怪し死神、夜陰に雨
一嘘書店
冷雨
一 館に住まう者
男の全身を恐怖が満たしていた。
眼前には、住居と廃墟の中間のような建物がある。おそろしく縦横に大きな館だ。昔は大層活気があって、装飾も美しかったのだろうと想像がつく。もっとも今こそ壁の色は褪せ、窓ガラスは割れ、あちこちが焼け落ちて傷んでいた。誰かが住んでいる気配は薄く、そうと知らなければ空き家だと通り過ぎてしまうような荒れ具合だった。
館を前に、男はやけに寒気を感じていた。気温のせいではない。時刻は真夜中で、加えて雨まで降っており、季節に似合わない涼しさだった。が、男の震えはただひとつ、恐れから来るものだ。
男は、一般にヤクザと呼ばれる部類の存在だった。腕っぷしには自信があり、命が危ない場面を何度も切り抜けてきた胆力だって備えている。それがこれほど怯えているとは、相当な異常事態だ。生気の薄い館そのものというより、中に住んでいる者の波動を感じて足がすくむ。逃げ出すのも、館に乗り込んでいくのも踏ん切りがつかず、棒立ちになっていた。
自分を勇気づけようと思い立ち、指先に炎を灯してみる。次は氷を生み出す。手を岩のように硬くしたり、光る小刀を作ってみたり。この妖術と拳で、いつも乗りきってきたじゃないか、今日だって平気だ。けれどそんな鼓舞はひどく薄っぺらくて、結局また立ち尽くすばかりだった。
この世界には妖怪が蠢いている。彼らは妖術と呼ばれる不可思議な術を使うことができた。
社会の闇が濁り沈んでいるこの中華街では皆、世渡りをするのに、単なる腕力や権力だけでなく妖術の力も借りる。男のようなヤクザ者に限らず、街の住人が妖術を使って相手をねじ伏せるのは当たり前だ。肉弾戦で勝っても、術で押さえられたら意味がない。優れた妖術使いが、高い地位を築いていくのだ。
今、男が火や氷を出したのも、妖術のひとつだ。何かを生み出すもの、相手の感覚に干渉するもの、対象に特別な性質を付与したりなど、種類は豊富で多岐に渡っている。系統による得意不得意の個人差が大きく、体質や道具、本人の努力次第でも千変万化の代物だ。ゆえに、強い妖術使いとの戦いは、総じて過酷になる。身一つで泥沼の殴り合いをしている方が、まだ気楽なくらいだ。
耳に挟んだ話では、館の主は非常に妖術に長けているという。はっきり言って敵う気がしない。拳に訴える前に、目を合わせた瞬間には首が飛んでいた、なんてこともあるかもしれないのだ。
何度思い出したかわからない言葉が、再び男の脳内に浮かび上がる。
『雨の日に、街の西へ向かってはいけない。〝死神〟に命を狙われるから』
いつからか、中華街でまことしやかに囁かれ始めた噂である。つい最近か、ずっと前からだったかは判然としない。
〝死神〟の正体については、様々な噂がある。凄腕の殺し屋、どんな病気も治す医者、最高級の遊女、などなど――とにかく、妖怪の街で神とあだ名されるほどの何かが、西側にいることは確実で、目の前の館が〝死神〟の根城であるという情報も、同じく確実なのだった。
現に、雨の夜に街の西へ行くと言って出かけた男の兄弟は、数十日が経った今でも帰ってこない。追って西に向かったもう一人の兄弟も、姿を消した。殺し屋に目をつけられて消されたか、医者に毒殺されたか、はたまた遊女に骨抜きにされたか。真相は闇の中、といったところだ。
幸いにも、男は聡かった。自分程度の低階級の者がいなくなったところで、所属する組織にはなんの痛手でもない、ということをわかっていた。自分の体は、兄弟の仇討ちに賭けてもいいものだと理解していたのだ。そのはずが、急に命が惜しくなってくるのは、〝死神〟のなせる業なのか。兄姉を奪われた怒りは確かに胸にあるのに、それに貼りついて闘志を封じてくる、恐怖。退くべきだと、経験と本能が告げているが、退けないのだ。今日を逃したらいつまた雨が降るかわからないし、天気の条件が揃っても男に仕事があれば当然見送ることになる。今だ。なんとしても今行かなくては。
傘の柄を握りしめ、半ば無理やりに深呼吸をする。全身を包む鳥肌は引かないが、やっとのことで男は覚悟を決めた。
扉を叩いて、名乗りを上げよう。拳を作って掲げる。そして、呼びかける文言を考える――『〝死神〟、出てこい。兄さんと姉さんの仇を取りに来た』――その次は? いや、十分か。視線を上にやって思案していたら、声がした。
「ああ、今出る」
思考は打ち切られ、男は肩をびくりと跳ねさせた。慌てて見れば、扉が細く開いている。そこから男のものの声がしていた。
頭の中での呼びかけに返事が。偶然だと己に言い聞かせながらも、脇の下にじっとり汗をかいていた。怖じ気づくとは情けないが、心臓は激しく鼓動して口から飛び出しそうだ。行き場を失った拳をよろよろと下ろした。
ギギ、と立てつけの悪そうな音を立てて、叩こうとした扉が開く。姿を表したのは、一人の男。背中まである黒い長髪と、高い上背。目は金に近い飴色をしていて、通った鼻筋が印象的だ。着ている青い中国服は上等そうな生地で、金糸の豪華な刺繍が施されていた。
「ごきげんよう。いい夜だな」
笑いかけてくる。特別愛想よくしようとしているのではなさそうな、自然な微笑。逆に言えば、腹の底が見えない薄い笑いだ。
「……こんばんは」
挨拶を返す男は表情を取り繕い、警戒しつつも、正直なところは拍子抜けしていた。館から出てきたからには彼が〝死神〟に違いないはずだが、気配が弱い。強い者、例えば男の上司などは、対峙しただけで相手にとてつもない畏怖を与える。そんな覇気が目の前の男にはなかった。
〝死神〟などと呼ばれ、恐れられているという。にわかには信じがたい。何かの間違いではないか。
男に軽く見られていることなど知らなそうな顔で、〝死神〟は小首をかしげた。
「で? きっとお前も噂を聞きつけて、私に頼み事があって来たんだろう。言ってみるといい」
我に返る。覇気があろうとなかろうと、〝死神〟と思しき者なら殴るに値する。人違いだったところで、死なせなければそれでいいのだ。素早く考えを固めて、嘘をついた。
「俺の弟を、治してほしいんだ」
男に弟などいない。血縁はもちろん、義兄弟の中でも男が末弟で、下には誰もいない。この場を乗り越えるために用意しておいた嘘だった。
「治す?」
「そうだ。強い呪詛をかけられていて、誰にも解けないんだ。……有名な専門家に何人も診せて、全員お手上げだと言った。でも、〝死神〟ならどうにかしてくれるかと思って……あんたのこと、とんでもない妖術使いだって聞いたんだ。俺にできることならなんでもする。頼む、どうか弟を救ってくれ!」
勢いよく頭を下げる。今の演技はどうだっただろうか。騙せているよう願っていると、そうか、と頭上で声がした。
「ひとまず、顔を上げてくれ」
そろりと体を起こして、再び男と目を合わせたとき。あまりにも突然に、ぶわりとその気配が膨れ上がった。
まずい、と思った頃にはもう遅かった。男が手のひらを向けたら、衝撃がやってきて、肢体ががっちりと固まった。身動きが取れなくなる。まるで自分が石膏像のようだ。
振り払おうとしても、びくともしない強い拘束の妖術。逃げなければ、と直感した。この男と対面していてはいけない、目だけでも閉じなければ。ところがいつもなんの気なしに動かしていた己の体は、どれだけ念じても応えてくれなかった。男の放つ威圧感は、こちらの身を焼き尽くしそうな苛烈さで注がれる。呼吸は浅くなり、こめかみを脂汗が伝った。
一方の〝死神〟は涼しい顔で男の方を見ている。
「弟を治してやりたい……泣かせる話だな。もちろん、作り話なのを除けば。それで、本来の目的は? へえ、仇討ちか。立派なことだ」
――思考を読まれている。
はっと気づいて、血の気が引いた。
初めから見透かされていたと、でまかせを語ったことも無意味だと知った驚愕は、言葉にできないほどだった。心が見えているならば、先に出迎えられたことにも説明がついてしまう。館の中から来客の思考を読めば、来訪のみならず用件も手に取るようにわかるだろう。思考を読みながらこれほど強い拘束、規格外にもほどがある。――ぐるぐると考えている脳内も、見通されているのだろうか。気が遠くなった。
「あいにく私の方にも、守りたいものや探したいものや取りたい仇がある。だからお前の望み通りにはなれないな。逆に、お前を使わせてもらおう」
絶望して、なす
金色の両眼が、闇の中できらりと輝いた。瞬間、頭が割れそうに痛み、臓器が裏返るかという不快感が体の中を駆け巡る。世界がぐるりと回転するような感覚に襲われ、その後のことは判然としない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます