十八泊目 相乗効果


「いわゆる、コアワーキングスペースですね。クロトホテル内での名称は『クロトスペース』です」

「おお……!」


 フロントや朝食会場と同じ一階にある会議室。

 その向かい側には、仕切りの壁やフェイクの観葉植物を上手く使って空間を分けたスペースがある。

 壁に向かって横一列に机が張り巡らされ、充分な間をとって椅子と、壁に備え付けられたコンセントも完備。


 ここでのみ閲覧可能な本棚や、コーヒーと水のサーバー、Wi-Fiまで。

 宿泊客限定で使えるスペースとはいえ、チェックアウト時間の午前11時から24時まで利用できる場所は、リピーターがクロトホテルを選ぶ理由の一つにもなっている。


 赤神は施設の充実ぶりにずいぶん感心した様子だ。


「宿泊者限定とはいえ……、無料ですか?」

「はい。フロントで当日のご予約を確認できれば、チェックイン前でもご利用できますよ」

「すごいなぁ」

「日本でいえば珍しいとは思いますが……海外では、標準的に備わっているかと思ってました」

「いや、あるにはありますが……値段がぜんぜん違いますからね」

「それは……、たしかに」


 蛍は、海外の宿泊客によく英語で「この値段で、この広さや清潔感はすごい」とアンケートが書かれていることを思い出す。

 それはクロトホテルに限ったことではなく、日本のビジネスホテルの『標準』が、海外の利用者にとって『安すぎる』と思われていることを意味している。

 物価の違い、日本人のおもてなしの心。

 いろんな要素はあれど、日本人が求めているサービスへの標準というものは、実は質の高いものだったりするのだ。


「で、さっそく『おもてなし係』の仕事の一環なんですけど……」


 蛍と赤神は、本棚のある一画へと近づく。

 たまたまスペースの利用者がいなかったので気兼ねなく会話を続けた。


「ここの本は経費で買ってもらえるんですけど、何を買うかはおもてなし係が決めているんですよ」

「なるほど」

「二か月に一冊購入なんですが、選書のセンスはもう、各々にお任せってことになってます」

「宮崎ではどういったものが?」


 赤神は本棚に並べられた本を見ながら言う。


「地図とか観光系のは年に一回買ってますね。あとうちは完全にビジネスでのご利用が多いので、話題の小説だったり、ビジネス書だったり。うーん、赤神さんが好みそうな本?」

「はは、なんですかそれ」


 冗談と受け取った赤神は笑った。


(いや、本気で言ったんだけどな……)


 向上心のある、勤勉な人。

 そんな人が好みそうな本。スキルアップや時間の使い方、世界経済なんかについての本。

 蛍も読むには読むが、プライベートでは漫画を読むことの方が多い。

 対して赤神は、英語がペラペラでも休日に勉強を欠かさない男。

 そういう本も普段より読んでいるに違いないと蛍は思ったのだ。


「何の本を買ったかは、会社のポータルサイトにアップするんですよ。それで、他の店舗の本でお客様との話題に挙がった本があったりしたら、店舗間で貸し借りしたり」

「へぇ……! 他店舗とも、そうした交流があるんですね」

「今後お子様連れの方々が増えたら、絵本とかもいいですね。今のところは週末以外ほとんどお見えにならないので利用される方はいないのですが」

「お客様の層に合わせて購入するんですね」

「ですです」


 蛍が言うと、赤神は「話題の本か……」と視線を宙に漂わせながら何を購入しようかと考えていた。


「──ここは改装で新たに設けられた場所なんですけど、どうして取り入れたと思いますか?」

「え?」


 突然の問いに赤神は眼を見開いた。


「どうして、……か」

「まあ、流行っていますし。こういうスペースのあるホテルも増えましたよね」


 どうして。なぜ、そうするのか。


 それを考え続けることが、クロトホテルの理念である『紡ぎ続ける』を体現することに他ならない。


「ええと。チェックイン、チェックアウト後の待ち時間を有意義に過ごしていただくため? ビジネスでご利用なら資料の確認、メールの返信。観光でのご利用なら観光地の下調べ、情報収集……ですとか?」

「そのとおりです。もちろん正解はないんですけど、こういった場を提供することで──ホテルを好きになっていただく。これは、僕たちがいくら接客面でお客様からの支持を得たとしても、実現できないことです。お金、すごく掛かりますし」

「そうですよね」

「数年前のおもてなし係の方が、直接会社に働きかけたんですよ」

「!?」

「お客様にどんなサービスがあったら嬉しいかをアンケート形式で伺ったら、そういう声が多かったみたいで」


 もちろん簡単なことではない。

 お金が掛かるのももちろんだが、そういったスペースを設けられる場所があるかどうかも問題だ。

 ただ、前任者たちは宿泊客の声を届けることを諦めなかった。


「まあ、僕たちにできることはお客様の声を上に届けることなんですけど……実際、できちゃいまして」

「それは……すごいですね。本当に」


 赤神は、そのすごさというものが良く分かっているかのように頷く。


「だから僕、この会社が本当に好きでして」


 このプロジェクトが進んでいる最中、従業員の給料が減ることはなくむしろ時代の潮流を経て年々ベースアップしているところだ。


 つまり、会社は利益を未来への投資。宿泊客にホテルを好きになってもらうためのお金を使うことに躊躇がない。


 蛍にとってもクロトホテルで働く他の者にとっても、日々はとても忙しいものだ。

 ただその忙しい日々が、きちんと宿泊客や自分たちに還元されているのを見た時──


 顧客満足のみならず、従業員満足をも生む。


 それが、クロトホテルの掲げるクレドにある、『幸せ』の一端になるのだ。



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