三 〝死神〟は夜の街へ
「由羅」
手術室に繋がる扉がきしみ、捧が姿を現した。手術が終わったらしい。全身に疲労を漂わせ、顔色も青白い。
「手、貸して……」
呟きながら、由羅の座る長椅子へふらふらと足を向ける。由羅はと言えば、吸いかけの煙草を捨て置いて、素早く椅子から立ち上がった。大股で近くに寄ると、今にも倒れそうなその体を受け止める。
「……妖力、減らしすぎだ。無理するなって言ってるのに」
「だってアイツ、どこ見ても綺麗な
「気にしなくていいよ」
捧を長椅子に座らせて、由羅も隣に収まる。そして指を絡み合わせて手を握ると、重なった肌からごっそりと妖力が流れていった。
「ふぅ、生き返るー……」
「死にかけるほど使うなって。言っても無駄なんだろうけど」
手術の後はいつも、由羅が捧に妖力を渡すのが習慣だ。渡す、といっても、ただ手を握ったりするだけであるけれど。妖力は、体同士が触れれば勝手に少ない方へ流れていく。高いところから低いところに流れる、水のような性質をしているのだ。
先刻捧と男が話していたように、妖力は肌に触れる程度では移らない――普通なら。妖力が極端に少ない捧は、少し他者に触れただけでも、体が蓄えようと動くのだった。相手が、妖力を溢れるほどに持っている由羅ならなおさらのこと。
「読心術の成果は?」
「上々。特に気にする必要もない小物だった」
捧が手術をしている間に、隣の部屋の由羅が患者の思考を読み取り、〝死神〟の利となりそうな情報を探す。最初に決めてから長く続けている情報収集の方法だ。
手術前のやり取りを思い出し、捧は小さく呟く。
「すぐ態度に出て、駄目だよなぁ……何考えてるか、顔でバレて嫌なんだよ」
「ん?」
「落ち着いてるように見せかけたくて。気にしてるけど、難しいね」
捧は、こてんと由羅の肩に頭を預けて、しばらくぼんやりとした。握られた手だけが熱い。
目に映るのは、見慣れた殺風景な部屋だ。外の荒れ具合に比べると、こちらはあまり廃墟らしくない。
かつては名だたる組織の持ち物だった館だが、〝死神〟の二人が住み着いてからは、直前に起きた抗争の爪痕とも相まって、がらりと風貌を変えた。金銀と宝石が煌めいていた壁は剥がされて売られ、随所に飾られていた様々な芸術品は売られ、家具も使う分だけを残して売り払われた。――二人はとにかく、金を必要としていたから。
館の手入れにかかる手間と金も馬鹿にならないので、生活する空間以外は放っておき、ゆえにどんどんと寂れる。おかげで、今や手元には目玉が飛び出るような金額があった。が、それを正しく使う日は未だ来ない。
「疲れた……」
「今日は行くのはやめるか?」
「ううん、行く。もしも今日、オレに合う
捧は立ち上がり、繋いだままの由羅の手を引いて急かした。
二人が向かおうとしているのは、競り市だ。毎夜毎夜、様々な品が
これが〝死神〟が大金を必要とする理由だった。いつか望みの
捧が
犬神、猫又、餓鬼――一通りの血筋の
お前一人のために何人が犠牲になったんだと後ろ指を差されるような、身勝手な行いかもしれない。しかし捧も由羅もすでに、たった一人の気まぐれな欲のせいで理不尽に傷つけられた身だった。暗黒街を出てまともに生きる道も潰えた。顔も知らない他人に配れるほどの慈悲は持ち合わせていない。
不幸自慢をしても何も変わらないのだし、
十五日に一回きりの、
藍色の夜の上に、極彩色の街明かりが寂しく浮かんでいる。いつもは往来に溢れている喧騒が、雨に飲まれて静まり返っていた。住人の皆が外出を控える理由は、雨だけでなく、〝死神〟への恐れにもあるのだと、捧は頬を緩ませる。
無論〝死神〟とて無差別に襲っているわけではなく、敵意を持った者のみを標的にしていた。結果としては、大勢からありがたい勘違いをされている。通りを下れば街はすぐに活気を取り戻してしまうが、西側に限っては、たった二人でこの静寂を手に入れたと思うと、とても気分がよかった。
やがて、水でも消えない青色の火を掲げた建物が見えた。のしかかるように高くそびえる楼閣こそ、夜ごとに
一歩踏み込めば、音の濁流が押し寄せてくる。幾層ものざわめき声と、かすかに聞こえる店内の背景音楽。時折切り裂くように、落札を知らせて鐘が鳴る。慌ただしく動き回る従業員の足音も騒がしい。
入り口からは入札の様子が一望できた。席がすり鉢状に下方へ傾斜を作っていて、底の部分を
「間に合ったな。
「二百
朋、は金の単位。下には
「さあどうなさいますか、三百……三百、いらっしゃいませんか? ではこちらの杯、三百朋で落札です!」
司会が、よく聞こえる甲高い声を張り上げた。威勢のいい彼とは裏腹に、客の方は多くが辛気臭い顔をして席を立っていく。品物に対して入札者が圧倒的に多いのだから、ほとんどが狙いのものを逃して沈んだ表情になるのも当然だ。人影が三々五々に散って、がらんとした広間は、急に広く感じられた。
席も演台に近い方が空になる。〝死神〟はようやく動き出し、空席に収まって、司会者が喋り始めるのを待った。
「三百朋だぞ。きっと武器を注文したら相当のができるだろうな」
「それがあんな杯ひとつに、ねぇ。よくわからないや」
小声で話していたとき。背後から、捧の肩が軽く叩かれた。
「こんばんは。奇遇だね」
振り返ると、一つ後ろの列に眼鏡の男が座っていた。右手に持つ扇子で、肩を叩いたらしい。
「
「僕だってたまには冷やかしに来るさ。ところで捧くん」
「さあさあお集まりの皆様! 定刻になりましたので、始めさせていただきますよ」
会話を貫き、大きな声が響く。砂京が口をつぐみ、三人はすり鉢の底に視線を注いだ。
「長らくお待たせいたしました。
提示されたのは、先ほどの杯に遠くない額だった。命そのもの、とも言える
司会者の紹介とともに、従業員が目的のものを運んできた。ガラスの箱に入れられた、白い球だ。
見た目を言い表すなら、特大の真珠といったところか。手のひらにちょうど乗る程度の大きさで、まろやかな乳白色をしている。ずっしりとした重さがあるのも特徴だ。
金額をつける者が乱立するが、〝死神〟は動かなかった。犬神は筋の中でもありふれた方、とっくの昔に試し尽くしていた。興味はない。
いつもなら二人して黙っているが、今日は後ろからやたらと砂京が話しかけてくる。
「捧くん、さっき言いかけたことなんだけれど」
「なんですか」
「僕と手を組まないかい?」
「遠慮させてもらいます」
無視するわけにもいかないので、応対を続ける。よそよそしい敬語と笑顔は貼りつけて崩さずに。
この人物は苦手だ。曖昧だがなんとなく合わなくて、距離を置きたくなる感じがする。
「オレたちに会うといつも言いますよね、砂京さん」
「君だっていつも断るじゃないか。由羅くんの方は?」
「いらない」
「つれないなあ、二人とも。僕は、君たちの技術が別の奴に取られる前に勧誘したいだけなのに」
「心配しなくても、誰とも手は組みませんよ。
話が長引いても断り続けて乗りきるつもりだった、が。次の砂京の言葉は、心をざらりと不快に撫でてきた。
「ねえ、それ。いつまで
返事に詰まってしまう。砂京は神経に障る言葉を重ねてくる。
「なんだかんだで、君たちのことは長く見てるけどね。これだけ待っても手に入らないと、僕だったらもう見切りをつけ」
「くだらない質問をしないでくれ」
皆まで言われる前に、由羅の拒絶が立ち塞がった。
「私たちが何をしようと、お前には関係ない。何も知らない奴が口出しするな」
示し合わせたように、落札の鐘の音が鳴った。音は術で増幅されて会場の隅々まで届き、三人の間の沈黙を埋める。司会がひときわ大きな声を張り上げる。
「ありがとうございました。お次はこちら、猫又! 本日は手頃なものが揃っていますねぇ、では四百二十朋から――」
「猫又……」
顔を見合わせる。またもや経験済みのものだった。ならば早く砂京と別れたい。無言のうちに頷きあって、席を立った。話が途中であろうと、構っていられない。
「おや、もう行くのかい」
「ああ、失礼する。そちらもいい買い物を」
振り返らずに階段状の通路を登る。出口を目指すが、背後で立ち上がる気配があった。
「なんでついて来んの」
捧が苛立たしげに零すと、由羅も眉をひそめる。
「嫌な予感がするな。杞憂だといいんだが……」
司会の声高な口上が遠ざかり、代わりに雨音が大きくなる。早歩きを緩めず、降りしきる雨の中に傘を広げた。と、置いてきたはずの男の声がかかる。
「さっきの言い方はひどいよねぇ」
「…………」
「捧くん、由羅くん、冷たいじゃないか。寂しいな」
口では言うものの、困っている様子には見えない。砂京を振り返った由羅は、一切の遠慮もなしに嫌悪を顔と口とに出した。
「ついて来るな、気味が悪い。何が目的だ」
「目的? 買い物の関係で、少しばかりね」
彼は上着の内側から蓋付きの懐中時計を取り出した。何をするかと思えば、蓋を開き、盤面に向かって話しかけたのだ。
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