明日からは、出勤後まずこちらで制服に着替えてくださいね。ロッカーは自由にお使いください」

「はい」


 事務所と同じく客室フロアと隔離された空間は静かだ。従業員用のロッカーが並ぶ一室に、ピカピカに磨かれた革靴の音が響く。


「洗面台もありますし、姿見もあります。出勤前にきちんとアピアランス身だしなみを整えてくださいね」

「承知いたしました」


(ぐっ……)


 笑顔に、慣れない。

 さすが元々ホテリエだけあって、新人研修に入る前から見た目は会社規定内どころか非の打ちどころがないほど完璧。

 物腰はやわらかで、嫌味もない。おまけに男でも惚れ惚れする見た目。

 出産で退職した同僚の代わりに入った赤神あかがみは、即戦力間違いなしのまさに救世主だ。


 入社して間もないこともあり、赤神と従業員たちとの距離はまだまだ縮まっていないものの。ホテリエとして全員が赤神へと関心を寄せていた。

 女性陣に至っては、早くプライベートな話もしたい様子で浮足立っている。


 ホテル・観光コースのある専門学校を卒業し、ホテル業界へと足を踏み入れたけいも例外ではなかった。

 色々と赤神に思うところはあれど、仕事中の切り替えは早い方だ。

 蛍は早速ホテリエとして気になることを一つ聞く。


「あの」

「? はい」

「髪は、ワックスで固めているんですか?」

「いえ。いろいろ試しましたが、今はポマードですね。最近のものは微香タイプもありますので」

「なるほど……!」

「黒木さんは?」

「お、……僕はジェルですね」

「いいですよね、ベタつかないので」


 蛍の髪は耳を隠さないほどの長さではあるが、前髪は若干目にかかる。

 会社の定めるアピアランス身だしなみの規定に基づいて、蛍は前髪を横に流して固めていた。


 対して赤神は、恐らくもっと長い髪なのだろう。

 やや分け目を設けたオールバック。大人で、クラシックで……そう。まさに海外の、一流ホテルのコンシェルジュのような。

 蛍はそのあまりに似合いすぎる姿に、中身を深く知る前から一種の尊敬の念を赤神に抱いた。

 それは元々海外に行ってみたいという願望があったことにも由来する。


「あの」

「はい」

「失礼ながら支配人に伺ったのですが……。赤神さんは、ホテル系の学校出身とのことで、どちらの学校を卒業されたのかお伺いしても……?」

「構いませんよ。○×△校です」

「わっ」


 まさにそこは、かつて蛍が夢見ていた場所。

 ホテル経営やホスピタリティを専門に学べる学校であった。先立つものがなく、夢は夢のままであったのだが。


「スイスの、ですよね?」

「ええ」

「い、一発合格ですか……?」

「はい」


 にっこり。

 効果音でも付きそうなほど、至極当然のように。


(が、ガチの秀才じゃん)


 超難関。世界中から志願者が殺到するそこは、サービス業に従事する者にとって世界有数の学び舎と言われている。母国語が英語ではない者が一発合格というのは、珍しいことだ。


「ということは、ゆくゆくは経営者に?」

「さぁ、どうでしょう。私も現場が好きなもので」


(も?)


「黒木さんは?」

「え?」

「現場、お好きでしょう」

「え、えぇ……まぁ」


 その通りである。

 蛍は、何度か転勤を伴う社員への打診を受けていたが、すべて断っていた。基本的にはある程度昇進すると、宿泊客と接することが多いフロント業務──現場を離れることになる。蛍は単純にフロント業務が好きなのだ。そして、それが許される会社の気風もとても好きだった。業界としては珍しい離職率の低さから、上のポストの空きが少ないことも大いに関係しているのだろう。


 なぜ赤神がそれを知っているのかは不明だが。


「見ていれば、分かります」

「そういうものですか?」


 まだ会って数十分なのに。

 蛍は疑念と同時に、その観察眼への興味も湧いた。


「えぇ。お客様も、さまざまな方がいらっしゃいますが……私たち従業員だって同じ『人』なのですから」

「?」

「黒木さんが数少ない情報からお客様の求めるものを考えるように、同僚のこともそのように考えているだけです」

「は、はぁ」


 想像にはなるが蛍の身だしなみ、足の運び方、目くばせ。会話の中で自然に滲み出る笑み。そういったもので判断したということだろう。


(ハイクラスのホテルともなると、やっぱ求められる連携力はうちの非じゃないだろうからなぁ)


 全国チェーンのクロトホテル。

 お客様との出会い、物語、あらゆることを『つむぐ者』という意味で名付けられたホテル。

 一応の位置づけはビジネスホテルであるが、昨今のホテル業界というのはまさに戦国時代。


 各ホテルが独自の施設、プラン、特典を試行錯誤して業界を生き抜いていく。

 国内旅行客に限っていえば客の数は一定だというのに、参入する会社は増える一方なのだ。

 ゆえに、昨今ではホテルの形態による位置づけは、価格帯以外では難しい。

 かくいうクロトホテルも同様、年々試行錯誤を重ねている。

 一昔前の『ビジネスホテル』というには、設備やアメニティが充実し過ぎているのだ。

 

 ……とはいえ、シングルが一泊数万ということはない。

 ドアやベル、予約専門の部署があるわけでもない。

 人員はやはり『ビジネスホテル』規模であり、むしろ自動精算機や無人フロントのような形態も登場し始めた。


 やはり人的サービスが遥かに充実しているハイクラスのホテル出身の赤神が、今この瞬間目の前にいるという事実が不思議でならない。


(……なんでうちのホテルなんだろう?)


 それも、出身地でもない宮崎のホテルに。

 女性陣のさっそくの質問に、「たまたま宮崎に縁あって」と答えていた赤神。

 蛍は何か特別な事情があるのかもしれないと、赤神が理由の断片を公開するまでは深く触れないようにした。


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