二十四 理不尽は降りかかる
「お前、おかしいぞ」
唐突に老爺が言った。日課の外科手術を終えて片付けをしている最中、時刻は正午を回った頃だった。
「おかしいって、何も変わらないだろ」
「いや」
やけに確信めいた声音だった。捧の心臓はどくりと音を立てる。心当たりならひとつしかない、由羅だ。
「お前の妖力、どこから手に入れている?」
「え」
「気づいていないとでも思ったか。儂がどれだけお前の手術を見てきたと……」
老爺はため息混じりに頭を振った。
「お前は妖力がないから重宝されているのだぞ。自殺行為を見逃すことはできん」
「それは」
「あの御方に会うのは好きにしろ。だがな、自分の立場をよく考えた方がいいぞ。忠告だ」
老爺の眼光は、いつもより鋭く見えた。
「今日も剣術の稽古があるのだろう? 片付けは儂がやる。早く行ってこい」
促されるまま、捧は部屋の隅に立てかけていた木刀を手に、手術室を出た。
この頃、突然に剣術の稽古が始まった。毎日、手術が終わった後は華煌の者と手合わせをしている。腕の向きがどうの、足運びがどうのと注意されるのかと思ったら、勢いで戦っても何も言ってこない。
剣術の稽古は、捧がいる外科手術棟の裏手の空き地で行われる。この埃だらけの小屋に、外科手術棟などと大層な名がついているのを知ったのは、稽古が始まってからだ。
それにしても、と出入り口までの短い距離を歩きながら考える。華煌は捧に何を求めているのだろうか。たかが外科医が、本物の戦場で役に立てるとは思えない。華煌の剣客には全勝しているが、彼らは手加減しているのだろう。だから、剣術の心得がない捧でも勝てるのだ、きっと。
捧を見張る手術棟の守衛は、今日も岩のようにただ立っている。入り口を出ていくとき、ちらりと捧に目を向けたが、何も言わず視線を戻した。
手術棟を出て裏に回る。と、辺りの様子が普段と違うのに気づいた。人が多い。ざっと見渡しても二十人くらい、空き地を囲んで立っている。いつもは監督役が一人と、打ち合いの相手が一人か二人なのに。戸惑いを隠せず木刀を握りしめたところで、二人の女の会話が耳に入った。
「え、あんな小僧が? 何かの冗談?」
「でも、
「嘘じゃないのお?」
「ほんと、ほんと」
二人の女は、好奇心と恐れとを半々に、捧の方を見やった。頭に視線を感じて、縮こまるようにうつむく。
女たちの会話が、頭の中でぐるぐると巡る。本気の打ち合い――なんだか、想像していた話と違う。捧がそんなに強いはずはないと思っていたのに。自分の能力を過信するのは怖くて、まさか、と否定の言葉が脳を満たす。
固まっていると、いつもの監督役が捧の肩を掴んだ。
「今日は、何があるんですか」
……無視された。
捧には、何ひとつわからないまま突っ立っていることしかできない。一分一分がいつもよりひどく長かった。
「淵衰様の秘蔵っ子……楽しみだな」
「ああ、待ち遠しくてたまらないよ。任務で
耳を塞ぎたいくらいだったが、身動きをしてはいけないような気がして、ただ歯を食いしばった。
嫌な予感がした。淵衰、秘蔵の子、妖術――手術棟に軟禁され、他者との交流が少ない捧だが、一人だけ心当たりがある。可能性に気づいたら血の気が引いて、予感が外れるように、別人であるようにと必死で願った。万が一ここに連れて来られたら、彼に武器を向けねばならない。木刀だとしても絶対に避けたかった。
しかし、信じたくない勘ほど当たってしまうのが世の常である。
ざわ、と観客が揺れた。捧も、皆が見ているのと同じ方向へ目をやった。
歩いてくる人影が二人。
無意識に足が後ろに下がった。最悪だ。――淵衰と、由羅だった。
監督役が捧を見下ろしたが、淵衰に怯えたと思われたらしい。由羅とのことは悟られなかった。
淵衰に送り出されて、由羅が空き地の中央に立つ。監督役も、捧へと空き地を顎で示した。
「昨日と同じにやれ」
「……はい」
指示には逆らえない。重たい足を引きずって前に出た。
由羅と向き合ったはいいものの、始め方がわからない。そもそも妖術使いと戦うのが、初めてのことだ。観客の視線も痛い。
木刀で敵うものだろうか。始まる前に武器が勝手に折れてくれはしないか。そんな突飛なことが起きてしまえば楽なのに。
ありえない妄想に逃げていると、由羅の靴が地面をこする音がして、びくりと肩が跳ねた。
由羅は捧の横まで来ると立ち止まる。肩に手を置いて、耳元に口を寄せて、捧にしか聞こえない声で囁いた。
「私たちのことがバレる。本気でやって早く終わらせろ」
「え、あ」
何か返そうと思った。けれどうまく言葉にならなくて、しかも由羅は元の位置に戻ってしまっていた。結果としては、観衆に変な想像をされなくてすんだのだが、強く寂しさを覚えた。刀の柄を強く握り込んでいるのに、動こうという気が起きなかった。
由羅は割り切っていると見えて、早くも片手で空中に弧を描いていて術を使う姿勢だ。動け、動けと心の中で叫んだら、足はもつれながらも後退を刻んでくれた。
前に出てくる由羅を相手に、捧はよけるばかり。追いかけてくる金色の炎はひとつの生きた怪物に見えた。手術室で見せてもらったときは綺麗だったはずなのに。彼の妖術を怖いと思ってしまって、自分を責めたくなった。
「何を言ったんだろう? ものすごく怯えてる」
「作戦のひとつかもな。さすが、淵衰様のもとで諜報をしてるだけある」
野次がうるさい。絶え間なく耳に入って集中力を削いでくる。
「手加減不要!」
「やっちまえー!」
誰に言っているかは知らないが、できるわけがない。少なくとも捧は、由羅を相手に剣を向けるのは無理だ。けれど立ち向かわなければ、観衆が期待しているのは、きっと「淵衰の教え子と戦ってあえなく敗れる捧」であり、「妖力を持たない者を圧倒する由羅」だから。
こんな最低な見世物、早く終わらせたい。適度に観客を満足させるには、捧も少しは抵抗するべきなのだろうか。とはいえ木刀では妖術に敵わなくて――燃やしはせずに炎が木刀を包み、進む方向を無理やり変えてきて、振り下ろすことを許さない。
体をひねれば、捧がいた場所へ由羅の術が襲いかかる。あれに呑まれればくだらない打ち合いも終わるのに、向かっていく気にはなれない。
などと、慣れない考え事をしながら動いていたせいか、何もない場所でずるりと足が滑った。転ぶことなく持ち直したものの、前には由羅がもう迫っている。目を焼く金色がひらめくのが、くっきりと、やけに遅く目に写った。
抑えきれない恐怖が反射的に、無意識に、炎を退けようと防御の結界を張った――由羅からもらったごく少ない妖力で、由羅から教わった妖術を、とても脆い金色の壁を作った。その壁が観衆の目に入るより早く、由羅の炎が捧を覆い隠す。「案外熱くないんだな」と感想を抱いたのを最後に、捧の意識は途絶えたのだった。
時間にして、約二分。
「なーんだ、結構あっけない」
「こらお前、淵衰様の前で……」
「あっ」
「よい、よい。構わぬ。さて由羅、見事だったぞ」
「恐縮です」
由羅はとっさに深く腰を折った。自分の手で捧が地に崩れ落ちる景色は、いつも通りの振る舞いを貫くには難しい衝撃を伴っていたから。顔が地面に向いているうちに急いで表情を固めて、違和感を与えないよう姿勢を戻す。
淵衰に見せる微笑が引きつっていないか、由羅には自信が持てなかった。
気を失っている間に、いつもの手術室まで運ばれたらしい。床に横たわって見る換気扇の向こうの空は、橙色をしていた。
隣には由羅がいた。壁に背中を預け、片膝を立てて座っている。
「……ねえ、今、何日」
「日付は越えてない。夕方だ」
「そっか……」
体を起こしても、痛むところはなかった。もしかしたら打ち合いの最中でありながら、由羅は気を遣って、あまり辛くない術で気絶させてくれたのかもな、とぼんやり思った。
覚醒が進むにつれて、ふつふつと怒りが湧いてきた。どうせ部屋にいるのは由羅だけで、他に外科手術棟に滞在しているとしても、同じ外科医の老爺か捧に無頓着な守衛くらいのもの。我慢する理由はない。
「なんなんだよ!! オレや由羅のことを、なんだと思ってるんだ! 闘犬みたいに扱って、それでケラケラ笑ってるんだぞ!? ふざけるなよ……!」
声を荒げても虚しいだけだった。胸の底の無力感は払えなくて、喚くのはやめた。
と、由羅が居住まいを正して、捧、と呼びかけた。
「ごめん。あんなときとはいえ、術を浴びせてしまって、しかも気絶なんて」
「え、あ、大丈夫、気にしてないから。オレも、由羅に刀なんか向けてごめんなさい」
お互いにぎこちなく謝ると、少し空気が緩んだ気がした。どちらからともなく「水に流そう」といった雰囲気が流れる。
「由羅、淵衰は?」
「他の幹部に呼ばれて、どこか行った。私は着いてくるなと言われたし……時間がかかるらしいから、つい、ここに」
「そっか。じゃあ、日が沈みきるまではまだ大丈夫かな」
捧が、由羅と過ごせる時間の長さに嬉しくなって、顔をほころばせたときだった。
「ほう、ここにいたか」
手術室の入り口の方から、男の声がした。二人の背筋が凍りつく。そろりと振り向けば、立っていたのは淵衰だった。
「由羅、探したのだぞ」
「……すみません」
「心配をかけてくれるな。しかし、よりにもよって外科手術棟とはな。さては、昼間に捧が妖術を使えていた理由もお前だな?」
見られていたなんて、と絶望した――色が似ているし一瞬のことだったから、知られていないと思ったのだ。室内へ数歩入ってきて、由羅に手を伸ばしかける。捧は後先も考えずに立ち上がっていた。
「ち、違います!」
捧の存在をやっと認識したように、淵衰が捧を見る。由羅に災難が降りかかるのは避けなければと、とっさに嘘をついた。
「あれは、ここの守衛からもらってて」
「黒、橙、青」
弁解は即座に淵衰に遮られた。並び立った語の意味がわからず面食らう。淵衰は目を細め、苛立ちを滲ませながら続けた。
「なんだかわかるか? ――外科手術棟の守衛の、目の色だ。言わずともわかっているだろうが、妖術の色は目の色と同じになる」
取り返しのつかないことを言ったと悟った。体の特徴と妖術の特徴の話なんて、初耳だった。
「由羅」
威圧的な声音が、彼への要求をよく表していた。
「……私の、妖力です」
うつむいた由羅は無抵抗に、今まで隠し通せていた事実を、自らの口から告げた。
「せっかく妖力がない者が妖力に触れてしまうのは、私が困る。わかるな? 由羅」
「はい」
「ならば、謝ってくれればよい」
言葉に含まれているものを感じ取った由羅が肩を震わせた。捧には見覚えがあった――身の内に暴れる妖力をどうにかしようと捧を訪ねてくるとき、そして夜中に帯の鈴が鳴って呼ばれたときに浮かべる、あの表情だ。
捧がいるから耐えられるんだ、と話してくれた記憶が脳裏にひらめく。捧のところには来られないとなれば、体の負担は計り知れない。そしてきっと、おこがましいけれど、心の痛みも。
目の前では、由羅を引き連れた淵衰が去ろうとしている。もう隠せなかった。
「待って、由羅! いかないで!」
淵衰が軽く指を振った。
直後、腹に拳を叩き込まれたような衝撃が走る。吹き飛ばされた先で、背中と腰が砕けそうなほど強く壁にぶつかった。
淵衰に肩を掴まれながら、由羅は今度こそ手術室を出ていった。
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