潜心
五 矢文と来訪
なんのことはない、いつも通りの一日の始まりに思われた午後のことだ。
薄布を通して、柔らかな日差しが窓から差し込んでくる。温かい陽に包まれる部屋の中は、とても穏やかだ。街の喧騒も遠くに聞こえ、寝室にはゆっくりした時間が流れていく。
寝台の上に身を起こした由羅は、何を見るでもなく部屋を眺めていた。捧はまだ隣で寝ている。二人はいつも夜に動くから、目を覚ますのは夕方や、日が沈んでからである。少し早く起きてしまったか、と頭の隅で考えながら、二人分の布団の温もりの中、抜けきらない眠気に身を委ねようとした。
と、そのときである。壁を突き抜けて、細長い棒状のものが、由羅を目がけて飛んできた。
鋭く空気を鳴らして耳の横をかすめ、後ろの壁に突き刺さる。一瞬のことだ。ところが、今しがた通ってきた壁に穴は空いていない。物として存在していないのだ。
そろりと横を見れば、矢だった。薄紅色の煙を立ち登らせているのは、妖力の結晶でできたものだから。妖力の塊を直接寝室に投げ込んでくる者の心当たりは、一人しかなかった。
「はぁ、
ぼやきながら、軸を掴んで引き抜く。矢は、一気に全て火花に変わってほどけた。ぱさり、と手の中に落ちたのは、矢に結びつけられていた紙だ。
由羅はその手紙を開くと、文面にさっと目を通した。要件を把握したら、まずは捧を起こしにかかる。
「捧。捧」
「……んぅ」
軽く揺すると、ぐっと眉間にしわを寄せて、捧が目を覚ました。が、寝起きの悪い彼は、少しの身じろぎで体力を使い果たしたとでも言いたげに、動こうとしない。
「起きろ。朱莉が買い付けに来る」
「…………いつ」
「二時間後」
「………………」
寝返りを打って返事をしない。起き上がらせるのは無理だとわかっているので、由羅はさっさと一人で布団から出た。
自分の身なりを整えながら、捧の服や髪紐を寝台の上に投げていく。自分が使い終わったら櫛などの類も乗せていく。しかし捧は頑として動かず、由羅がすっかり支度を終えても、布団の上で座り込んでいるだけだった。
「……捧、こっち向いて。あともう少し近づいて」
見かねた由羅は、寝台の脇に立って捧を呼ぶ。ずりずりと捧が近寄ってきたところで、素早くその上衣を脱がせた。
「腕上げて」
「……ん」
動きが鈍くて、埒が明かない。
由羅が手を止めて前かがみになる。何かとぼんやり思う捧に、顔が近づき、唇同士が静かに触れた。捧は肩を小さく跳ねさせて、ぎゅっと両目をつぶる。ちりりと走る、痛みか痒みに似た刺激は妖力の流れだった。湿った舌が唇の上をなぞり、口内に入るか、入らないかのところをゆっくりと伝っていく。それを受け入れたくて口を開きかけた途端、求めたものはするりと逃げてしまった。
「ほら、目覚ませ」
由羅は顔の高さを合わせて、薄目を開けた向こう側の、菫色の瞳を覗き込んだ。
「……はい……」
捧の頬が一気に赤く染まる。ゆるりと頷いて、着かけた服の前身頃を強く握った。言われなくても、しっかりと目が覚めた。
満足げに笑みを浮かべ、由羅はくるりと踵を返す。
「もう起きたな? 早く来ないと、私が食事を作るぞ。構わないならまだ寝てるといい」
「なっ、ちょっと」
オレが作るから待っててよ、と慌てて言う。由羅はわざとらしく返事をせずに、黒髪を泳がせ部屋を出ていった。
一人きり残されて、耐えきれずまた布団に仰向けになる。両手で顔を覆えば頬が燃えるように熱かった。慣れない。いつまで経っても慣れない。不意打ちはずるい、だの、由羅は余裕綽々なのが悔しい、だの、胸中に渦巻く思いは様々だ。けれどもまずは、さっき彼がしていた後を追って、自分も舌を滑らせてみた。
「……おいしい」
唇の上に、彼の妖力が残っている。
甘いとか辛いとか、明確な味はしない。が、口の中にじんわりと広がっていく確かな感覚は、表すなら「味」に一番近かった。
眠いのは、妖力が足りないとかではなくて、ただ単に朝に弱いだけだ。それは由羅も承知の上だけれど、寝起きから構ってもらえて、少し得をした気分になった。
「よし、起きないと」
口に出して気持ちを切り替え、勢いをつけて身を起こす。さっきまでの強情さが嘘のように、捧は軽やかに寝台から降りた。由羅が朝食という名の謎の物体を作る前に、流し台に立たなければいけない。
……急いで居間に向かうと、由羅は料理をする気などないように、長椅子に腰かけて悠然と煙草を吸っていた。捧を見つけたらにやりと笑う。
「脅し、効果抜群」
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