霧中
十七 手のひらの上
ひんやりとした床に転がされていた。冷たさで目が覚めたのか、意識が浮上したら冷たいと気づいたのか。
こじ開けた瞼がひどく重かった。体全てが鉛のように重い。加えて、硬い床の上で長い時間同じ姿勢だったのか、腰や肩も鈍く痛んだ。ひとまず姿勢を変えようとして体を丸めたら、ジャラリと重たい音がした。そこで、足枷でもあるのかと自らの体に目をやってみて、ぎょっとした。
胸から
紫林である。瞬時に意識が引かれ、鎖そのもののことはひとまず後回しになった。
「おい」
傀儡は目玉だけを動かして捧を見た。死んだ魚のような眼は、起き上がる捧を捉えたらすぐに、無言でまた前を向く。
「聞こえてるのか」
「御用でしょうか」
「……どうなってるんだ、これは」
「これ、とは」
「…………鎖だよ」
本当は鎖ばかりではないが、仕方なく聞く内容をしぼる。ひとつひとつ尋ねていくしかないようだ。
「私の妖術です」
「オマエ死体なのに、術?」
「死体ではなく傀儡ですので可能です」
「じゃあ、鎖の役割は? 目的は?」
「あなたを見張るためです」
「見張る……」
「不審な動きをしたら妖術で引きます。そうすると臓腑を引きちぎられるような痛みが走りますので、ご注意を」
肝が冷えた。なんの変哲もなさそうな見かけによらず、というべきか、肉体から出ている異常性にふさわしく、というべきか、なかなかに物騒な代物だ。
「……ひどい拘束だな」
「拘束ではありません。鎖は伸び縮みするので身体の自由があります」
「ああ、そう……」
独り言にさえも返事をされて、脱力した。
「オマエさ、楽になれる場所に連れて行くって言ったよな」
「はい。砂京様のもとで、私はとてもよくやれていますから」
楽になれる場所、の着地点が砂京の支配下であることに、筋が通った。
「……紫林は、砂京の手下だったんだな」
「はい、私は砂京様の傀儡です」
強い忠誠心を持っていそうな彼は自慢げにしていた。
言われるがままに動いた果てが、鎖で行動を制限され、傀儡の監視つきとは――惨めを通り越して滑稽だった。
あの館が、由羅と寄り添って眠る夜がどれだけ心地よかったか、離れて初めて気づいたのだとしたら、愚かだ。しかも今捧は、ここから逃げ出して由羅の元へと行きたい衝動にかられている。もう戻れない、戻ってはいけないのに身勝手だ。
「何か不安なことが?」
「……ないよ、そんなもの」
「そうですか。とにかく、砂京様がおいでになれば、詳しいことがお話しされると思います。待ってください」
初対面のときよりも、態度が軟化している気がする。砂京のもとに無事帰ってきたからか。思ってから、ようやく、周囲をまじまじと観察するに至った。
殺風景な部屋だ。灰色の箱の中にいるような感覚がある。広くも狭くもなく、首を巡らせても何もない。
まさか、拷問部屋? ここに拷問する相手を閉じ込めて、外から様々の道具を持ってきて、痛めつける――。
笑えない想像をしたところで扉が音を立てた。開かれる金属板から姿を現したのは、砂京。
「手荒い真似をしてすまないね。傷はどうかな?」
言いつつ、全く悪びれた様子はない。扇を手のひらに打ちつけながら近寄ってきて、捧の正面に立った。
「傷……」
「肩に銃弾を入れたんだけれど」
「あ」
倒れる直前のことを思い出して、反射的に肩に手をやる。が、痛みはない。
「妖術を使わない治療だけれど、治りが早いだろう」
「ん……まあ……」
「いい薬を使ったからね。元々傷つけようとしてたわけじゃなかったんだよ、ただ道を知られたくなくて、意識を飛ばしただけなんだ。昏倒させる妖術は直に体内に入れた方がよく効くから、仕方なく。妖術入りの銃弾で」
「もうわかった。いい」
「ああ、よかった」
胸をなでおろす砂京。懸命に説明して誤解を解こうとしたらしいが、重要な点はそこではない気がした。
半端な間が場に流れる。どうしたものか迷っているうちに、砂京に先を越された。
「そうだ、捧くん、空腹なのではないかな? 正直に言ってくれて構わない」
「……確かに、腹はものすごく空いてる」
「だろうね。だから用意した」
砂京が後ろを振り返り、開いたままの入り口に向かって扇子を振れば、赤毛の小柄な娘が、盆に乗った食事を持ってくる。それが捧の目の前、床に直接置かれると、娘の体は霞に変わって消えた。彼女も砂京の傀儡であるらしい。
「どうぞ。ああ、毒は入ってないよ、食べてみせようか」
「ま、まだいらない。それより、話したいことが」
「冷めるよ? ほら食べたら?」
質問は受け付けないということか。
圧に負けて汁物を飲んだ。と、普通のものと同じ塩味の後に、謎の青臭さが舌に残る。続いて口に含んだ炒めものもやはり同じだった。単体の風味とは異なる何かが加わっている。
「……苦く、ないか」
「うん?」
「草みたいな。臭いも少しつんとする感じ」
「へえ、目ざといねー。入ってるよ、妖力を回復させる薬草が大量に」
「……どうりで……」
「渋い顔をされても困るなあ。うちの部下から妖力を融通するわけにはいかないんだよ、余りなんかない。君だって、見知らぬ相手と妖力の受け渡しをするのは嫌だろう? これが、考えられる中で一番マシな案だ」
その辺りのところはちゃんとしているのか。実力行使で拉致したくせに。
腑に落ちない思いを抱えながら、食べ物たちを手早くかき込んだ。時間をかけて味わいたいものではないし、無言の砂京の前で長々と食事をするのは、落ち着かなかったから。
器を全て空にしたら、砂京が立ち上がる。
「じゃ、対価も示したことだし仕事をお願いしようかな」
「仕事……?」
「説明するよりもやってもらった方が早い。ついておいで」
静かにしていた紫林が、捧の前に出て鎖を引いた。まるで家畜にするような呼び方だ。
砂京自身の方は、すたすたと行ってしまう。見失わないよう慌てて追いかけた。思い返せば、白梅楼で砂京と顔を合わせてからというもの、彼の先導について行ってばかりだ。彼の調子に巻かれて問いただすこともできていない。次は絶対に、と決心するうちに、砂京が止まって捧を振り返った。銀色の扉の前である。
「開けてごらん」
取っ手を引くと、重たい手応えとともに開いた。室内は明るく、中の様子が一望できた。
「……なんの真似だ?」
見慣れた景色とよく似ていた。中央に長机。隣に可動式の台。その上に整然と並ぶのは、ナイフや
「大急ぎで揃えたんだよ。外科手術の道具」
大変だった、とことさら見せつけるように、肩をすくめる砂京。
「今から持って来させるけど、とりあえず五人よろしく。終わったら紫林に伝えて」
「砂京」
「話はまた後でね」
軽くあしらわれる。捧は不満を口にできず、立ち去る砂京を見つめるしかできなかった。
「……紫林」
「はい」
「これ、一旦取ってくれ。動きづらい」
指で胸の鎖を示す。邪魔でたまったものではない。
「逃げるつもりですね」
「違う。手術するのに邪魔だろ」
「砂京様は許可していません」
「取れよ」
「できません」
「じゃあせめてお前だけでも、端の方にどいてくれ」
「……かしこまりました」
不服そうな紫林が部屋の隅へ歩く。「妙な真似はしないでください」と念を押しながら。
……捧は、この紫林という傀儡は、実はとても頭が硬いのかもしれないと思った。
そういえば、紫林の鎖が体から生えているわけだが、なぜ紫林の妖力が流れ込んだりしないのだろうか。全身の倦怠感を見れば、妖力が不足していることは明白だ。つまり、彼の妖力が捧に渡っていないわけだが、どういった仕組みなのか。傀儡に特有の性質なのかもしれない。
が、確かなことは何もわからない。
考えるだけ無駄だ。疑問も意思も、持つだけ無意味だ。必要とされているのは妖力を持たない外科医だけ。
思考に蓋をしてメスを手に取った。
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