二十三 裏側に生まれた平穏
由羅の手術室への来訪は、すっかり日常の一部となった。まだ手術の始まらないうちは、二人が身を寄せ合って暇を潰せた。捧へと急に手術の指令が飛んでも、最近「姿眩まし」を覚えた由羅は、誰にも見つかることなく手術室から去ることができた。
由羅はいつも、ふらりとやってきて、「捧」と名前を呼ぶ。一方、最初のように朝方に駆け込んできて、手荒く捧の腕を掴むこともあった。
妖力のことで切羽詰まっていない限りは、ただ並んで座り、話しているだけのことが多い。時々、もらった妖力で簡単な術を試したり、由羅が持ってきた飴玉を食べた捧が、甘さに目を輝かせたり。捧にとっては新しいことが目白押しで、由羅に会うのが毎日本当に楽しみになっていた。
あるとき思い立って、言ってみたことがある。
「オレ、由羅に会ったことがある気がする。会った、っていうか、見た、だけど」
「へえ、いつ?」
「前の手術。……滅多に来ない上司が来たからすごくよく覚えてる。あれ、由羅かな? ……ん、由羅?」
彼は今までで見たことのない、とても険しい顔をしていた。まずいと直感し、反射的に謝罪が口をついて出た。
「申し訳ありません」
「おまえは悪くないよ」
捧が頭を下げるよりも早く、由羅は痩せた彼の体を抱きしめて、身動きを封じた。
由羅の頭の中に渦巻いていたのは、何度も味わっていながらまたも感じる、淵衰への失望だった。華煌に来てからやけに妖術を褒められるが、捧の言うのが本当に由羅のことだとしたら――彼の手術で、由羅はこの無尽蔵の妖力を手に入れたのかもしれない。
薬でも盛られて、眠りこけている隙に捧の元へ運ばれて、手術が終わったら淵衰が迎えに来たのか。全て憶測にすぎないものの、怒りが抑えられない。感情を表に出したばかりに、何も知らない、命令に従っているだけの捧を怯えさせたことに罪悪感があった。
暗い話もしつつ、日を重ねるごとに二人の仲は深まった。態度はお互い柔らかくなって、最初は一歩引いていた捧も、自分から妖力を求めるまでになっていた。
「由羅、もっと多く妖力を渡す方法って、ないの」
重ねた手のひらを握り、離し、握って、を繰り返しながら問う。手でも足りるのだが、捧には好奇心があった。
「――あることには、ある」
「えっ」
捧は目を輝かせて、由羅の腕にすがりついた。
「由羅、お願い。教えて、その方法」
「……口」
「口?」
「口移しだ。私も経験がないのだけど……たぶん、間違ってないはず」
気まずさに目を逸らして教えた。あの上司のせいで、残念ながら知っている。体の内部に直結する場所からは特に妖力が流れやすい、といった法則も予想がついていた。憎たらしいくらいわかりやすい。
「それだけの理由でやることじゃない。手でことは足りるんだし、嫌なことはしないで――」
「ううん、いい。由羅となら嫌じゃない気がする」
喉が詰まった。
捧も同じなのか。読心術を使えばわかるのに、できなかった。もしも違っていたら、妖力のことだけを考えていたら、という考えが頭をよぎり、ほぼ常に使っているあの妖術を意識的に止めてしまった。
沈黙に別の意味を見たのか、捧が早口で繕った。
「う、あ、由羅が嫌だよね」
「いや、違う」
勢いで口にして後悔した。捧は妖力を望んでいるだけかもしれないが、由羅は割り切れていなかった。
最近になって、手術室を訪れる目的が、次第に「淵衰から逃げる」から「捧に会う」に変わっていた。答えは出きったようなものだが、とにかく、欲が出ていたのだ。
自分が淵衰にされて嫌だったことを、彼にできるはずがない。程度は違っても、本質では同じだ。しかし望まれてしまったら――。
「妖力があると本当に体が楽で。少しでもほしい…………余ってるんでしょ。お願い」
由羅の中の何かが、パリン、と砕けたようだった。
知らず知らずのうちに、ここを境界線としていた自分に初めて気づく。どこで育った意識かはわからないが、踏み越えてしまったらもう止まれないことを直感した。
誰にも、淵衰にすらまだ奪われていない唇。
捧の顎の下にあてがった手が、震えそうになるのを必死で抑えていた。
割れ物に触れるような、控えめで、柔らかくて、浅い口づけだった。
誰かはそれを、厄災の元凶と言うだろう。またある誰かは、起きてはならないことだったと評するかもしれない。
しかし由羅は、そして捧は、口を揃えて言い切るはずだ。
「自分の世界が変わった瞬間」、と。
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