二十二 変化、あるいは救いのような

 後から思えば、由羅はこのときに厄介払いをされたのだった。口ではなんとでも言える――母親への中身の伴わない愛の言葉も、上司が出した助け舟に乗った、嘘八百の告白も。父が関心を持っていたのはしょせん、遊女の女だ。母親の彼女にも、彼女が産んだ子供にも、興味は向かない。高い地位を持つ淵衰に媚を売るいい道具に使われた、といったところだろう。じんわりと、月日とともにわかってしまって、疑念は十分に長い時間をかけて確信に変わった。元から大した思い入れもなかった父の存在は、由羅の中でみるみる薄れていった。

 淵衰のもとでの生活は、悪くも良くもなかった。淵衰の部下が血まみれで話をしに来ることもあり、最初こそ驚いたが、慣れてしまえば平気になった。荒くれ者の集まりの華煌と言えども身内には甘く、由羅は何かと目をかけてもらっていた。母に会えない悲しみは消えなかったものの、これも時間が経ったらじきに慣れた。ずっと胸が痛むものだから、痛みと思わないのが普通になってしまったのだ。

 ひとつ、役に立ったことはある。妖術を教わったのだ。遊郭にいる頃から遊ぶ程度にいじったりしていたが、本格的なものを教えてくれたのは淵衰たちである。特に思考を読む読心術は、常に使って慣れておくようにと言われていた。

 由羅の目は、べっこう飴のような黄色。光の入り具合によっては金色にも見えた。個々の目の色は妖術の色と一致するので、彼の妖術は金色をしていた。炎という形によく合っていた。形が術に関係するわけではなくとも、由羅は自分の金の炎が好きだった。

 由羅の役目は、淵衰やその部下の仕事――主に何かの話し合いに同行して、相手の頭の中を覗き見ることだった。言っていることと思っていることが一致しているか、危害を加える意志があるか監視し、問題があれば伝える。重要な仕事だ。由羅の発言ひとつで、華煌の人間は話し相手への評価を変えた。

 常に話し相手の思考を見る由羅のことを、関わりのある者はほぼ全員恐れていた。後ろめたいことがなくても、由羅と話すときには緊張している。会話は短く、返事も淡白で、一刻も早く目の前から去りたいという気持ちを、由羅は毎回誰に対してでも見ていた。

 ただし淵衰だけは、由羅の読心術をなんとも思っていなかった。由羅は意識的に、淵衰には読心術を使っていなかったから。淵衰は由羅を華煌に引き入れた本人、心を読んで疑うまでもない――はずだった。

 ある夜、遅い時刻に、由羅は淵衰の部屋に呼ばれた。なんの用事か心当たりがなくて、けれども向かった。仕事は何も任されておらず、示し合わせたようにぽっかり時間が空いていたのだ。

「入ります」

 静かに扉を開けると、執務机には淵衰の姿はなかった。もっと奥の方にいるのかと、辺りを見回してゆっくり進んでいく。

 一ヶ所ずつ確認しながら最奥の寝室にたどり着けば、淵衰が待っていた。

「ああ、由羅。こちらへおいで」

「はい」

 深く考えずに、寝台の脇に立つ淵衰に近づいていく。――せめて、ここで気づいて何かしら行動できていたら、未来は違ったのかもしれなかった。

 警戒心などまるでない由羅は歩く。淵衰の手が届く、という距離まで来たとき、足を払われて由羅は体勢を崩した。

 視界が揺れる。背中が落ちたのは寝台の上で痛くはなかったものの、両の手首がまとめて掴まれ、頭の上へ持っていかれる。ぐ、と腕が布団に押しつけられて、異質な雰囲気にようやく気づいた。見慣れているはずの淵衰の笑いが、別物のように恐ろしかった。

「え、淵衰様」

「いつ見ても、遊女の息子というだけあって、美しい顔だな」

 ひっ、と喉の奥が鳴った。

 骨ばった手が服の内側に這い入って撫で上げてくる。背筋がぞわりと怖気立った。

「はな、離して」

 押さえつけられた手首はびくともしない。本能的に体をよじるが、腰にあてがわれた手に封じられた。

「最初にお前を見たときから、今日を待っていたんだ」

 やめてくれと叫びたくても、舌が乾いて声が出なかった。帯に手がかかり、するりとほどかれる。迷いのない慣れた手つきだった。

 逃げたい、と心の底から思った。嫌だと心の底から思った。そして叶わず、由羅の素肌は淵衰へと晒された。

 ――そこからは思い出せない。正確には、思い出したくないから、忘れたと嘘をついている。

 抵抗も虚しいものだった。疲れ果て、前後不覚で眠りに落ちて、目を覚ましたのは真昼。転がり落ちるように寝台から出て、足に力が入らず床に座り込んだ。体中、色々なところが痛かった。もちろん心だって痛かった。

 触られた場所は汚い手垢がついている気がしてひどく気持ち悪い。頭から水を被って体を洗いたい気分だったが、淵衰の部屋の風呂場を使う、ひいては裸になるなんておぞましくて、できなかった。腹部にも違和感がある。内蔵も筋肉も骨も一回取り出して、すすいでから戻したいくらいだ。ついでに記憶も流せたら、どんなに楽だろうか。

 淵衰に抱いていた好感が、全て猛烈な嫌悪に裏返った。

 騙された。面倒を見る? 欲望を満たす道具がほしいだけだったではないか。書類仕事も諜報活動も、本当の目的ではなかった。父親の手で淵衰に引き渡されたときから、狙われていたに違いない。由羅を欲のはけ口としてしか見ていなかった気持ち悪い視線、吐き気がする。

 常に読心術を使えと言われていたのだから、彼に対してだって使えばよかった。……今更後悔しても遅かった。ことは起きてしまった。

 しばらく放心していたが、慌てて服を着た。折よく淵衰が外出している幸運、逃すわけにはいかない。一心不乱に部屋を飛び出した。

 廊下を走り抜けていっても、声をかけられたりはされなかった。すれ違う相手は、皆一瞬は由羅を振り返るものの、急いでいるんだな、とか適当に判断して、また前を向いてしまうのだった。

 ひとまず外へ出た。丁寧に剪定された庭の低木が、温かい陽光を浴びてまどろんでいた。穏やかな昼下がり、沈着さを失っているのは由羅だけだった。

 意味もなく左右を見回す。探し物なんてないのに。すると頭の中に、妙な考えが浮上した。

 確か医者がいたはずだ。つい最近、噂を耳にした。訪ねていけば診てくれるかもしれない。

 この鈍い体の痛みは、診察を受けてすぐに取れる類のものではないだろう。理解していても、動かずにはいられなかった。

 藁にもすがる思いで屋敷を歩き回り、ときには走った。外縁部に沿って、なるべく人目を避けながら、かすかな記憶を頼りに診察室を探した。古ぼけた建物の中にいるとか――。

 みすぼらしい建物を見つけるたびに中を見る。毎回、物置と化して誰もいない空間に失望し、再び探すことになるのだ。

 歩けば歩くほど、荒らされた体に響く。早く、早くと焦るほど見つからない気がして、しかし急ぎたいのも切実で、やきもきしながら足を動かした。

 ちらりと掘っ立て小屋が見えた。相変わらず見た目は悪いが、今まで見てきたものと比べると大きい。

 今度こそ、と祈りながら近づいてみると、果たして――一人、屈強そうな守衛が、建物の前に立っていた。由羅を見ると、彼は軽く会釈をしてきた。

「入るぞ」

 少し緊張しながら守衛の前を通り過ぎる。何も言われない。

 壁紙の剥がれた壁を見つつ、両脇に埃が積もった通路を抜け、奥へと進んでいく。金属製の引き戸が並んでいて、内側は手術室になっていた。人影はない。全ての部屋を覗き込むのだが、いつしか期待が失望に負けそうになっていた。妖力の気配がない。入り口にいた守衛の妖力が遠ざかるばかりだ。妖力に敏感な由羅の感覚は、淵衰に無体を働かれたからとて弱ってはいなかった。

 本当に誰もいない。だったら守衛はなんのために配置されているんだと疑問が浮かんだ。

 諦めたくなったとき、折よく廊下の終わりに突き当たった。何度か曲がり、枝分かれしながら建物の中を走っていた道も、ここで終わりだ。

 一気にどうでもよくなった。どうせきっと、この部屋も外れなのだ。空っぽの手術室を最後に見るだけ見ておこう。半ば惰性に任せて中を見た。

 ――部屋は、無人ではなかった。

 床に直接座っている、すり切れた衣服を着た痩せた青年。伸び放題の艶のない髪は老人のように白く、菫色の目が、不思議そうに由羅を見ている。

 彼の姿を認めた瞬間、体の内から衝動が突き上げてきた。「こいつ」なら全てどうにかしてくれる、と、根拠のない確信が体を突き動かした。足はもう大股で歩き出していた。彼が何者かなど、神でも魔物でもどうでもよくて、思考する余裕さえなかった。

 薄い胸板を手荒く床に押し倒し、勢いのまま手を伸ばす。無心で掴んだ先は、左手は手首、右手は首。肌と肌が触れた途端にずるりと、体の中の何かが引かれて抜けるような、妙な感覚に襲われた。今にも濁流が溢れそうな水路の水門が開き、汚れた水が一気に流れていく光景が思い浮かぶ。不快感を流して、押して、出して、追い払って――時間にすればほんの数秒だったが、由羅には途方もなく長く感じられた。額に汗が滲む。昨夜からずっと支配を受け続けているようで、嫌でたまらなかったのだ。消し去りたくて歯を食いしばる。

「あの」

 ――下の方から声がした。組み敷いている彼のものだった。

「何か、御用ですか」

 怯えた目が由羅を見ていた。やっと意識が彼に向くと、読心術が働いて、思考が脳内に押し寄せた。

『嫌だ』

『誰』

『何をしに来たんだ』

『怖い』

『掴まれたところがおかしい』

『嫌』

『許してください』

『痛い』

『いたい』

 あ、と由羅の口から声が漏れる。会って早々にわけのわからないことをしてしまった。怖がられて当然だ。

『オレ何かしたのかな』

『ごめんなさい』

『離してほしい』

 口を引き結んだ彼の思考は、困惑と謝罪に染まりきっていた。

 由羅は静かに身を起こし、手を離した。

「……起きろ」

「は、はい」

「逃げるなよ」

「……かしこまりました」

 こわごわと床に座り直した彼の、細い腕をまた掴む。なおも、体の奥から水が流れていくような感覚は続いている。

 時間が流れた。二人はどちらも喋らず、重たい静寂の中で、手と手首だけが接触している。

 やがて、由羅の方が長く息をついた。流れていく感覚が緩やかになって、もういいか、と気分が落ち着いたのだ。

「お前、名前は?」

「…………捧、と、いいます」

「捧。突然悪かった。驚いただろう」

「い、いいえ……あの……」

 答えに詰まった捧は、もごもごと口の中で声をこねて、結局何も言えなかった。

 由羅は、今になって襲ってきた自責の念でいっぱいになって、すっかりうなだれていた。これでは淵衰と同じではないか。顔を合わせた途端に、相手のことを考えず強引に――

「本当にすまない」

「いや、気にして、ないので」

「嘘をつかなくてもいい」

「……?」

「私は読心術が使えるから」

「……どくしん」

「他者の思考を読む妖術、といったところだ」

 そんなものが、と驚く捧の思考も、由羅には見えていた。

「嘘はつくだけ無駄だ。だから気にしないで、正直にものを言ってほしい」

 我慢比べのように無言で見つめ合った後、捧はうつむいてぽつりと零した。

「……怖かったです。なんだったんでしょうか、痛いのは……」

「たぶん、妖力の流れだ」

 昨夜の、忌々しい出来事で知ってしまった感覚だ。こんなにも早く思い出す場面が来ようとは、忌々しい気持ちが湧き上がってくる。ぼうっとして、あの、と言った彼に意識を引き戻される。

「自分、妖力がないんです」

 唐突な告白に、聞き間違いかと耳を疑った。彼は少し多弁になっていて、読心術によれば、謎の焦りを持っていた。

「よく、わからないんですけど、センが、ないらしくて。ええと、あなたの不調が、妖力によるものなら……お力になれると、思います。……妖力のことは、自分が手伝えるかもしれないし……入り口の守衛には、何か言われましたか?」

「いや、何も」

「じゃあきっと、大丈夫です。ここにはほとんど誰も来ませんから。特に昼間は……少しなら休憩できます。たまには、ここに、来ませんか」

 頭がくらりとした。そんな錯覚がした。

「空の手術室なら、たぶん見つかりません。……出過ぎた真似、でしょうか」

 遠慮がちに見てくる彼は、内心では思っているのだ――『やっと会えたこの方を引き止めるためなら、なんだって言える』と。

 弱みにつけ込むような真似をするのが後ろめたい。それでも、ちくりと痛む心を抱えながら吐いてしまった。

「……とても、助かる」

 嘘ではない、嘘ではないのだ。ただ、自分が支配する側になりつつあるのが恐ろしかった。彼自身に魅力を感じているのも確かだ。妖力を持たない、反抗する能力を持たない、絶対に裏切らないと約束された弱すぎる存在。それが自ら懐に転がり込もうとしているのだ。

 父親や淵衰と同族だ、と理性が警鐘を鳴らすのに、すでに本能は止まる気など捨て去っていた。本当に、何かに寄りかからないと壊れそうだったということを、言い訳でしかないとわかりつつ免罪符にした。

「あの、お名前は?」

「……由羅」

「由羅様。いつでも、来てください。自分は必ずここにいますから」

「……うん」

 由羅が葛藤しているのに、捧の声は穏やかだった。

 心地がよかった。不器用なりにも、由羅を好意的に気遣ってくれる捧の存在が本当に温かくて――由羅を騙してくる上司より、淵衰の名を聞いただけでよそよそしく馬鹿丁寧に扱う周りの構成員より、何も持たない彼の方が、由羅に寄り添ってくれるのではないかと期待した。

「捧、もう少し話して――」

 そのとき、チリリン、と鈴の音がした。由羅のもとからしていて、よく見れば、帯に結びつけられた鈴がひとりでに震えて鳴っているのだった。

「……呼ばれてる」

「それは」

「用があるときにだけ、私の上司の術で鳴るんだ」

 一気に気持ちが沈む。早く行かなければ、淵衰が機嫌を悪くして面倒なのだ。後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。

 捧も立ち上がり、必死そうに由羅にすがる。

「由羅様、また来てくださいますか」

「必ず来る。……あと」

「はい」

「次に会うときには、私に敬語なんて使うなよ」

「え」

「それじゃ」

 「次」を約束できたのが嬉しかった。

 建物を後にしてから、医者のことをすっかり忘れていたのに気づいた。元は医者を探して歩いていたのに。けれど探さずとも、わかっていた。

 建物の中の設備は、埃にまみれていたが、外科手術に使うものに見えた。噂の医者とは捧で間違いなさそうだ。それに、想像していたやり方とは違ったものの、彼は由羅の不快感を取り除いてくれた。体のみならず、心までも。

 向かう先には淵衰が待ち受けているといっても、捧のおかげで乗りきれそうな気がした。

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