六 商人の女

 彼女の訪問は、由羅が矢文を受け取ってからきっかり二時間後の、日が落ちようとする頃だった。

「あ、来た」

 由羅が来訪者に気づくと同時に、とてつもない勢いで、部屋へ薄紅の矢が飛んできた。床に突き刺さってしゅうしゅうと妖力の煙を上げる。

「あっぶないなぁ……」

「朱莉で決まりだな。待たせると面倒だ、行こう」

 急ぎ足で向かうと、一人の女が待っていた。

 受ける印象はまず、存在がとても静かだということ。口は真一文字に結ばれ、目も少しも揺れず、表情がまるで現れない。人形のような、という言葉があるが、まだ人形の方が感情がありそうだ。身なりはきちんとしていて、艶のある茶色の髪を結い上げ、細工が美しいかんざしを挿していた。

 手には短弓を携え、腰に空のえびら。本来そこには矢が数本あるはずなのだが、朱莉には必要ない。彼女の弓矢は、由羅たちに送りつけたように妖力の結晶なのだ。短弓は投げ上げられ、小さく火花を散らしながらほどけて消えた。

「おはよう、朱莉」

「こんばんは、由羅」

 朱莉は抑揚の少ない声で挨拶を返した。活動時間がずれている二人の挨拶は噛み合っていないが、さして関係ない。時間を問わず誰かしらが動いているこの街ではごく普通のことである。

 朱莉は、〝死神〟と最も大口の取引をしている商人だ。彼女の他に二人ほど、〝死神〟の取引相手はいるが、頻度も金額も彼女には到底及ばない。

「突然でごめんなさい。急用でどうしても来たかったの、許してほしい」

「大丈夫だ」

「朱莉、いいときに来たね。昨日新鮮なのが入ったばっかり」

「ああ、助かる。……でも、今日の用事は買い付け以外にもある。というか、そっちの方が本題」

「へえ。何しに来たの」

「君たちに少し、頼み事があって。話せば長くなるんだけれど」

「そうだな、ずっと立っていてもなんだから、上がってくれ」

 朱莉を応接間に通して、机を挟んで向かい合う。

「では要件をどうぞ?」

 捧が促すと、朱莉はまだためらっているらしく、控えめに言った。

「…………〝死神〟は、黄泉の先導はまだしてる?」

「黄泉の先導」

 捧は疑問を表すように、由羅は呟くように。朱莉の言葉を反芻した。

「誰か殺してくれってこと?」

 数秒の後に、こともなげに聞き返す捧。その顔はすでに殺し屋のものだ。朱莉が頷く。

「でも、誰がやったのか足がつくとまずい。だから、他人に見られず仕事ができる君たちに頼みたい」

 朱莉が立ち上がる。早口気味の口調は、何かに追い立てられているかのようだ。

「難しいとは思うけれど、どうか、お願い」

「…………すごい、朱莉が頭下げてる」

「見くびられたら負けが信条の、あの朱莉が……」

「商談の価値なしってオレたちの前じゃ百面相をしない朱莉が」

「演技か本音か怪しいな」

「……うっさい」

 朱莉が顔を上げた。声は心なしか、怒気を孕んでいるような気がする。

「あと、君たちに商談の価値なしと思っているわけじゃない。表情を作る必要がないと判断してるだけ。決して見くびっているんじゃなくて、私は私のために、表情筋を節約してる」

「はいはい、いつもの奴ね。でも、いきなり頭を下げられたからって引き受けられないよ。ねえ、由羅」

「ああ。朱莉が必死なことがわかっただけだな。いきなり言われたところで是も非もない。暗殺の依頼は基本、受け付けてないぞ」

 揃って朱莉を見返した。

「……そうだね。悪い、取り乱して変なことを言った。これを一番に出すべきだったよね」

 朱莉がおとなしいと、奇妙な感じがする。彼女は椅子に座り直し、懐から出したものを差し出した。

「前金。三百枚ある」

 札束であった。

「引き受けてほしい。完遂してくれたら、もっと払う」

「……いくら」

「この五倍」

「……待ってくれ、少し見ていいか?」

「どうぞ」

 朱莉は、相変わらずの無表情で札束を渡した。由羅が受け取り、油断なく釘を刺す。

「いいか、受け取ったわけじゃない。持っただけだ。まだ引き受けてない」

「わかってる。安心して」

「商魂たくましすぎる朱莉で安心できないから言ってるんだよ」

 捧も援護を入れる。そして、束の中ほどから札を一枚引き抜いて、いじくり回し始めた。

「透かし、ある。蛍光塗料も本物っぽい。特殊印刷はどれも綺麗だし、妖力も感じない」

「全部本物だとしたら、ちょっと寒くなってくるな」

 由羅がバラバラと束をしならせてめくる。全て、右上に書かれた数字は「五〇朋」、最高額面の紙幣である。大口の取引にのみ使われる特別なものだ。これが三百と千五百、合計で千八百枚もあったら、商店を一軒買っても釣り銭がたっぷり来るではないか。

 たかが一件の依頼、しかも前金にかける金額じゃない――二人の思いは全く同じだった。

「疑ってるの? |贋札《にせもの》のはずがないでしょ。君たちの信用を失うような真似を、私がするとでも?」

「だけど朱莉、この量は嘘だって思いたくもなるよ。あと無用心」

「私の懐なんて金庫と同じ。舐めないで」

「わかってるって……ていうか本物だといよいよ困る」

「そうだな。金を積まれてもできないことはできない。一回許したが最後、断れなくなって泥沼に嵌まるかもしれない」

「何しろがめつい商人だからねぇ。気をつけてないと手玉に取られる」

「褒めてくれてありがとう。けど、私は、君たちからぼったくるような真似は絶対にしない。これが私の本気なの。わかってもらえた?」

「…………ああ。だんだん、飲み込めてきた。つまりはそのくらいしてでも、なんとしても、その相手を潰したいわけだ」

「その通り」

「じゃあ殺す相手は? 早く教えて」

「相手……」

 朱莉が一度、目を伏せる。一呼吸分の間を置いてから、顔を上げ直した。

幽暗朔月ゆうあんさくげつの頭領」

 彼女の口からその言葉が出たとき。由羅も、捧も、確かに体を強張らせた。

 場の空気が、薄氷のようにぴしりと固まる。少し突けば簡単に割れるであろう沈黙を、破る勇気が朱莉には出なかった。どんな反応をするのか気になる好奇心と、やってはいけないという直感と、心の中に相反する感情が立ち上がる。

 そんな時間は、由羅が口火を切ったことで一瞬のうちに終わりを告げた。

「……正気か?」

「正気だよ」

「頭領なんか殺したら、組織がまるごと崩れかねない」

「崩れてくれたらもっと助かるよ」

「きっと報復がひどいぞ」

「来ないように君たちに言ってるの。一番腕が信頼できる殺し屋に」

「そりゃどうも。……にしたって」

 由羅は気がかりそうに隣の捧を見やり、また視線を朱莉に戻す。

「私たちの出自は知ってるだろう」

「そうだね、知っている」

「なら、少しは気を遣ったりはしないのか?」

「頭領と君たちの関係のこと? 昔のことでしょう。君たちが苦手としてるのは、実質、頭領の一人だけじゃない」

 言いながら、鉄仮面の朱莉も少し焦っていた。先ほどと変わらない様子に見えるが、確実に何かが違う。捧の方も、ただ話さないだけ、というより、話せないように見える。おそらくは、朱莉の口から出た組織の名前により――。

 まるで、怯える子供と、それを守るようにこちらを威嚇する大型犬だ。

 幽暗朔月。――華煌かこう、という組織の後身の組だ。二人がその名を恐れるのは単純、〝死神〟として独立する前は華煌に囚われ、自由を奪われていたから。正確には、幹部の部下と従僕だったらしい。朱莉も細かいことは知らないのだが、由羅と捧が結託して、幹部の支配から逃れるために反乱を起こし、やるなら徹底的にと他の構成員もすっかり追い出し、華煌の城だったこの館を我が物顔で使っているのだ。だから、華煌に対する感情は想像がつく。前に、壊したいくらいに嫌だったの、と尋ねたら肯定されたし。

「……他のところに頼んだっていいはずだ。どうして」

「暗殺を君たち以外に頼む気にはなれなかったから」

「…………」

 押し黙る由羅と捧を前に、朱莉は足を組み替えた。

「私は君たちならできると信じてる。逆に、君たち以外にはできないと思ってるよ。それに足りる理由はいくらでもある。例えば捧は、普段はメスしか持っていないようだけど、武器を振ったら文字通り血の海ができる」

「褒めても何も出ないぞ」

「由羅の姿眩ましの術だって本当に強い。よく会ってる私だって、この館に来たときにしか、君たちの顔がわからない。普段は全然思い出せないもの。話したことだけ、お情けで残ってるって感じ。そして幽暗と言えど、見えない敵になら対策なんて不可能。――ほら、君たちの出番、というわけだよ」

 それから、思い出したようにつけ加える。

「ああ、ごめん。君たちがもう引き受けたような言い方をしてしまったね」

「おい、悪いと思ってないだろ」

「うん」

「認めたな……」

 由羅は呆れ返って天を仰いだ。

「……朱莉らしくないな。報復で少しだけ動くことはあっても、自分から吹っかけるのはしないだろう。お前を動かしてる理由は、なんだ」

 どうにも奇妙だ。が、朱莉の態度はさらりとそっけない。

めいが関係してるの」

 朱莉の口から出る、妹の名。それは、もう深入りしてくれるなという言外の拒絶の合図だ。

 鳴という朱莉の妹は、とても重い病で常に床に伏しているという。会話もままならないほどで、食事もまともに摂れないらしい。見る限りでは、鳴を治すためならば、朱莉はどんな無茶でもしている節があった。鳴の薬を作るためにこいつの体を売ってほしい、それは困る、と〝死神〟と押し問答を繰り広げることもしばしばだった。

「家族思いはいいことだがな、いつもそれで黙らせればいいと思ったら大間違いだぞ」

「今日は聞き分けが悪いんだね」

「当たり前だ。臓器を買う理由と殺しの依頼じゃ話は別だ」

「知りたいなら、お得意の読心術でも使えば?」

「私は、知り合いには読心術は使わないと決めてるんだ。そもそもお前は、かんざしやらピアスやらで術避けを張ってるだろ。よく言うよ」

「そうだそうだ、装身具アクセサリーで妖術は弾いてるんだった。私に読心術は効かないんだった」

「白々しいな、茶番はいいから吐け」

「断る。君たちが聞いたって無意味なんだから」

「意味があるかないかは聞いてから決める」

「でも」

 平行線の言い合いが永遠に続くかに思われたときだった。

「ねえ、朱莉ってさ、妹が絡むといつもそうだよね。交渉を持ちかけてるようで、相手に言うことを聞かせることしか考えてない。金を積んだり条件を変えたり、話術で誘導してくる。もっとも今日は、言葉で揺さぶりをかける余裕もないみたいだけど。金で全部どうにかしようとしてる」

 捧の指摘は、声こそ小さくとも的を得ていた。

「……そうだよ。差し出せるものがもうない。君たちがほしがってるものは、私じゃ用意できないから」

「いくら朱莉でもセンは無理って?」

「不甲斐ないことにね。もしもの話は好きじゃないけど、捧のためのセンを報酬として示せたらいいのにと思ってしまう」

「必死だねえ、朱莉」

「必死だよ。……とにかく。君たちが積極的に殺し屋業をやってたのは、ずっと昔の、駆け出しのほんの少しの間だけだったし、今更こんなことを言うなと憤慨するかもしれないね。でも、どうしても頼みたいから金を積んでる。……どうかな? 今決断しなくてもいい、保留にするとかの答えでもいい」

 由羅は顎に手をやって考え込み、ちらりと捧を見た。さっきから気にしている様子で、頭の中では何を考えているのだろうか。気になっても、朱莉には預かり知らぬところである。

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