三十四泊目 止まない雨はない
「お疲れさまです……」
「クロくん顔やばすぎ」
「そうですかね……」
連日満室、残業続き。
蛍は睡眠でエネルギーを補充するタイプだ。
寝不足の日々が続くと心にも体にも堪えた。
「おや、黒木くん」
「あ、お疲れさまです支配人……」
加賀美は相変わらず優しい眼差しで蛍を見据えた。
「お客様の前で、そんな顔は見せないでくださいね」
「もちろんです……」
朝に顔のマッサージはしたので、目の下のクマはこれ以上どうしようもないのだが。
「……黒木くん」
「? はい」
「いろんなお客様がいらっしゃるように、働く側にだって色んな人がいますから」
「そ、そうですね?」
「お客様も人間だけどね。君だって、もちろん人間なんですから。無理な時はちゃんと言ってくださいね」
「……あ。は、はいっ!」
クレドに示された言葉どおり。
『お客様も人であり、また私たちも人である』
『お客様を素敵にお迎えできる私たちが幸せであり、またその幸せがお客様を幸せにする』
例え連日一緒に働く他の者が元気であったとしても、蛍がそうとは限らない。
ホテリエが宿泊客を想うのと同じように、加賀美は蛍の体調を心配していたのだ。
「──あ、そうだ」
「はい?」
「お客様が本部あてに、メールを寄せてくださったそうで」
「!?」
(ま、まさか──クレームか!?)
思い当たる節はない。
だが以前に赤神が言った、何が相手を不快にさせるかは分からないというのは、何も友人関係に限らないのだ。
「うちの男性スタッフ宛でしたので、送ってくださいました。メールに転送してあります」
「は、はい……」
今日赤神は休み。
なんだか一人でそれを確認する勇気はなかったが、加賀美が傍でニコニコと待ちわびている以上、すぐに確認する他ない。
(なんだろうな……)
宿泊客より寄せられた意見。
怯えながらもメールを開くと、そこには意外なことが書いてあった。
──クロトホテル宮崎のスタッフさま
お世話になっております。
先日結婚式に伴い予約をさせていただいた
お忙しい中大人数を受け入れてくださり、感謝しています。
おかげ様で式も無事終わり、ほっとしているところです。
じつは本日、お伝えしたいことがもう一つあります。
わたしの従妹についてです。
彼女は車椅子を利用しているのですが、公共の施設を利用する際、いつもそのことに引け目を感じているようでした。
優しい人です。
人になるべく迷惑を掛けずに生きたいと思っている人で、なかなか他人を頼ることができません。
人気のレストランやお正月の福袋争奪戦。
そういった、混み合う場所とは無縁の生活だと聞きました。
ですので今回、ホテルが大変混み合っている状況に遭遇したことに、初めはとても心細かったそうです。
初めての場所で初めての状況。
ホテルの利用者もわたしの友人がほとんどで、知り合いもいなかったようです。
彼女の母……わたしの叔母は式場に手伝いで残ってくれていたので、大変心配しておりました。
従妹はホテルに着いてからしばらく、混雑が解消されるまでロビーの片隅でフロントのみなさんを見守っていたそうです。
彼らはみな親切で、忙しい中でも笑みを絶やさずにいました。
そんな中、二人の男性スタッフさんがアイコンタクトをしていたとのこと。
すると本来従妹が並んでいればチェックインとなっていた順番で、男性客が足を止めたそうです。
従妹は大変びっくりしたようです。
状況を理解した別の男性スタッフさんが、ロビーでチェックインの手続きをしてくださいました。
忙しいのは仕方ないです。従妹はそういうものだと思って待っていました。
でも、入ってきたことも気付かれていないと思っていたので、本当にびっくりしたと。
入店時に挨拶は交わせなかったけれど、なんだか歓迎されているような気持ちになったと。嬉しそうに言った彼女の顔が忘れられません。
また、室内もバリアフリーといいますか。
浴室との段差もほとんどなく、部屋も広めだったようで大変喜んでいました。
朝食会場でもよくしていただいたそうです。
今回わたしは利用できませんでしたが、いつか貴ホテルに泊まることができたらいいなと思っております。
スタッフさんにとっては何気ないことかもしれませんが、素敵な対応ありがとうございましたとのことです。
わたしからもお礼を言わせてください。
この度はありがとうございました。
椎葉絵美──
「…………」
ぼろぼろと涙が零れていることも忘れて、メールを映し出すモニターに魅入っていた。
こういう時はいつも更衣室に隠れるというのに。
「あー、クロくんが泣いてるの初めて見た~」
「かわいー」
「……かっ、かわいいとかっ、やめてくださいよ……」
近頃は泣いてばかりだ。それも人前で。
「お客様に皆さんの想いが伝わって、よかったですね」
毎回そうでないことは百も承知だ。
それでも蛍がこの仕事を楽しいと思えるのは、こんな瞬間が訪れるから。
特に今日は心に響いた。
電話で聞いた言葉が、怒りの滲んだ声が耳から離れなかったから。
良いこともあれば、どうしようもないこともある。
その訪れるタイミングが交互なものだから、人生上手くできている。
(きっとずっと、こんな連続なんだろうな)
ホテルの主役はお客様一人一人。
旅や仕事、イベント事のお手伝い。それは人生の手伝いだ。
そしてクレドにも書いてあるように、ホテリエだって人間だ。
宿泊客の人生を紡ぐお手伝い。
その喜びがホテリエの人生の一糸となるのだ。
「あれ? 黒木君……目、腫れてない?」
「わ、バレましたか」
常連の西村和人がフロントに到着すると、第一声がそれだった。
「実は、いいことがありまして」
「あー嬉し泣き? よかったね~」
「はい。とっても」
本来は宿泊客に心配させないよう、目の腫れが引いてからフロントに立つのが好ましい。
だが、喜びによるものであれば、例え話題に挙がったとしても宿泊客に心配をかけることはない。
「そういえば、この前黒木くんに紹介してもらったお店、行ったよ」
「さようでございますか! ぜひ、感想おうかがいさせてください」
他に人もいないフロント周辺。
仕事の邪魔にならないと判断したであろう西村は、蛍に話を振る。
隣に立つ谷口も、興味津々の様子で一緒に聞いていた。
「焼酎の品揃え、たしかに多くてもう目移りしちゃったよね」
「あはは。注文に時間かかりますよね」
「言ってたとおり海鮮のメニューも多いし、鶏料理も一緒にあるし……。なにより、日替わりの刺身。あれがいいよね」
「わかります。また通いたくなりますよね」
「ね~。あとあれだ! 鶏のタタキ。ポン酢とネギがよく絡んで焼酎すすむね。一緒に行った同僚も気に入ってくれたから、今度また行くんだ」
「えー! 気に入っていただけたなら、よかったです」
「黒木くんのおかげだよ。ありがとう」
「いえ。こちらこそ、いつもご利用ありがとうございます」
(嬉しいな)
この仕事が好きだ。
自分が好きなだけでは伝わらないものだけれど、こうした瞬間が訪れる度にそう思う。
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