三十五 交差しない夫婦

 朱莉が頻繁に立てる誓い。あれではまるで呪縛だと、砂京は思う。

 治してあげる、と約束しているのを何度耳にしたことか。妻があの肉塊を未だに妹として扱う姿勢は、正直なところ馬鹿らしく見える。

 今も、話を聞かせたくないと言って砂京を部屋から追いやった。初めて言われることではないが、砂京からすればお笑い草だ。鳴には耳がないのにどうやって聞くのか。たとえ聞こえていたって、脳が働いているかわかったものではないし、百歩譲って鳴が話を聞いて理解したとしても、いつまで覚えていられるものか。だから、聞かせる聞かせないという気遣いも、無駄なことだと思うのだ。

 砂京のようには割り切れないところが、なんとも彼女らしいのだが。

「愚直なのも可愛いんだよね」

 本人は聞いていないからと、口に出してくつくつと笑った。

 椅子に座って待っていると、ほどなくして朱莉が階下にやってきた。砂京と向かい合う形で、もう一脚ある椅子に収まる。

 砂京が二人がけの長椅子に腰かけていても、朱莉は決して隣に並ぼうとはしない。

「朱莉、何度も矢文を送らせてしまってごめん。返事をしなかったんじゃなくて、できなかったんだ。首を斬られてね、骨までいってたんだよ。治療班のおかげで早めに治ったけど、一人だったら妖術使い通しで十日はかかったはずだ」

「……そう。なら、いい」

 先手を打てば、砂京は目に見えて安心していた。

「それで話って?」

「この前のことに決まってるでしょう」

 朱莉の表情が固くなる。寝台の前で鳴に話していた名残が抜け落ちて、いつも通りの、それかいつもより上の無表情が顔に貼りつく。

「私は〝死神〟に依頼をするだけでいいって言っておいて、何? 白梅楼で捧を雇ったり、由羅の相手をしたり、聞いていた話とかなり違う」

「それは……」

 はあ、とひとつため息を落とした。何を疲れたような顔をしているのだ、朱莉のほうがよほど振り回されて疲れているのに。

「想定外の展開ばかり重なったんだ、無理ってものだよ。最初からして、幽暗の頭領がいない、なんて異常事態だったし。紫林は徹頭徹尾の役立たずだし、あの子はまた改良しないとだ。捧くんだって言うことが矛盾していた。細かくは省くけど、困ったよ。極めつけは由羅くんだね。絶対に敵に回したくない。できることなら味方がいい」

「……言い訳は終わり?」

「そうだね、今のは言い訳だ。まあ今回は、対策するための情報を得られたと思おう」

 砂京はいつも、大抵の物事に大して楽観的だ。この街に似つかわしくない思考回路だが、逆に、そうであるからこそ彼は今日まで生き残っているのかもしれない。

 砂京は話しそうにない。であれば朱莉の番だ。呼びつけた理由を突きつける。

「どうして捧が君のところにいたの?」

「ああ、それ……」

「白梅楼に捧が来た時点で、おかしいとは思っていた。でも、来ただけじゃまだ幽暗の件と関係があるかはわからない。様子を見ようと思って数日待ったら、今度は捧がいなくなってる。……従業員に聞いたら、君だと言ってた。教えて。捧を連れて行った理由は?」

「捧くんが僕の手元にいてくれたら、朱莉にもいいんじゃないかと」

「は?」

「朱莉は、捧くんに切らせた臓器が気に入ってるだろう? いつでも近くにあったら嬉しいだろうな、と思ってね、少し交渉したんだ」

「馬鹿言わないで。交渉? 脅迫の間違いでしょ」

「まさか。ちゃんと交換条件はいいものを用意したよ。あの館から僕の方に移ってくれるように」

「……でも、決裂した」

「残念ながらね」

「当たり前でしょ。たかが君程度で由羅に勝てるはずがない」

「やけに信頼してるね。でも捧くん、紫林に本心を聞かせたら、離れたいって思っていたんだよ」

「本当に? 君の尋問は荒いのに」

「ちゃんと相手を気遣ってやってるって」

 ぬけぬけと言う砂京。朱莉はその言葉が、真っ赤な嘘であることを知っている。だいたい紫林に聞かせたとかいう「本心」の真偽も怪しい。紫林は、主人が気に入る答えを持ち帰りたいばかりに、荒い手段で、催眠まがいの誘導尋問ばかりするのだから。相手の意識の空白に入り込み、あることもないことも口走り、強引に言うことを聞かせる。そんな傀儡に任せてなお、素知らぬ顔で「本心」と言い張る、砂京の図々しさが憎らしい。

「不思議だったよ、捧くんの考えていること。由羅くんと離れなければならないのに、彼と一緒にいるんだ、って。よくわからなかった」

「君が人のことを言えたものじゃないでしょ」

「何が?」

「考えがわからないってことが」

「僕の考えほどわかりやすいものって、なかなかないよ」

 砂京は溶けるように、ふっと微笑む。

「朱莉が好き。朱莉のためならなんだってできる。ずっとそれだけ考えている」

「………………」

 無言を貫いた。相槌さえ打ちたくなかった。こいつに取り合ってはいけないという、半ば本能的な意識があった。

 朱莉に無視されるのもいつものことなので、慣れきった砂京は、ごく軽い調子でさっさと喋る。

「そう、あと由羅くんもほしかったんだけど」

「はぁ!?」

 朱莉は椅子を蹴って立ち上がった。

「聞いてない」

「だって言ってないもの」

「そうじゃなくて、どうして、言わなかったの」

「秘密にしておいたら、朱莉の驚く顔が見れそうだから」

「…………そうだよね。君は、そういう性格をしてる」

「わかってもらえて嬉しいよ」

 目眩がするようだった。砂京が嬉しげに笑顔を浮かべているのが、彼の望む通り、自分が「驚く顔」を見せてしまったらしいことを示していた。

「何を、やってるの……」

 この男はなんて愚かなのだろう。相手のことをよくも知らないで、博打のような強行突破を仕掛けるなど。そして――計画性もなく、卓越した策謀の感性があるわけでもない、力ばかりの彼を頼っている自分は、なんて愚かなのだろう。

「あれが、相方と離れるはずが、ないじゃない」

 どうにか言ったが、砂京はわかっていないようだった。

「まあ、置いておいてだよ。あの子が僕の傀儡になったら、すごく強そうじゃないかい? そもそも彼自身の持っている妖力がとても多いし」

「だからって」

「自分の欲望のために動く。お互い様だと思うけどねえ」

 言い返せなかった。それはこの街の基本原理であり、砂京はもちろん、朱莉とて例外ではない――譲れないもののためならどこまでも必死になるのだ。好いた相手や家族が絡めば手段を選ばない。常人の皮を被った利己主義者、という意味では似た者同士だ。

「ああ、〝死神〟への依頼は放置しておいてね。向こうが嫌だと言ってきたらまた考えるよ。もっとも報酬に目が眩むだろうけど。だいたい、僕が依頼したからなんだというんだい? 僕が〝死神〟をほしがっていることと、僕が幽暗朔月を奪いたいことは、直接関係していない。少し考えればわかることだ」

「うん、まあ……」

 どこか腑に落ちないが、砂京の言うことは間違っていない。

「〝死神〟が頭領を排除してくれれば、万事問題ない。外からやってきた不届き者が頭領を殺したのなら、内乱を疑うより、何者かが報復を加えたと考えるほうが自然だから。ましてや、組織が生まれる前から同行している『忠実な部下』である僕が、なんて……夢にも思わないだろうね。さらに相手はあの〝死神〟、調査は不可能だ。探ったところで、切り刻まれて商品にされるのが関の山。そして頭領が死んだとなれば、順当に行けば副頭領が次の長になるけれど……幸いにして、副頭領は長い間空席だ。頭領が殺された混乱に乗じて、その座を奪ってしまえばいい」

 聞いていて、朱莉はふと不安になる。今まで何度も、彼を見ていて感じてきた不安だ。

「ねえ、本当に、君が幽暗朔月の長になれば鳴の治療法がわかるの?」

「愚問だね。わかるよ。少なくとも僕の見立てではそうだ」

 砂京が椅子から立って朱莉へ歩み寄る。彼の首飾り、数珠繋ぎになった黒水晶が、ぶつかりあって小さく音を立てた。

「頭領と治療法の間にはなんの関係もない。けれどもある程度大きな組織の長は、会合に招かれる。様々な事業あくじに手を染めている有力者が、この街の外からも数多く集まる。医者の連合も会員のひとつ、立ち回り次第で、名医に話をつけられる可能性は高い」

「前にも聞いた」

「うん、前にも言った」

 砂京が手を伸ばして、朱莉の髪を指ですくって耳にかけた。

「朱莉、君のためだよ」

 衣ずれの音がする。朱莉はそのとき、砂京が距離を詰めてくる気配を目ざとく感じ取り、素早く手首を掴んで彼を止めた。

「ん、何」

「どさくさに紛れないで。今、やりかけたでしょう」

「……駄目なの?」

「駄目」

 愛情表現なんてさせるものか。拒絶しておかないと、後で困るのは自分なのだ。雰囲気に流されるなどもっての外、はっきりと口にしなくては。ほんの時々、稀に、この男はこういうことを仕掛けてくるのだ。理解に苦しむ。

 悪びれてもいないのが、前と同じことでありながらまた頭にきた。平然として、許可も取らずに押し切ろうとする。相手を不快にさせたいのならまだしも、朱莉に向いているのが純然たる好意であるから面倒くさい。こんな奴に気に入られても、迷惑だ。

 ……などという朱莉の思いを、砂京が知るはずもなく。

「僕たちは夫婦じゃないか」

「紙切れ一枚のつながりで何を言うの?」

 無法地帯の中華街では、婚姻にあまり意味がない。とっくの昔に形骸化した制度で、遠くない未来に廃止されそうな気配まである。そもそも法の方が、暗黒街に入りたがらないのだから。出生、死亡、婚姻、その他の届出は、受理こそされるが、当局で管理されているかはかなり怪しい。

 街の外の者とやり取りする可能性も考えれば、何が役に立つかわからない、と言いくるめられて署名こそしたものの、心も体も許した覚えはない。

「何様のつもり? ふざけないで。……ああもう、早く離縁したい……」

「朱莉」

「何!」

「僕がいなかったら、鳴は今頃死んでいるよ」

 声は静かに響いたものの、確かに焦っていた。離縁、の言葉は、本当によく砂京に効くのだ。

「だから僕を捨てちゃ駄目だ、わかってくれ」

「理解してる、理解してても、嫌いなものは嫌いなの」

「…………そう」

 砂京は少しの間落胆してから、すぐに顔を上げた。朱莉としてはきつめに言ったつもりだったのだが、切り替えというか、立ち直りが相変わらず早い。

「新しい術避けを作ってきたんだ」

 鞄をごそごそとやって小さな箱を取り出す。差し出されるそれを、朱莉は一応受け取った。悔しいことに、砂京が持ってくる装身具アクセサリーはどれも、意匠は美しいし術避けの品質も高くて、使い勝手がいいのだ。品物に罪はないから普段から身につけている。

「ピアスは四個めだね。次は何がいい?」

「特にない。というか、そろそろ足りてきたから平気なんだけど」

「それはなし。僕が渡したくて渡してるんだから。……あとは、そうだなぁ……」

「話がないなら帰って」

「え、でも」

「ないんでしょう? 帰って」

「……うん」

 少し強めに言えば、砂京は大抵聞き入れてくれる。名残惜しそうな足音を聞き、玄関の扉が閉まる音を聞き、訪れた静寂の中で、朱莉は背中を丸めた。

 椅子に深く座り直す。夕食を作って食べる気力は、なかなか出なかった。

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