二十泊目 神と心
「──すみませんっ!!」
「ぜんぜんいいよ~、なんもお客様にご迷惑お掛けしてないし。一応、言っとこうって思っただけ~」
翌日、蛍は日高から一点入力漏れがあったことを伝えられた。
それは引継ぎをする際に使用するホワイトボードには書いてあったことなので、宿泊客に直接何か迷惑を掛けることはなかったものの。
実際にチェックインを担当するものが、万が一引継ぎ内容を忘れて伝え漏れていたらどうなっていたかは分からない。
本来は口頭の引継ぎと共に、予約に紐づけてホテルシステムにも入力しておくべきことだった。それを蛍が失念していたのだ。
「ほんと……、すみません……」
「……クロさん?」
「もークロくん、そんな謝らんでんいっちゃが。ボードの引継ぎ忘れならともかく」
日高は、蛍を慰めるかのようにフォローした。
「……」
「あの」
「……え? あ、なんでしょう」
蛍の心の中は、「やってしまった」という気持ちで占められていた。
実際誰かに迷惑を掛けたわけではない。
チェックインを担当した時任ですら、何とも思っていないこと。
日高は責めたいわけではなく、単に今後注意して欲しい。
その思いから蛍に伝えただけだ。
ただ、受け手である蛍にとっては違っていた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ……」
完璧主義。
他人が蛍を評すなら、こう言われることもあるだろう。
蛍はとにかく、自分にミスがあるとこの上なく落ち込んだ。
他人のミスには「次気を付けていきましょう」と言えるほど、すぐ切り替えられるというのに。
(あ、ヤバイかも)
「……ちょっと、復習しておいてください。日高さん、少しお手洗いに行ってきます」
「あ──」
「はいよ~」
日高は何となく察した様子で蛍を見送る。
赤神は心配そうに蛍を見送った。
「はぁ~~~~~~」
蛍はロッカーへと向かうと、自前のポケットティッシュを手にし室内の洗面台の前で涙を拭いた。
「…………おれってなんで、こうなんだろ」
紅い目元。
ほんの少し潤んだ瞳。
涙と共に出たであろう鼻水。
蛍の顔は、出社した時とは全然ちがっていた。
昔からこうだ。誰かに怒られたり、自分がミスをしてしまったり。
それどころか人と話したあとの一人反省会で、『言い方をミスったかもしれない』と思うだけで。
実際のところはともかく、人に迷惑を掛けたと思い込んでしまうと自然と涙があふれた。蛍がその涙のわけに気付くには、かなりの時間を要した。
「……はぁ」
自分の感覚と照らし合わせるように様々な本や他人の事例を読んで到達した答えは、『内なるもう一人の自分』が傷付いているということだ。
それはつまり、大人になって分別がつくようになった今の『蛍』ではなく、子供の頃に自分の感情を表すことのできなかった『我慢を強いられた蛍』。
彼が、泣いているのだ。
蛍の母親は、大人になった蛍から見ると『特殊』だ。
やっとの思いで生まれた一人息子は、どうやら母親にとっては宝物であり、同時に自分の若かりし時間と美しさを奪った仇敵でもあったらしい。
厳しく躾けられた。
休日に友人と遊ぶなど言語道断であるし、用もなく外に出ようとすると怒鳴られた。
習い事なんてもちろんダメだ。
四季で移ろうはずの庭の様子すら、通学の際に横目で見るだけになっていた。
それは自分を大切に思っているから、何か事件に巻き込まれないように。そう思ってのことだろうと幼いながら蛍は無理やり自分を納得させていた。
家にて彼女の監視の元にある内は、そういった面からも安心できるのだろう。
しかし、母親はひとたび機嫌を損ね感情に波が立てば真逆の相貌となる。
教育費についてだろうか。
給食や授業で使う道具の費用の話になると、『金食い虫』『疫病神』などと罵声を浴びせられ。
運動もせずお酒やタバコ、お菓子なんかを思うままに摂取するというのに、自分が太っているのはお前が生まれたせいだと罵られ。
絵を描けば『下手くそ』と罵られ、習い事や努力を許さないのに『お前に何らかの才能はない』と常々言い含められた。
母親としては蛍を本当に大切に想っているのだが、女性としては蛍が生まれたせいで自分が不幸であると思っていたようだった。
時には大切だと言う口で、『死ね』と言う。
子供にとって、大人は神様だ。
正しいし絶対の存在で、自分には出来ないことが出来る。
たとえそれが間違っていたことだとしても、大人になるまで気づけない子供が大半だ。
蛍は常に矛盾を抱えた神の元で生きてきた。
仮に疑問を抱いたとしても、自分の命を握る神に言い返せるわけもない。
神は、唯一の希望である父親の前ではふつうに振る舞っていたのだった。
むしろ神に抗い、恨みのような反抗心のような……そんな心を抱いていたら、また今とは違っていたのかもしれない。
矛盾した神の心の厄介なところは、どちらも『本当』のことだったからだ。
愛されているのに恨まれる。
早くから客観視することを覚え成熟した蛍の心は、『自分を大切だ』と思う心が本物である以上、恨むに恨めなかった。
結果、
──『どうして』そんなことを言うの?
その言葉を飲み込む日々。
幼い頃に抑えられた感情は、胸になんらかの塊として存在する。
それが大人になって『どうして』の意味が分かっていたとしても、ほんの少し心が揺れ動いたことがきっかけとなり、涙として溢れてくる。
蛍は育った環境から、よくもわるくも自分で考え自分でなんとかしようとする気持ちが人一倍強くなっていった。そしてそれが出来なかったとき、ひどく自分を責めた。
「……早く戻らないと」
もちろん、蛍は大人になってからは他人を頼った方がいいかもしれないと心の病院にかかったこともある。
特に困っていた部屋の片づけが出来ないことと、過眠。それらと自分の内にある問題。関連しているのなら専門家を頼った方がいいと考えた。
ただ、『自分』のことはおざなりなのだが、『他人』に迷惑を掛けないことに関してはあまりに完璧だった。
医師からは、
蛍の推論は恐らく当たっていると思われるし、プライベートで思うようにいかないことに困る気持ちも分かる。ただ、仕事でミスなく出来ていることは優秀で、少なくとも単身生活はできている。
気持ちは分かるが、働きたくても働けない。君より辛い思いをしている人が他にたくさんいる──
そう言われた。
蛍はその通りだと思った。
心はともかく五体満足。健康に生きてこられた。
手をあげられたことは数えるほどで、身体を傷付けられたことはほとんどない。
幸せだ。
自分は、幸せな人間であるはずなんだ。
だからこの問題は方法が分からなくても自分で向き合い、自分でなんとかせねばならないのだと。
蛍は溢れる涙をなんとか収めて、また事務所へと戻った。
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