《幕間》夕景

三十四 家族

 朱莉は階段を登っていた。

 香鈴館の本店のすぐ隣にある屋敷が彼女の自宅だ。誰も彼も家を豪勢にしたがる中、朱莉の邸宅はこぢんまりとした二階建てで、装飾も少なく、比較的地味だった。

 家の中に、仰々しい調度品はない。無駄に飾り立てない部屋からは、節約をしているのが見て取れる。淡白な彼女の性格が現れた空間だ。

 ここに住んでいるのは朱莉と、妹の鳴の二人だけ。一階には炊事場や風呂、二階にそれぞれの自室がある。その妹の自室を目指して、朱莉は今夜も足を動かす。

 鳴を見舞うのは、長く繰り返している朱莉の習慣だ。仕事を終え、帰ってきて鳴に会ってから、食事などをすませて一日を終える。朱莉は、鳴が病に罹ってから、一度たりとも見舞いを欠かしたことはなかった。遠地での仕事があっても、空を翔けて自宅へ帰り、鳴の様子を見てまた仕事に戻るといった徹底ぶりだ。

 鳴の部屋の前に立つとき、いつも心に訪れるのは、淡い希望と、かすかな諦観と。今日こそは回復して、元通りの姿になっていてほしい、と願う隣で、「きっと今日だって変わらない」と無意識のうちに思ってしまっている。そんな自分が嫌いだった。

「鳴、入るよ?」

 驚かせないよう気をつけながら、静かに中に入る。いきなり部屋の照明をつけてはまぶしいから、指先に灯した小さな光を頼りに歩く。部屋はよく整理されて生活感がないほどだが、寝台の周りだけは、物が多く置かれて雑然としている。物を蹴ったり踏まないように、細心の注意を払う。

 寝台には厚手の天蓋がかかっていて、立っているだけでは中が見えない。朱莉は静かに歩み寄り、垂れ下がった布を手で避けて、中を覗き込んだ。

 差し伸べた指の先、蝋燭のようにか細い妖術の明かりが、「それ」を黄昏時の暗がりから浮かび上がらせる。昨日と変わらない、異形と成り果てた妹の姿を。

「鳴……」

 床に座り込む。重たい布が肩にかかった。

 寝台の上にあるのは、妹という言葉からあまりにも外れた体――体かどうかも怪しい何か、だった。

 まずは形だ。どこが頭で胴で腕で足なのか。目と鼻と口はどこについているのか、それらしき窪みや突起は一見しただけでは見当たらない。子供が適当にこねて、飽きて放り出した粘土のようだ。表皮は気味の悪い暗赤色。場所によって濃淡があり、脈打つ血管がところどころで浮き出ている。その線が一定の時間ごとに動いているのが、生命活動が行われている証拠だ。さらによく見れば、表面は大小の腫れとこぶが連なって、でこぼこといびつな山と谷を繰り返している。

 異様なのは、見た目のみならず気配もだ。禍々しさを煮詰めに煮詰めた、忌避感をもよおす瘴気が漂っている。もちろん出所は寝台の中、ひいては鳴だ。朱莉は慣れたが、初めて対面する者はきっと手で口元を押さえることだろう。

 朱莉と血縁があるから、本来の彼女は朱莉と同じような人の姿をしている。それが、今は重い病に身を支配されて、こんな有様になっているのだった。

 手だか足だかはたまた腹か、もう見分けもつかないけれど、体の一部に触れる。何か言おうかと思ったけれど、考えつかなくてやめた。具合はどう、などと話しかける日もあれば、話しかけない日もあるのだ。

 今まで数え切れないほどの医者に診せてきた。薬師も、妖術使いも、誰もが「自分にはできない」と言い置いて部屋を出た。

 病状については朱莉も聞いている。体内で複数の妖術や呪詛、低級の妖怪と体の組織が癒着して、簡単には切り離せないまでになっていること。恐ろしい見た目もそうした体内の変化の影響だということ。治る見込みは少ないこと――うんざりするほど聞かされてきた。

 それでも朱莉は諦めたくないのだ。鳴は生きている。彼女の血は通っている。ならば再び、元気な姿を見たい、一緒に笑い合いたい。その思いで毎日を生きている。

 鳴のためなら魂だって売ってやる。だから、どうか――

「朱莉」

 突然に、自分の名前の形をした音の連なりが、鼓膜を打ってきた。

「……砂京」

 振り返れば、部屋の入り口に夫が立っていた。

 朱莉はあの日、白梅楼で由羅を見送ってから、一日に一通、砂京に矢文を送っていた。気分は重かったが、仕事を抜けるわけにはいかないし、砂京の方に、朱莉の都合に合わせてもらうしかない。ところが返信は一回も来なかった。

 長い一日を繰り返すうち、由羅が「捧と帰ることができた」といった内容の手紙を送ってくる方が先になったくらいだ。返信に、何があったの、と文面で聞こうとして思いとどまった。巻き込まれた、被害者の立場の二人と何往復も文字のやり取りをするより、元凶である男を口頭で詰める方が道理にかなっている。

 今回の幽暗朔月の頭領殺し、及び〝死神〟の間に生じた謎の亀裂に、砂京が絡んでいるのは確定している。朱莉であれば、彼を呼び出すのは極めて容易だ。由羅への返事は手短なものにし、根気よく一日一通の手紙を送り続けた。

 当の砂京は、一度も返事をしなかった。が、今ここに朱莉の前に立っている。何日も待たせて、やっと答える気になって、自宅を訪れるという行動で示したわけか。

「時間ができたから来たよ。話って?」

 思考が現実に引き戻される。知らず知らずのうちに布団を握りしめていた手から、力が抜けた。

「……鳴に聞かせたくない。一階でお願い」

「わかったよ」

 彼が階段へ向かったのを見て、朱莉も仕方なく立ち上がる。最後にまた鳴に視線を戻した。

 回復してはいないものの、悪化もしていない。きっと苦しいだろうと思いを馳せ、一日でも早く楽にしてあげたいと今日も祈る。

「絶対に、治すからね」

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