二十四泊目 課題へのアプローチ
蛍のホテリエとしての座右の銘は、『自分たちの都合をお客様に見せない』だ。
どんなに繁忙期で忙しくても、プライベートな事情で心がざわついていても、それは宿泊客には直接関係がない。
笑顔を忘れないこと。
それを徹底していた。
同僚にそれを求めるかどうかはともかく、少なくとも『英語』が苦手だから海外のお客様はおもてなしできない……という個人的な都合は、社の掲げる理念にも反するだろう。
言語が通じなければ笑顔がある。身振り手振りもある。
今や翻訳機器のようなツールも充実している。
苦手を克服する以前に、工夫をするのだ。
「──レストランのメニュー、ですか?」
「はい」
赤神はさっそくトレーニングの合間に、英語に対する不安を取り除くようないくつかのアイデアを同僚たちに話し、意見を募った。
「どういうやつ?」
チーフの日高は正面のデスクで疑問符を浮かべている。
「例えばですけれど」
「「?」」
赤神は机の上に黒ペンと赤ペンを並べると、シンプルな腕時計を外して仲間に加えた。
時計を外す姿すら、どこか映画のワンシーンのようだ。
「言葉が通じない時にこれが欲しい、って説明したい時」
「はい」
「ペンだと、何となくメモを取る仕草をすれば伝わる気もしますけど、それが黒色なのか赤色なのかは身振りで表すにも限界があります」
「やねぇ。ふつうにレッドとかブラックって言わんと伝わらんやろねぇ」
「腕時計ともなれば、腕を示すことはできても、時間を表すのは相当な表現力の持ち主です」
「た、たしかに」
蛍は、もし自分が『時間』をジェスチャーで表すとしたらどうなるだろうと考え、そして諦めた。
「最近はレストランのメニューでも、英語表記はなくても写真付きのお店が増えましたよね。メニューにはなくても、入り口に食品サンプルを置いたり」
「あー、ビジュアル付きの単語帳ってことやね!」
「そうです」
赤神が提案した一つ、写真付きの英単語帳。
特に部屋の備品や、貸出用の備品。アメニティなんかを説明したい時に使えるような。
単語帳といっても本ではなく、変更があってもすぐ差し替えできるようなもの。
パソコン上でデータの規格を作り、写真と日本語、そして英語を載せたものだ。
例えば、
【枕の写真】【枕】【pillow】
のように。
仮に英語が分からない宿泊客相手だとしても、写真さえあれば意味は伝わる。
作ったデータを出力してファイルに綴ったり、使用頻度が高ければラミネート加工をしてそのままフロントの空きスペースに忍ばせておけばいい。
これも立派なコミュニケーションツールだ。
「ぐっち君、めっちゃ喜びそう」
蛍は谷口の伝説の一つを思い出した。
以前海外からの宿泊客に、
『Is it possible to rent a voltage converter?』(変圧器はレンタルできますか?)
と聞かれた谷口。
意味が分からずさらに詳しく聞いたところ、
『I need to charge my phone. It is an adapter into outlet』(携帯の充電をしたいんです。コンセントに差す変換プラグのことですよ)
と言われたために、余計混乱した。
日本と海外はコンセントの電圧が異なることが多い。
宿泊客は変圧器を忘れてしまったため、フロントまで借りに来たというわけだ。
谷口は、唯一聞き取れたphoneとoutletから携帯をアウトレットモールで買いたいのだろうと勘違いしてしまう。宮崎にアウトレットはないと伝えるため、
『No outlet in Miyazaki』
と返し、相手を混乱させた。ここでのoutletはコンセントの意。無い訳がない。
これには隣にいた時任もお怒りである。
慌てて宿泊客にお詫びと訂正を入れたあと、事務所にてお説教だ。
分からないままに案内することは、あってはならない。
しかし、分からないことを『分からない』というのは、実は勇気のいることだ。
むしろ英語が苦手なのに臆せず対応した谷口を、「やる気があるのはいいけどね」と時任はフォローした。
以来、谷口はきちんと周りを頼ることができるようになった。
「すぐ追加もできるしいいねぇ。英語の
「そうですね……」
少し考える仕草を見せた赤神。
「キーケースにもある程度の英語案内は書かれていますよね」
「やねぇ。イマドキはどこも標準やろけど」
センサー式のルームキーを採用しているクロトホテル。
そのカードを入れるためのキーケースには、ある程度のホテル案内が日本語と英語両方で記載されている。
……が、国内の宿泊客も含め、なかなかそのすべてに目を通す者は少ない。
必要な情報が簡潔に集約された優れたツールであるのだが。
「チェックイン時のご案内と合わせて、キーケースやテレビの案内もご一読ください……とか一言入れたらいいでしょうかね。そもそも英語表記の案内があると気付かない方も多いでしょうし。テレビの館内情報は他の言語にも対応していましたから、一言入れるだけでも違うでしょう。……たしか、以前のおもてなし係の方がまとめてくださっていましたよね?」
「ああ、そういえば……」
赤神が言うのは以前おもてなし係を担当した者が、同じく英語対応の向上を目指して作った資料だ。ふだんのチェックイン案内を英訳したもので、紙で配られた。
都会のように毎日英語を話す機会があれば縋りつきたくもなる資料だが、宮崎の事情でいえば『そういえばあったな』と思い出すようなもの。使用頻度が低い。
苦手意識のある者がそれを何度も復習するかどうかは、個人の裁量に委ねられるのだ。
「データが残っていたら、修正しておきます。単語帳と一緒にラミネートしておきましょう」
「紙をチラ見しながらご案内するのはあれですけど、ラミネート加工されていればお客様も必要な案内だろうなって思いますよね」
「あ! じゃあさ、精算機の使い方の案内とか、クロくんがモデルになって写真撮んないよ!」
「なるほど。文言と一緒に写真があれば、より伝わりますね」
「よりによってなんで僕なんですか……」
「いいわぁ」
「いいですね」
「えぇ……?」
アイデアの共有。
言葉にすると次々溢れ、よりよいものが生まれていく。
そもそも『おもてなし』とは形のないものだ。
ツールのように形にすることも大切だが、何より意識の共有。
これが最重要といっても過言ではない。
(にしても、すごいな……)
以前の経験があるにしろ、新人でここまで同僚からの意見を引き出す赤神。
四年間クロトホテルに勤めて、同様の意見は思いつかなかった。
それは恐らく自分がある程度英語が話せるからで、想像力が足りていなかったのだ。あるいは、そこまでの心の余裕が生まれなかったのか。
蛍は赤神と比べると、自分が恥ずかしいと感じてしまった。
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