三十一 単純明快な
彼はきしんだ扉へ虚ろな目を向ける。ぱち、と一度まばたきをして、息を呑んだ。
「さ、きょ」
「捧」
「……由羅?」
問う顔は今にも泣き出しそうに見えた。
「幻覚とか、タチ悪、」
「幻覚じゃない」
「……来ないでよ」
言われたところで、止まる気はない。歩く足が自然と早くなる。拒絶の言葉とはこれほどに心をえぐってくるものなのか、と改めて痛感した。
来るなと要求しながらなお、本気ではないように――苦しそうに見える。都合よく見間違えただけかもしれないけれど、どんな小さな可能性にだってすがりたかった。
前からの違和感は未だある。拒絶を口にしながらも、明確な嫌悪は表に出ない、その矛盾の正体を確かめないことには引き下がれない。
「なんで、ここに」
「色々やって突き止めた」
気味悪がられはしないかと思うが、今更だ。来てしまったのだから。
「館を出ていったときに、いつもと違って見えたから心配で」
「それだけで?」
「うん」
読心術は使わない。捧自身が言ってくれなければ意味がないし、思考という一番私的な領域を土足で踏み荒らせるほど、由羅の神経は鈍くない。
床に膝をつき、荷物の中から太刀を一振り取り出して示した。
「刀、置いて行かれても困る。……それと、話がしたくて」
返事を待つ。捧は何かを言いかけようとして、形にならず口を閉じ、視線を泳がせてから、弱々しく首を横に振った。
「由羅、すぐ逃げて、まだきっと間に合うから」
「はあ?」
「もたもたしてたら殺される」
「なら捧も!」
手が差し伸べられる。しかし、館を出てきたときと同じ、捧は彼の手をまた取れない。
「なんで!」
「オレは大丈夫だから。由羅、早く行って」
「行かない」
「ねえ、ほんとに、死ぬよ!」
「どうでもいい! 私は来たいから来たんだ。嫌ならさっさと突き放してくれていいから」
「……聞くこととか、ないでしょ」
「あるよ」
由羅は断言し、何日も抱え続けた問いを投げかけた。
「どうして、急に出ていったんだ? ……責めるとかじゃない、ただ、知りたいだけ」
本当は「知りたい」どころではすまないが、誤差だと自分に言い訳をしておく。答えによっては、刀を渡して由羅が一人で帰るか、捧を連れ出せるか、未来が分かれる。
捧が声を発するまでには、長い時間がかかった。間を持たせることもできずに、沈黙の重さに潰されそうになりながら、考えて、やっとのことで小さく言った。
「……行かなきゃ、って思って」
「ここに?」
「……そんな感じ。来れば苦しくない……楽だって言われて……ついていった」
紫林に問い詰められたときはそうだった。由羅に頼りきりが苦しくて、負担になっていそうで嫌だった。
「由羅とオレの、お互いのためだったはずなんだ。……最初は、そう言われてた。でも、もうわからない。……わかんなくなった」
由羅に会ったから、とは口が裂けても言えなかった。彼のことだから、きっとこんな折でも読心術は使わないのだろう。短い台詞のために捧の内心へ浮かんだ無数の考え事は、誰にも知られることなく消えていくのだろう。だからきちんと、まとめて形にして伝えなければ、と思うのにひどく、難しい。頭の中身が蒸発してしまったように空っぽで、もうひとつだって出ないように思われた。
駄目だと感情ばかりが先走る。あんな理由にもなっていない適当な答え、満足できるはずがない。なのに由羅は、深く聞かずに頷いたのだ。
「なら、捧はどうしたい?」
あまりにも静かに、そっと尋ねられたものだから。耐えられなくて、感情が決壊してしまった。
「由羅、もう、なんで……!」
熱い。見えない。目の奥がつんとして涙が溢れる。
「なんでオレに構うの! 全然役に立たない、邪魔にしかならないのに! 妖力をもらって、
支離滅裂な思考のままに、大声が流れ出てくる。止まらない。どこにあったのかすらもわからない、けれど言ってしまえばとてもよく腑に落ちる思いが、次から次へと。
「ごめんなさい。ずっと、オレなんかが、由羅を……今だってこんな役立たずなのに、何もできないのに、助けてほしいと思ってた。来てくれて嬉しくなった。由羅のためとか言っても結局全部、自分勝手なんだよ! ……だから、オレはいない方が」
いい、と続けようとしたら、急に片頬に何かが触れた。ちりりと妖力が流れる感覚がする。温かくて、少し骨ばっていて、でも柔らかくて――由羅の手のひらだった。
「それだけは、言わないで」
由羅の方まで震えた声をしていた。彼の琥珀の瞳は、晴れた朝焼けの空のように澄んでいた。
「迷惑じゃないし、邪魔でもない。信じてくれ、本当に、そんなこと思ってない。自分勝手? ……いくらでも付き合うよ。好きにすればいい、捧になら私はついていける。
由羅の指が涙を拭い、離れる。反対の頬を伝った雫は一滴、二滴と顎から落ちた。
「……どうして」
声は掠れていた。やはり、やはり捧にはわからないのだ。
「由羅は、そこまでしてくれるの」
す、と小さく息が吸われた。
理由なんて簡単だ。至極単純な、無上の感情。
「好きだから」
捧の目が見開かれた。その菫色から目を逸らさないで、一言一言を大切に声にしていく。
「妖力は渡すし、
「由羅、」
新しい涙がまた、じわりと目の縁に湧き出た。
「……好きって、どういう」
「全部ひっくるめて」
友愛も親愛も恋愛も。信頼も執着も独占欲も、何がなんだかわからないほどに、混ざって固まってこびりついて取れない。まともな好意なんて知らない。
「何かの目的のために手を組んでるんじゃない。それ以上なんだ」
きっと、手を繋いだり唇を重ねたりしても受け入れられてきたから、勘違いしていたのだ。必要に迫られて行為が先に立ったせいで、感覚がずれてしまった。
通じ合う手段が言葉だけなのがもどかしかった。不確実で真偽すらも証明できないものでしか、由羅から捧には伝えられない。思っていることを寸分違わず伝えられる、ちょうど読心術のような、そんな夢のようなものがあればいいと、愚かに考えてしまう。
読心術は不十分だ。向こうの思いがわかったとしても、一方通行だから意味がない。だから使わない。由羅にできることは、精一杯に言葉を紡ぐのみだ。
「ここまで気づかなかったのも、恥ずかしい話だな。……役に立つとか、そういうのを全部抜きにして、私は捧と一緒にいたい。役に立たなくてもいいってことを、証明してみせる」
「………………」
「信じられない?」
由羅は、心を読むように先回りして尋ねた。妖術ではなく、捧の隣にいた経験から、なんの根拠もなしに予感して。
捧は由羅の予感の通り、小さく頷いた。この小さな首の動きのひとつでさえも、彼の思い悩みの果てにようやく出たものだった。
「言葉がほしければいくらだって言える。暮らしでも、金でも、
「……ちがう」
喉のあたりが栓をされたように苦しい。息が続かずに、けほ、と咳が出る。
「そうじゃない…………由羅が本気なのは、すごく、わかる。……十分すぎるくらい……。本気になってもらえて、すごく嬉しいのに、オレがついていけて、ない。なんだか怖い」
心が上手く動いてくれないのだ。自分という存在に根を下ろした思考回路は、思い通りに動かない。道具として求められ、能力が目的で言い寄られるなら納得はいく――けれど、嫌だ。かといってそのままの、ただの捧を必要とされても、安心感の一方で懐疑も強くなる。どっちつかずに揺れてしまう。
「本当に、わからなくて。……由羅を信じたいのに、どうしても、ちゃんとできなくて」
「役に立たなくていい」なんて、そんなことがあるのか。戸惑いが、今の捧の正直な気持ちだった。
まだ迷っているなんて恥ずかしい。無様を晒したくない。でも、この場で由羅と離れたらもっと耐えられない。
「捧」
呼ばれて顔を上げた。たぶん、ものすごくみっともない顔をしている。見ないでほしいと思いながらも、彼のことは見ていたくて、うつむくことができなかった。
「できないなら、いいよ」
慈しみの中に切望を滲ませ、彼は言う。長い睫毛が彩るまばたきが、やけにゆっくりと目に写る。
「信じなくてもいい。わからなくていい。ただ、いてくれるだけで十分だから」
するりと頬を撫でられた。由羅の手は、首を軽くなぞり、肩の上で止まる。
「お願い、そばにいて。ずっと我儘ばかりだけど……行くあてがないなら、私にしておいてくれないか」
下から覗き込むようにして向けられた懇願。役目を終えた唇は不安げに引き結ばれて、祈りをたたえた双眸が捧を見つめている。
――瞬間、全てがどうでもよくなった。委ねてみようと思った。体の奥から熱い感情がこみ上げてきて、うめきが漏れた。
由羅に望まれたから。他に理由は必要なかった。そのくらい、捧の中で由羅の存在は大きい。何よりまた会えた喜びに、見捨てられなかった嬉しさに、嘘をつけなかった。
「由羅に、する。……由羅にさせて」
何もわからないまま、変わっていないまま言ってしまった。一番強いのは感情で、知性はまるで働いていなかった。
「でも、いいの。本当に、オレで」
「おまえがいい」
優しさを感じる手つきで抱きしめられる。捧も、床に押しつけて体を支えていた手を伸ばし、おそるおそる背中に触れた。
「……由羅」
「うん」
「オレは好きとかわかんないし、役に立たなきゃ、って考え方も簡単には変えられないと思う。すぐ一人で抱え込むだろうし、また飛び出していくかもしれない。……でも、そうなったら絶対に、捕まえに来て」
「ああ、絶対に行くよ、約束する」
すぐに受け入れられてしまって、逆に調子が狂う。けれどその言葉が真実であることは、わかっているから――思いを口にするだけだ。
「ありがとう」
熱を持つ瞼に指を滑らせて、視界にかかる水膜を拭った。
「それで、行き先は?」
「ん……?」
「捧がここにいたいのなら、私も残るけれど」
はっとして、思わず由羅の袖を掴んだ。元はといえばそこからである。今ならば、考えるまでもなく答えは決まりきっている。
「駄目。由羅は、狙われてるから、逃げないと。砂京が来ないうちに」
まさにそのときだった。場の空気感を吹き飛ばし、ガン、と分厚い金属扉を蹴り開ける音が響いた。
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