七 歯車を回せ

 朱莉はひたすらに待つ。答えをもらえるまでは一晩でも二晩でも待ってやるつもりだった。――が、椅子を立てる時は早く来た。

「受けるよ、その依頼」

「捧」

「由羅、いつも朱莉との取引はオレが決めてるでしょ」

「そう、だけど、」

「じゃあ由羅は? 行ける?」

「私、なら……平気だけれど」

「由羅がそう言うなら、オレもそうだよ」

 確固たる口調で、全幅の信頼を寄せていると示すように。ふわりと微笑んでみせ、朱莉に向き直った。

「朱莉、そういうことだから。これはもうもらうね」

 机の上に放置されていた札束を指差す。朱莉は頷きを返した。了解しきっていないような微妙な顔の由羅だけが、取り残されている。

「これだけの大金、逃すのは惜しいもの」

 捧が札束を掲げる向かい側で、朱莉が深く息をつく。石像のようだった表情が、ほんの少し、ひとつまみの砂粒ほどの安堵を帯びた。

「ありがとう。本当によかった、すごく安心した。断られたらどうしようかと……」

 胸に手を当てる仕草は、本当にほっとしているように見える。

「私の方でも少しは協力するよ。幽暗の地図とか、必要そうな重要情報は集めてる。役に立つと思うよ」

「準備が早いなあ……依頼主がやることじゃないのに」

「ん? いらないの?」

「そういう意味じゃないです、ありがたく、いただきます」

「君、冗談でも真に受けるよね」

 朱莉の冗談が本当にわかりづらいからだよ、と心の中で反論する。表情の読めない朱莉に言われると、どこまで本気なのか見当がつかないのだ。捧が冷や汗をかく向かい側で、朱莉は出し抜けに立ち上がった。

「じゃあ、少し射させてもらうよ」

「は?」

 唐突に脈絡を失った会話。椅子から離れて歩いていく、朱莉のきびきびとした動きは迷いを感じさせない。

 彼女が背筋を伸ばして前を見据えると、それを合図に、バチバチと音を立てながら、腰のえびらの周りに小さな稲妻がいくつも走った。稲妻の端を摘むように手を動かすと、淡い紅と白が混じり合った、一本の矢が生まれた。短弓につがえ、ぎりりと引きしぼり、どこか一点を見つめる。時が止まったような数秒の緊迫の後、弦を鳴らし、空気を唸らせて矢が飛んだ。――壁を突き抜けて。放たれた矢と同時に一瞬、焼けつくような熱風が吹き荒れた。

「……朱莉、かなり興奮してるね」

「だな。だからって、勢いでいきなり雷をぶっ放すな……」

 予告なしに爆発した妖力に、由羅と捧はすっかり驚かされて、揃いも呆れて朱莉を見ていた。

「すまない。捧の言うように、確かにすごく気持ちが高揚してる」

 申し訳無さが感じられない棒読みで、朱莉は二本目の矢を生み出して放つ。続いて、三本目も。辺りに雷電が溢れて、まるで窒息しそうだった。

「よし、ひとまず終わった。私の小間使いが、じきに資料を持ってやってくるはずだよ。伝えたいことは、全部それに書いておいたから、よろしく。あと、すごく多いから、整理は君たちでしてね」

 二人とも文句を言いたかったが、実害は及んでいないので我慢した。朱莉は時々こうなるのだ。いきなり矢を放ったのは、今日が初めてだったけれど。

「暇になったね……今のうちに、商品を見せて」

 来客のはずなのに、急にやたらと偉そうである。大商人の風格を醸し出して、朱莉はいいように二人を動かしてしまう。〝死神〟は抗わずに、朱莉を廊下へといざなった。

「そうだ朱莉、砂京さんに会ったんだけどさ、あの人、どうにかならないの?」

「……何かされたんだね」

「オレたちの居場所を他のとこに売ってた。もう四回? 五回? とにかく多すぎ」

 砂京は朱莉の夫である。この街で婚姻関係を結んでいること自体珍しいが、二人の間におよそ愛情が存在しないのも、さらに珍しかった。〝死神〟から言わせれば、朱莉と砂京の関係は、お互いの利害の一致だけで繋がっているにすぎない仮面夫婦だった。

「やめるように朱莉から言ってよ。朱莉の言うことなら少しは聞くでしょ、あの人」

「前に言って、断られた」

「つまり無理だって?」

「うん。諦めて」

 戸を締め切られたように、ぱたりと会話が終わる。予想は半ばついていたのだが、やはり気分が沈む。そんなうちに、〝死神〟が臓器類を保存している部屋の入り口に着いた。

「じゃあ、見せてもらうよ」

 古い蝶番が甲高く鳴いて、朱莉の背中は暗がりの中に消えた。〝死神〟は、することもなく取り残される。

 由羅がちらりと隣を見やれば、硬い表情の捧がいた。朱莉に見せていた余裕はもう剥がれ落ちていた。

「捧。おまえが今考えていること、当ててみせようか」

「……やってみてよ。読心術は禁止ね」

「ああ、使わなくたってわかる」

 捧と連れ添ってきた時間はきちんと長い。心の内に潜む迷いはもちろん、表情を取り繕うのをずいぶんと頑張っていただろうことまで、簡単に予想がついた。

「勢いで依頼を受けたものの、そろそろ後悔でもしたくなる、そんな頃じゃないか?」

 見つめ合うこと数秒。やがて捧が、負けた、とでも言いたげに、すいと視線を足元に落とした。

「……正解」

 ため息をついた横顔は憂鬱そうだ。

「幽暗朔月……まさか、やり合う羽目になるなんて思わなかった。もう永遠に関わらないと思ってたのに、ああでも、引き受けたのはオレだし……」

 後半は独り言になりながら、捧は煩悶に沈む。応接間では乗り気だったはずなのに、二人きりになると、弱い心が肥大してくるのだ。

「由羅は、怖くないの?」

「ああ。少なくとも、捧よりは怖がってない。もう決まったことだしな」

「そっか……」

「おまえが弱気なのに、私まで及び腰だったら、朱莉に顔向けができないじゃないか」

「……うう」

 由羅の幽暗への感情は、恐れは少なくて怒りが強い。だから抵抗は割と小さい。さっき居間で話していたときも、ただただ捧が心配だったのだ。笑顔の下に、固まりきっていない決心が潜んでいるのが見えたから。

 朱莉がいなくなってみれば、苦々しい顔を隠さない。他でもない捧が、幽暗に向かうと決めた事実が、引き受けられるという自信を雄弁に物語っているだろうに。

 どうにか葛藤を晴らしたくて、由羅は口を開く。

「やめる気はないんだろう?」

「うん」

「じゃあ十分だ、やれるよ。朱莉みたいなことを言うけどな、身構えなくてもいいんじゃないか? 今から行って決着をつけろなんてわけじゃない。第一、捧が大丈夫と言ったんだから、私も大丈夫だよ」

「何それ……由羅が先に言ったんでしょ」

「よかった。笑った」

 言われて、ぱっと自分の頬に手を当てる捧。

「ずっと思い詰めてて心配だったんだ。でもその様子なら平気そうだな」

 由羅も口元をほころばせる。彼の柔らかくなった顔を見たら、捧もふっと肩が楽になった気がした。お互いの言葉や振る舞いが反響しあって、胸中の波を静めていく。

「……そうだ。由羅がいるんだから、大丈夫」

 口にすると、確信が芽生えた。体の中に芯が通って、不安感も塗り潰されていく。いつも由羅の存在は良薬のように、捧の内側へ染み込んでいく。

「こういうのって、いつも後から来て、好き勝手やって、気づいたらいなくなってる。どうせ今日も同じだし。――うん、ありがとう、由羅」

 吹っ切れた捧が明るく言ったときちょうど朱莉が戻ってきて、決まったから来て、と二人を呼んだ。

「やけに間がいいな……まさか今の話、聞いてたのか?」

「なんのこと?」

「わかってないならいい。なんでもない」

 依頼を受けておいて、後から「やっぱり無理だ」と突き返すような真似、信用問題になる。今の会話も、受け取り方によってはそうなってしまうものだ。聞かれていないのならと安心した。

「よくわからないね、君たちは……」

 首をかしげる朱莉と連れ立って、倉庫の中へ入る。臓器が保存用の液に漬けられて並んでいる棚の前にやってくると、朱莉は片手を上げて指を一本伸ばした。

「ここからここまで、棚ひとつ分全部買う」

「はぁ!?」

 由羅と捧の声が揃う。朱莉が気前よく買い物をするなど、不信感を通り越して熱でもあるのかと疑いたくなる。気が動転するのを抑えられない。

「さっき大金を払ったのにか?」

「うん? あれは暗殺の対価でしょう。普通に買い付けでも来たんだから」

「にしたって多すぎなんじゃ」

「関係ない。今は気分がいいの」

「赤字にならない?」

「商人に向かってそんな言葉、余計なお世話」

 朱莉がふんと得意げに鼻を鳴らす。表情筋の節約と自ら言ったのに、ずいぶんと機嫌がいいようだ。

「悪い話じゃないでしょう」

「……どうぞ、お好きに……」

 朱莉の押しが強くて、おとなしく引き下がるしかなかった。

「『きちんと買ったんだから、きちんと仕事しろ』って圧を感じるな」

「そう思ってくれてもいいよ。さあ、約束の通り、幽暗朔月を潰して。やり口は不問。ついでに兵力も削ってくれたら報酬は弾む。こんな好条件はなかなかないよ? ――〝死神〟のお二人、期待してるからね」

「ああ、もちろん」

「完遂するよ」

 商人を相手に、〝死神〟は不敵に笑ってみせた。

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