三十 潜伏から
八日。
由羅が塔に潜んでいた時間である。
七日目の夕方、由羅は地下室の入り口までたどり着いた。そこへ通じる階段は、妖術で巧妙に隠されており、一見したところではただの床と見分けがつかない。尾行していた相手は、手慣れた動作で妖術を解き、見る間に階下へと姿を消してしまった。
由羅が走り出した頃には、もう階段への口は塞がっていた。追いつければ、砂京が仕事をしているという地下室へと侵入することができたのに。
さっきまであったはずの階段の上、今はもう廊下になっている辺りで、ずるずるとしゃがみこんだ。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
地図を取り出して眺めてみる。自分がいる場所を探して凝視するが、なんの表記もない。読心術で探していなければ、永遠に見つけられなかっただろう。自分の選択は間違っていなかったんだから、と言い聞かせて、急く心をどうにかなだめた。
姿眩ましが切れないように注意しながら待つこと数時間。仮眠はとっておいたし水も食料も足りていたのだが、時間が無駄に流れていくのが精神にこたえた。気を揉んで何度も自ら開けようと試しかけても、最後まで幽暗朔月の者がやってくるのを待てたのは、絶対に捧に会うのだという揺るぎない目標があったから。ここまでの成果を水の泡に返すものかと、とどまったのだ。
やがて、廊下を歩いてきた女が好機をもたらしてくれた。彼女の手により再び姿を現した階段へ、由羅は体を滑り込ませた。頭の上で入り口は床に変わり、周囲を闇が満たす。と、柔らかな明かりが生まれて足元が見えた。先を行く構成員が自分のために生み出した妖術の灯火を、由羅もありがたく使わせてもらうことにした。
彼女は由羅に気づく素振りも見せず歩いていく。後に続けば、進む先に光が差しているのが見えた。足を進めるごとにそれは近づき、階段の終わりとともに、光源である地下室の様相を一気に見せた。
広大な図書館があった。
天井は高く開放的、照明は申し分のない明るさで、書物を読むのに苦労しないだろうと思われる。地下にあるのだから驚きだ。規模に対して、中にいる人影は少ない。とても静かだ。棚の隙間に立ったり、しゃがんだり、あぐらをかき座っている人々は、皆手元に目を落として丹念に本を読んでいる。かと思えば、一角では血眼で紙に筆を走らせているのが一人、薬草入りの大きなざるを手にどこかへ向かうのが一人。場にいる全員がそれぞれの業務に熱中していて、読心術での情報収集は望み薄だった。大量の衣服を抱えて走っている者を念のために避けてから、由羅は辺りに視線を巡らせた。
壁には、ちらほらと通路が見える。ただの廊下が二本、片開きの扉が二個に、下り階段が一つ。さて、捧のもとへと続いているのはどれか。どこに行くべきという確証は特にない。ひとまず、由羅を地下室に引き入れてくれた構成員についていくことにした。
女は一本の廊下に入っていった。点々と灯されている蝋燭が照らすそこを進めば、前方に人影があった。
「失礼します。例のもの、持ってまいりました。砂京様へお願いいたします」
女は呼びかけ、手に持っていた小さな袋を差し出した。近づけば、受け取る側の容姿も見えてくる。背に長く三つ編みを垂らした痩身の青年――紫林であった。
じりっと脳を加熱された気がした。由羅は名を知るはずもないが、ひと目見てわかった。捧に銃弾を放ったあいつだ、と。
掴みかかりたい衝動が脳天からつま先まで一気に駆け抜ける。動きそうになって、右手で左腕を強く掴んだ。
冷静に。冷静に。
今は由羅は一人なのだ。力任せに動いてもどうにかしてくれる相方は、いない。
構成員が一礼して道を戻ろうとしたので、由羅は壁に貼りつくようにして避けた。図書館の方へ去っていく彼女とは逆に、紫林は通路を奥へと進んでいく。女をやり過ごした由羅は、距離を取りつつ紫林を追った。
そして、遠のく女の気配が完全に消えた頃。
「…………誰か、いるのですか?」
紫林が、ゆっくりと振り向いた。
「なんですか、この違和感は」
彼の顔色が、由羅の存在に気づいたことを示していた。
紫林はひとつ手を打ち鳴らす。注意深く観察すれば、灰色の霞が現れて手を包み込んでいた。そして作られたのは一丁の拳銃だ。
「出てきなさい。私が相手をします」
二丁めも生成し、両手に構えた。
出方を必死で考えた。逃げたら追ってくるかもしれない。加えて、侵入者の情報が構成員の間にも行き渡れば、警戒が強まって身動きが難しくなる可能性もある。ならばここで迎え撃つべきだ。
踵を床に打ちつけて、相手と自分を囲む形で結界を張った。突然視界を支配した金色の中、紫林の目が由羅を捉えた。
「また会ったな、と言えば正解か?」
「貴様」
両手に握った銃を由羅に向ける。また近距離で向き合っているのに、頑なに銃から武器を変えない。
拳銃が弾を吐いた。が、由羅に命中するかしないかのところでぴたりと止まる。
「ここは私の結界の内側だぞ? 使い手を守るようにできてる」
幽暗朔月の頭領の療養部屋とは訳が違う。完全に由羅の支配下にある空間なのだ。
いくら撃っても由羅まで通らない。紫林が悔しげに弾倉のあたりを噛むと、口から霞が出てきて、銃に吸い込まれた。そうやって追加分を装填するのか、と損にも得にもならない情報に浅い感想を抱く。
「通しません」
「どうしてだ? この先に大切なものでもあるのか?」
「く……」
「なあ、どうなんだ、必死に守っているってことは」
「……奪われるわけにはいかないのです!」
乱射された無数の鉛の塊を、金色の光が受け止める。紫林の顔が悔しげに歪む。
「価値があるものか?」
「当然!」
「……へえ」
霞に変わる謎の存在にも、読心術は通るらしい。ほんの少し仕掛ければ、思考は由羅に筒抜けだ。
『やっと、砂京様が苦心して手に入れたのだから、絶対に、守りきる――部屋の中に入れなければいい』
「立派な忠誠心だなあ」
情報はもう十分だ。手っ取り早く終わらせるに限る。
紫林を包むように一気に結界を縮め、手のひらに乗る程度の球形にまで小さくした。普通であれば、内側にいたら骨が折れて肉も潰れているところだが、手応えがない。最初の幽暗朔月で見た通り、体の形に制限がないようだ――霞の姿になってやり過ごしているのかもしれない。
紫林が殻を壊すのにどれだけかかるかはわからない。中から割られるか、外から誰かが砕くか、どちらにせよきっと長くは持たない。由羅は、紫林が向かおうとしていた、薄暗い廊下の先を見つめた。この先に、部外者を通してはならない部屋があるらしい。
「砂京がやっと手に入れた、価値あるもの」とはなんだ? ――妖力を持たないことから特別な臓器を融通できる外科医であり、比類なき剣技を持つ剣客でもある彼ではないか。
その考えに取り憑かれてしまって、思慮だの分別だのは意識の隅に押しやられる。歩きだしてすぐに走り始めていた。
たまたま地下の図書館へ入っていった女が、霞の青年に用があって、しかも彼は捧を指しているような発言まで残していった。まるで奇跡だ、今日はついている。
疾走の負荷と期待とで、心拍が激しくなっていく。一本道の廊下を幾度か曲がり、短い階段を幾度か下れば、堅牢な銀色の扉が目に入った。姿眩ましを使っているのをいいことに、思わず快哉の叫びが口からほとばしった。
はやる心を抑えて、扉に耳を押し当てる。――分厚い金属で遮られて何ひとつ聞こえない。
逡巡の後に、姿眩ましを解き、取っ手を掴んだ。自分で開けてしまうのだから、もう姿を隠しても意味がない。
中に誰かいたら、そのときはそのとき、成り行きに任せるだけだ。ただの構成員ならことを悟られる前に叩き潰す。砂京なら本気でぶつかっていけるし、捧だったら目的は達成、どうにかして本心を話してもらうのだ。
息を深く吸って、深く吐いて。力を込めて取っ手を押した。
天が味方したのだとさえ言いたいほど、幸運なことに――一人きりで。探し求めた相方がそこに、壁際で床にぺたりと座っていた。
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