七泊目 言語の違い
「May I help you?(いらっしゃいませ)」
「I‘d like to check in, please(チェックインをお願いします)」
「Certainly, Sir. May I ask your name, please?(かしこまりました。お名前をおうかがいしてもよろしいでしょうか?)」
赤神のトレーニングの合間。
チェックインが立て込んでくると、
ただでさえトレーニングに付きっきりのうえフロントが混み合うと、それだけで余裕はなくなるというものだ。
「──すみません、もう少しマニュアルを復習しておいてください」
「はい」
蛍はパスポートをコピーするために一度事務所へ戻ると赤神へ指示を出し、そしてまた表に出る。
「────Here’s your passport. Danke schön, Sir(パスポート、ありがとうございます)」
「! Oh,Thank you!」
ドイツから東京経由で宮崎に来た宿泊客。
蛍は相手の疲れた顔、夜のチェックイン、慣れない土地での手続き。
あらゆる状況から相手の心中を想像した。
(お疲れだし、早く部屋に戻りたいだろうけど……日本のホテルはともかく、うちのホテル利用は初めて……かな。だったら内線とかで聞かなくて済むように、説明は一通り必要だよな。ご飯もコンビニで買ってきてるっぽいし、もう今夜は外に出かけないと予想)
部屋は、清掃担当者が綺麗に仕上げてくれている。
設備も、ビジネスホテルであれば充分とも言える備品が備わっている。
しかし、今ここで相手の心に寄り添うことができず笑顔も忘れ乱雑に対応をすればどうなるのか。
──部屋に入る前に、ホテルへの印象が変わってしまうのだ。
例え部屋に入りさえすれば快適に過ごせるとしても。
ここでの対応で滞在の印象が決まってしまうこともある。
それは会社をよく見せたいだとか、そんなことのためではない。
蛍をはじめ他のスタッフも、恐らく多くのホテリエも。
ただ目の前の人に『もうひとつの家』で寛いでほしい。
その想いから、ホテリエは一人一人と向き合うのだ。
「──Feel free to ask us anything if you have any questions(ご不明点ございましたら、遠慮なくお尋ねください)」
「I see. Thank you(わかりました、ありがとう)」
「Our pleasure. Enjoy your stay(どういたしまして。滞在楽しんでください)」
背の高い、金の髪色をした男性客を見送ると、ようやくチェックイン待ちの列がなくなった。フロント周辺が静かになる。
「クロさーーーん! あざっす~!」
「ぐっち君」
勤めて半年になる後輩の谷口。
いつも笑顔で人懐っこい青年だが、英語での対応は不慣れなようだ。
「もー、ぐっち。すーぐクロさんに助け求めるんやからぁ」
もう一人、シフトが同じフロント担当の女性
蛍より少しだけ年上の、ベテランだ。
「いやー、簡単な英語はできるんすけどねぇ」
「どんどんチェックイン受けて、自分で自信つけんといかんよ」
「はいっ、ガンバりますっ」
「……にしてもクロさん、さすがやねぇ」
「ん? なにがですか?」
「パスポートでどちらからお見えか判断して、母国語でお礼を言うっていうやつ。自分で考えたっちゃろ?」
「まぁ、はい。……その方が、ホテルの説明聞く前にリラックスできるかなって。分かる範囲でですけど」
「さすがやわぁ。見習わんといかんね」
「……」
それが、どれほど『さすが』なのか蛍には分からなかった。
幼い頃から他人に迷惑を掛けないように、他人の顔色を窺うように。
不機嫌をまき散らす母親から、自分の身を守るための術がそれだった。
むしろ特技として生かせる今の環境はとても充実し、相手にも喜んでもらえることがとても嬉しい。
ただ、蛍にとって『当たり前』とも思える範囲が他人にとってはそうでない。
蛍が、『自分』をどれほどおざなりにしているのか。
それが分からないのだ。
◆
「お待たせしました、再開しましょうか」
フロント側から厚い扉をくぐり事務所へと戻る。
チーフの日高は電話対応をしていた。
「はい。……先ほどは、海外からのお客様でしたか?」
「ですです。宮崎は国際線もほとんどないので、他の県に比べたら海外からのお客様は少ないほうなんですけど……。飛行機でいらっしゃる場合は、国内で乗り継いで来られる方がほとんどです」
「ははぁ。では、かなりお疲れでしょうね」
「ですねぇ。旅行でお越しでしたら、九州一周旅行の方が多いですかね? レンタカーご利用の方もちらほらいらっしゃいます。ビジネス利用ですと、お疲れのご様子なのがほとんどですね」
「なるほど……それもやはり、地域性ですね」
「そうなりますね」
蛍は電話対応に関するマニュアルのページを開き、トレーニングを再開しようとした。
「……」
「? どうされました?」
赤神の、意味深な視線に疑問を投げかける。
「……いえ。クロさんは、本当にお客様に寄り添う心を常に忘れない、素晴らしい方だなと」
「そ、そんな……褒めすぎですよ」
照れる、というよりはどこか胸が苦しい。
蛍は接客について褒められると、いつも得体の知れない感情を抱いた。
それに加え、赤神は蛍からすればとてつもない経歴の持ち主。
接客の練度でいえば、彼の方が相当なものだ。
本人の気質からそれはないと思うが、
(よくないなぁ)
通常業務が忙しいだけでなく、トレーニングで付きっ切り。
蛍は自分の心の余裕がないだけだと言い聞かせ、
「ほらほら、続き、やりましょう」
「はい」
それに気付かない振りをして、トレーニングを再開した。
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