三十三 帰る場所

 背後の砂京には目もくれず、二人一緒に踏み出したときだ。

「待ちなさい」

「ああ?」

 届いた呼びかけは紫林のもので、由羅が返事をした。

「本当に、砂京様の手先になるつもりはないのですか」

「なんだ、まだやる気か?」

 伸ばされた手に、バチバチと金色の星のような火花が散った。紫林は動じる素振りを見せない。

「これ以上の戦闘は、砂京様も望んでいません。私を出しているだけでも危ない状態です」

「そうまでして話すことなんか、もうないだろう」

「いえ、ただ、最後にもう一度だけ確認を、とのことです。こちらに来ませんか。私からも申し上げますが、本当によろしいのですか? 砂京様が申し出ているのに」

「何度も言わせるな。断る」

 響いた靴音は、捧に歩み寄った由羅のもの。消耗した体に障らないよう気をつけながら、捧の肩に手を乗せる。

「私は捧と行く」

「…………」

 紫林は背を向けると、投げやりに吐き捨てた。

「幽暗朔月の一般兵があなたたちに及ばないことは、前回で知っています。砂京様の気が変わらないうちに、早く去りなさい」

「気が変わるかもしれないのはこっちだろう」

 捨て台詞を交わしたら早々に退散する。床に放置していた袋を由羅が肩に引っかけた。今は、一刻も早く館に帰るのが第一の目標だ。

 手を繋ぎあって、捧が入れられていた部屋を出た。姿眩ましも忘れず使い、廊下を歩いて図書館へ。

「外、こうなってたんだ」

 捧は驚きのため息を零す。由羅に手を引かれながら、物珍しそうに首を巡らせていた。

 地上階へ繋がっている通路を、指先に明かりを灯した由羅の先導で進んでいく。上げ蓋に通じる階段の手前で立ち止まった。

「行かないの?」

「上げ蓋に妖術がかかってる。幽暗の奴が開けるまで待たないといけないんだ」

「わかった」

 暗闇の中、並んで階段に腰かける。由羅は痛み止めの薬を取り出して、ぐいとあおった。

「……まっず」

「早く帰りたいね」

「ああ」

 由羅は、傀儡と戦っている最中にかなり怪我を負っていた。妖術で傷口こそ塞がっているものの、全身がまだ痛むのだろう。平気そうにしている横顔をひそかに眺めた。

 と、その由羅が捧を見た。二人で顔を見合わせるかたちになる。

「ごめん、蒸し返すけど……捧、ひとつだけ聞いてもいいか?」

「ん、何?」

「さっき、砂京に『洗脳が本音』みたいなことを言ってたけど」

「ああ」

「あれは、どういう……?」

 由羅は不安そうに首をかしげた。

「オレもよくわかってないんだけどね……館を出て行った日に」

「うん」

「由羅が買い物に行ってる間に、紫林が来て」

「え、結界は」

「知らない。なんか抜けてきた」

「…………」

「そのときに、オレに話しかけてきたんだ。よく覚えてないけど、ものすごく吐き気がする感じで……『ここにいたら駄目なんだ』ってことしか考えられなくなった。後から思い返したら、おかしかったなって。紫林が何かしてたんだと思う」

「そんなことが……」

 今となっては、何が起きていたのか、もう確かめることもできない。とても小さな、たったそれだけと一笑に付すようなことにつけ込まれてしまった。

「あのとき、幽暗から帰ってきたばっかりで、少し落ち込んでたのもあったかな。ほんと、どうでもよかったよなあ……」

 しばらく、肩を由羅へと寄りかからせていた。

「あ、来た」

 図書館の方から歩いてくる構成員がいた。もちろん二人には気づかない。その構成員の後について階段を登り、難なく地上階へと出た。そこからはもっと簡単で、すぐに出口へと向かうことができた。

 塔の外は夜だった。細い三日月は明るく、濃紺の夜空を、砂金をまいたように星たちが点々と彩る。よく晴れていて、久々に見た外の世界はとても美しかった。

「はあ、よかった」

 由羅はほっと息をつき、そして捧を横抱きにした。

「ちょ、いいよ由羅、走れるって」

「走らせたくない」

 由羅は聞かなかった。軽やかに家々の上を駆けて、あっという間に館へ着いてしまう。玄関の前でやっと地面に降ろされた。

「久しぶりだな……」

 捧は思わず呟いていた。とても懐かしくて、自然にその感情が湧いた事実に心が震えた。

 一歩中に踏み込むと、まだ部屋は遠いというのに、力が抜けてへたり込んでしまった。

「もしかして、無理してたか?」

「平気。でも安心したら、なんか……」

 腰を引きずって壁に寄りかかると、由羅も隣に座り込む。

「捧、おかえり」

「……ただいま、由羅」

 互いに背中に手を回して、きつく、痛いほどに抱き締めあった。腕の中の存在をただ確かめた。まるで永遠のような時間だった。

 呼吸と、心音と、体温と。ありふれたものだけで、ひどく胸が詰まるのだ。

「ねえ」

「ん?」

 由羅が体を起こす。視線が絡んだところで顔を寄せれば、捧の唇が、由羅の口元をかすめた。妖力の乾きが埋まるのをを求めてしたのではない、純粋な愛撫だった。

「ありがとう」

 湿った熱を含んだ、かすかな囁き。触れたところが甘く痺れたようなのは、きっと妖力のせいだけではない。

 特に深い意図はなくて、感謝を示そうとか、好意を伝えようとか色々思ったら、無性にそうしたくなったのだ。ごく近い場所にある由羅の顔は朱に染まっていて、捧も同じくらい赤くなっていた。

 由羅が捧の頬を包み込んで手のひらを添える。指の腹で耳の裏側を撫でて、甘噛みするように接吻キスをした。開かれた上下の口唇が捧のそれを包み込み、ゆっくりと閉じて離れる。はっと熱い息をついてもう一度重ね、貪り合うように舌を絡ませた。熱い息が混ざり、透き通る唾液が混ざり、喉から体内へ妖力が下っていく。そのうちに捧の目の縁から涙が溢れ、煌めきながら流れ落ちた。

「なんか、また、泣いてる」

 手の甲で雫を拭えば、口元が勝手に弧を作った。

 全身を巡っている熱につけるべき名前を、捧は知らなかった。名前がなくたっていいと思った。由羅と捧はここにいて、確かに思いを通わせているから。

 この感情は二人だけのものだ。正しいものか異常なものか、知ったことではない。とにかく馬鹿みたいに、わけもわからず涙が出てくる。

 やめどきがわからなくなって何回も繰り返していたら、次第に息が続かなくなってやっと止まった。

「……もう、寝よう。とりあえず」

「でも風呂が……飯も……」

「できる?」

「うう」

 決めかねて、由羅の背に回した手に力を込めるばかりだ。すると体の下側に手が入り込んできた。

「ちゃんと掴まってろよ」

「おわっ」

 横抱きで持ち上げられる。寝室まで運ばれて、布団の上にそっと降ろされた。

「由羅も疲れてるのに、さっきからずっとオレばっかり」

「いいんだよ。世話されてろ」

 続いて寝台に上がって、全身でしがみつくように、足を絡め捧を抱きしめた。

「由羅、」

「私もおまえが足りてないんだよ」

 額を捧の胸に押しつけた彼のもとから、ぐす、と詰まった水音がした。

「泣いてるの?」

「ちがう」

 ――違うのなら、そういうことにしておこう。

 顔を見られないのを幸いと、捧も由羅を抱きしめ返した。せっかく止まり始めていた涙が、今にもまた溢れそうだったから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る