三十一泊目 黒木蛍という男


「え? ご自宅に?」

「はい」


 焼き肉店で昼食を終えた二人。

 元々この後の予定は、カフェや観光地に赴いて観光案内の手札を増やそうという話だった。


 だが蛍は一つ決心をした。

 赤神が抱えていたものを知った蛍は、自分のことも伝えたいと思ったのだ。


(怖いけど……なんか、ぜったい今だよな)


 上手く伝えられるかは分からない。

 少なくとも赤神は言った。

 『嫌いなら嫌いでいい』。


 嫌いとは思わない。むしろ好ましい男だ。

 だが最近の蛍の頭の中を占めているのは、赤神へと嫉妬を抱く自責の念だった。

 羨ましい。でも、好ましい男。

 どちらも本当のことで、赤神にとって重要なことは仕事に対する志が同じかどうかだ。


 なぜ伝えたくなったのかは分からないが、正直に伝えれば赤神ならば受け止めてくれるような気がした。



 ◆



「……」

「ほんと、狭いわ散らかってるわで申し訳ないんですけど」


 赤神は職場でのきっちりとした蛍からは想像もできない部屋の惨状に、驚きを隠せないようだ。

 一人暮らしにも関わらず、靴や傘が数人で暮らしているかのように散らかった玄関は、誰のことも歓迎していない。家主さえも。


 そんな玄関から見える景色は、視線が落ち着ける場所もないほど物で埋め尽くされている。物を手放せないのか。それとも物のことを考える余裕もないのか。

 煩雑な部屋は、常に思考が飛び交っている蛍の心を映しているようにも見えた。


「……入っても?」

「はい」

「お邪魔します」


 むしろ、一度赤神に見てもらうと後は思い切りがよくなる。

 初め抵抗のあった気持ちは今ではすっかり消え失せた。


 赤神の表情は驚いてはいるものの、蛍を軽蔑したりはしない。

 確信を得たからそう思えるのだろう。


 物を蹴り飛ばさないよう、慎重に歩を進める赤神。

 優しさを感じる背中を見て蛍は不思議に思った。


(なんでだろう)


 なぜ、自分は突然伝えたくなったのだろう。

 赤神自身の胸の内を聞いたから?

 であれば、わざわざ嫌われるかもしれないようなことを言うより、もっと別の話を深掘りすればいい。


「えっと」

「テレビの前は、ちょっとスペースあるんで。どうぞ、座ってください」

「はい」


 空きがあるのはほぼ一人分のスペースだ。

 蛍の部屋での行動範囲の狭さを物語る。

 赤神の側で話ができるように、床に積まれた本の山を端っこへ押し込む。

 なんとかできたスペースに身をよじらせて、赤神と向き合うように腰を下ろした。


「……その、意外です。ロッカーを拝見してる感じ、もっと整理整頓されてて。……物が、少ないイメージでした」

「職場はなんかキレイに使いたいんですけどね」


 ホテリエとしての自分は好きになれる蛍。

 ロッカーや皆と一緒に使うスペースはとても綺麗にしている。

 蛍自身、本来はプライベートもそうで在りたいのだろう。


「……おれ、赤神さんのお話聞いて……なんか、自分のことを知ってもらいたくて」

「クロさんのこと?」

「はい。なんでかは、分かんないんですけど……」


 分からない、という状態すら伝える。


「おれは、……その。職場であんなに楽しく同僚やお客様と接することができるのに、家に帰ると途端に電池が切れたかのようになるんです。あれは夢だったのかな、って。大人になるにつれて、それは人と接するのが『好き』だけど、『得意』ではないから……エネルギーを何倍も使うんだと気付きました」


 ぽつぽつと、自分のことを確かめるように話す。


「仕事中、家に帰ったらあれやろう、これやろう。なんて、家事の段取り決めてもできないし、仕事でミスがなかったかその日一日全部を振り返るし。……なんか、いっつも余裕なくて。だから部屋もこんなんだし」

「うん」

「本当は自分に自信なんてないのに、ホテリエとしての自分を必死に保とうとすると、どうしても無理が生じちゃって。おれ……仕事は楽しいはずなのに、幸せなんだろうかって」


 どこか蛍は、帰宅すると自分の部屋だけが世間から隔絶されたような感覚に陥る。

 特に家族連れや夫婦でやってきた宿泊客と笑って過ごしていると、勘違いしそうになる。自分も彼らと同じだ、と。

 でも違う。自分には普通の幸せというものが分からない。

 人との繋がりは楽しいものではあるけど、果たしてそれはどうやって構築するものなのか。育った環境のせいとはいえ分からない。


 一度自分というものを吐き出すと言葉は次々に溢れ、徐々に語気を強めていった。


「そういう不安が常にあるからだと思う。……おっ、おれ! 実は──赤神さんに嫉妬しててっ」

「……うん」

「最初会った時なんか! そんなわけないって分かってても、赤神さんって自分の経歴の方がすごいのに、おれなんかを『すごい』って言ってくれて、バカにしてんのか!? って!」

「…………うん」

「おれっ、おれ────すごくない!! いつもっ、上手くできない!!」


 嫉妬することは誰にでもある。

 わかっている。

 わかっているのに、その気持ちを上手く処理できない。

 そんな自分に嫌気がさす。


「っ……け、けど、赤神さんも言ったように、思うのは自由だけど……それで人を傷付けるのはっ、はぁ。違うじゃないですかっ」

「そうだね」


 蛍の脳裏には不機嫌で他人を支配しようとし、自分に自信がないがゆえに周りを傷付けることで安心を得ようとする、一人の女性が浮かんだ。

 人生において反面教師のような存在だ。


「だっ、だからっ、自分の感情と上手く付き合えなくてっ……、苦しくて!」


 弾けるような燃え盛る感情は、胸に渦巻いて喉元でなんとか留まろうとする。

 その痛みは代わりに涙となって蛍の目元から零れ落ちた。


「──申し訳なくてっ!!」


 ひと際大きい声と共に漏れた言葉に、蛍ははっとした。


(申し訳ない……?)


 『どうして』という言葉ばかりが頭を占めてきた。

 申し訳ないという視点は、ありそうで無かったものだ。


「クロさん」


 ずっと相槌をうち、蛍の言葉を黙ってきいていた赤神。

 真摯に受け止めるその眼差しは、決して蛍を見放さなかった。


「ごめんね、そう思ってたんだね。気付かなかったよ」

「ち、ちがっ──」


 謝ってほしいわけじゃない。ただ──


「ダメだね。お客様に関することは……口下手どころか、人並み以上に言葉を尽くすはずなのに。プライベートだと抜けてるんだよね、俺。上手くいい言葉がでてこないよ」


 自嘲気味に笑う赤神。


「仕事じゃ想像や仮設を立てることが得意な俺たちだけど。ことプライベートになると、それを巡らせて辿り着いた事実に向き合うのは、すごく苦手なんだよな。気持ちすごく分かる……臆病だよ俺も。クロさんもきっと、そうなんだろうね」


 今度は、安心させるような笑み。

 いつもの顔だ。


「赤神さん……」

「でもほら、今は一人じゃないから。怖いかもだけど、一緒に考えよう?」


(一緒に……、考える?)


 まるで初めて会った時のように、不思議な安心感を赤神へと抱いた。


「クロさんの心は、きっとクロさんにしか分からない。人の考えってものは、今までに触れてきたもの、環境、接した人、それこそ地域差。自分の意思と共に色んなものに影響を受けていて、完全に一致することは稀だ。クロさんは……うーん、そうだね。どうして、申し訳ないって思うんだろうね?」

「どうして?」


 いつもいつも自分に強いてきた問い。

 改めて他人に言われると、なんだか別の言葉に聞こえる。


 蛍にすら分からない『どうして』を、赤神が優しく解きほぐしてくれるかのようだ。


「もしかして、──許されたいのかな? 俺に」

「!」


(許されたい?)


 その言葉を聞いた瞬間。命の危険なんて一切感じないにも関わらず、これまで歩んできた人生が走馬灯のように流れた。


 母親に大事に思われながらも罵倒されてきたこと。

 『ノリ』が分からず友人の望む言葉を間違えて、疎遠になったこと。

 学生時代にバイト先で叱責を受けたこと。

 宿泊客に理不尽な怒りをぶつけられた時のこと。

 自分がミスをした時のこと。

 赤神に嫉妬を抱いたと自覚した時のこと。


 申し訳ない。


 いい奴なのに、嫌な感情を抱いてしまって。

 幸せなはずなのに、それが分からなくて。

 いつも上手くできなくて。

 容量わるくて。

 気が利かなくて。

 生きていて。

 生まれて──申し訳ない。


(おれ、許されたかった……?)


 胸にずっと居座るなんらかの塊。

 得体の知れないそいつとの付き合い方を、蛍は知らずに生きてきた。

 しかしたった今赤神が口にしたことで、ほんの僅かながらにそれが軽くなったような気がした。何かを間違ったわけでもないのにとめどなく流れる涙が、その証拠だ。


「クロさんが自分に問いかけた疑問が、自分なりに消化できたとして……。でも、そのきっかけとなった相手とどうにもならなければ、クロさんの中には解決していないものとしてずっと残るよね。それが、苦しいんじゃないかな?」


 蛍は赤神に許されたいと思い、自分を開示することにした。

 それは先に赤神がしてくれたからこそできたことだ。


「他人と全力で……本音でぶつかり合うなんて、滅多にできないよね。……苦しかったね」


 俯きながら涙を隠そうとする蛍の頭を、赤神は優しくなでる。


「ありがとう。俺に教えてくれて」


 これまでに触れてきたものも、育った環境も、場所も。何もかも違う二人。

 考え方の異なる二人がこうも心を開けたのは、一つだけ絶対に揺るぎない同じ志があるからだ。









 恐ろしいほどに腫らした目元。

 ティッシュで何度も目元を拭きながら、蛍はようやく赤神を正面から見た。


「……大丈夫?」

「な、なんとか……」


 茶化すわけでもなく、しかし暗い雰囲気になりすぎないよう優しい笑みを絶やさない赤神。兄弟のいない蛍にとって、その姿は兄のようにも思えた。


「人間、ほんといろいろあるよね」

「……ですね」

「でも、ほら。神様でさえ悩んだり、引きこもったりするんだから」

「?」

「この前日本書紀の話が出た時に、帰って神話についてちょっと調べてみて」

「ああ、あの時……」


 宮崎駅の東口。

 『大和口』とも呼ばれるようになったゆえんを以前話したことを蛍は思い出した。


「日本で一番有名と言って差し支えない、太陽神にも『どうして』って思うことがあるし。理解できなくて岩の中に引きこもっちゃうし」

「あはは。たしかに」


 赤神が言うのは、やりたい放題であった弟神の蛮行に耐えられなくなった太陽神が、天岩戸あまのいわとと呼ばれる場所に引きこもったと言い伝えられる神話のことだ。


 その神話では最終的に、別の神が岩戸の前で舞を踊り、楽しそうな様子を太陽神に聞かせることで岩戸を開かせたのだった。


 状況を打破したのは、本人の力だけではなかったのだ。


「俺はたしかにクロさんとはちょっと違うけど……、でも似たような生きづらさも感じたことはある。クロさんが抱えるものを解決することはできないかもだけど、共感することはできる。うまく言えないけど……無理に克服できなくても、なにかのきっかけで案外動けるようになるというか」


 蛍はその言葉を聞いて、写真付きの英単語帳のことを思い出した。

 苦手を克服することも大事かもしれないが、工夫をして付き合い方を変えることで世の中なんとかなったりする。


「そう、ですね。…………でも、人によってはこんなこと考えてるなんてバカじゃないの? って思うような人もいるわけで……。なんか、何でこんな考え込むんだろうって。自分でも自分のこと、笑っちゃいます」

「俺は笑わないよ。だって、俺たち知ってるじゃないか。世の中いろんな人がいるなってこと、誰よりも」


(あ──)


 心の容量を保つために見る世界に、自分の姿はいつも見えなかった。

 他人ばかりを目にしていた。

 自分の眼差しに映る世界なのだから、当然だ。


 でも、今の蛍は世界の一部になれたような感覚だ。

 誰かの目を通して見た時に映る自分の弱い姿。それを受け入れてもらったからだろう。


 蛍は許されたかった。

 世界の一部になることを、ずっと許されたかった。


「……」


 子供の頃にきっと正しいはずだと思っていた神の言葉は、アンビヴァレンス両価性なものだった。

 それもそうだ。本人がそうだったのだから。

 そして蛍だって、他の誰だってそういうものだ。


 伝え方や言葉遣い。相手の立場に立って伝えるタイミングを考える。

 同じ想いだったとしても少しの工夫でどうにでもなる。


「もし、また俺が岩戸に引っ込んだら……今度はクロさん。よろしくお願いいたします」

「岩戸?」

「だって、俺も神だし」

「? ……………あ」


 彼は、──赤だ。


「え? ちょっ、待っ……くだらなっ!」

「えー」


 くだらないな。

 でもそれがひどく心地よい。


 あれだけ自分に纏わりついていた何かが、今はさっぱり感じられなくなった。


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