二十八 由羅と朱莉

 外に出て跳躍し、屋根を渡って駆けていく。朱莉が先を行くが、由羅は苦言を呈した。

「朱莉、もう少し急げないのか?」

「全力を出して疲れきるのはまずいでしょ」

「なら私が先に立ってやる。お前を待ってたら夜が明けそうだ」

 言いすぎ、と反論されるより早く、朱莉の手首を雑に掴む。朱莉が警戒したとき、由羅は一気に速度を上げた。

「由羅!」

 呼んでも反応がない。このまま行くのか。強風に体を強張らせるとあっという間に、目の前の景色はそそり立つ白い壁になっていた。ふわりと地面に降りる。

「ちょっと。痛いんだけど」

「遅いのが悪いんだろ」

「君ねえ……」

 怒りとも呆れともつかぬ朱莉の声。引かれていた手首をさする。

「捧にも普段からこんな調子なの?」

「まさか」

「じゃあなんで私は……」

「お前は相方じゃないからな」

「……ああ、うん」

 こういう奴だった、と思い出した朱莉であった。

 白梅楼に入る。警備員が礼儀正しく出迎えた。入り口の雰囲気を見るに、従業員用の裏口らしい。

「ただいま。彼は私の個人的な客だから、料金は一切は取らないように」

「かしこまりました。連絡しておきます」

 彼らは深々と礼をした。

「どこに行くんだ」

「食堂。ちょうど夕飯の時刻だから、捧も食べてるでしょうね」

 かつ、と踵を鳴らして朱莉が歩き出せば、労働者は道を開ける。支配人の威光を目の当たりにして、由羅は密かに舌を巻いた。

 着いた先は、がやがやと賑やかな大広間。皆が手にしているのは中身入りの食器たち、見たところでは食堂のようだ。

 朱莉はこともなげに、その人の群れに踏み込む。え、と声を漏らして周りの者が朱莉を見つめたとき、朱莉は声を張った。

「人探しをしてるの。少し時間をちょうだい」

 波が伝わるように、出入り口から奥の方へと静寂が広がっていった。場が静まってから、改めて従業員に呼びかける。

「捧はいる? いないなら呼んできなさい。入ったばかりの若い男。白の長髪、目は紫」

 聞いた従業員が顔を見合わせ、ひそひそと小声で話し合う。しばらくして、周りから小突かれるようにして前に出てきたのは、一人の少女――捧を白梅楼に招き入れた、渦潮だった。緊張しているようで、歩く動きもぎこちない。

「渦潮。何か知ってるの?」

「捧は、ええと……昨日の夕飯のときに、砂京様に呼ばれて食堂を出ていきました。それから帰ってきてません」

「……砂京に?」

 朱莉が繰り返すと、ぶんぶんと首を縦に振る。

「他には?」

「な、ないです。砂京様は、捧と二人でどこかに行かれたから、誰も聞いてなくて」

「ふうん……」

 相槌を打つ朱莉の表情は、どこか険しさを帯びていた。

「突然入ってきてすまなかったね。お前たちを咎めるわけではないから、安心して」

 すぐに食堂を出た。

 やたらと早歩きで進んでいく朱莉の後ろで、由羅は焦りを抱く。

「おい朱莉。どういうことだ」

 捧が白梅楼にいたことは確実となった、しかし蓋を開けてみれば、胸騒ぎがひどくなっている。雇われただけではなかったか。砂京が出てくる意味がわからない。しかも、二人で話した後に姿を消した?

 信じたくない。

「朱莉、無視するな。説明しろ。自信満々に言っておいて何」

「待ちなさい。支配人室に行って話すから静かにして」

 強めに黙らされる。仕方なく従うものの、よくない考えに頭が支配されてしまう。

 捧は砂京を嫌っていたはずだ。ということは、その嫌悪を超えるほどの好条件を出されて向こうについたのか。または、交渉もされず力ずくで連れて行かれたか。いずれにしても、到底受け入れられるはずがなかった。

 嘘だ、嘘に決まっているんだと叫びたくても、無情にも、隣に捧はいない。紛れもない事実なのだ。支配人室に着くまでに、喉は乾ききり、頭の芯が痺れたようになって、目眩がしそうだった。うなだれて歩いて、視界に入る磨き上げられた床は、別の世界の景色のものみたいに澄ました顔をしていた。

 二、三度、階段でつまづきそうになった。朱莉はそのどのときも、一瞥いちべつをくれただけで足を止めなくて、逆に気まずかった。

 支配人室に入って扉が閉まるが早いか、由羅は噛みつくように朱莉に尋ねた。

「どういうことだ」

「何が――というか、どれについて」

「砂京と捧がどうしたんだ? 答えろ」

「私に言われたって、知らないよ……」

 朱莉はたじたじとしている。由羅の剣幕に負けてしまっていた。

「昨日……昨日ねえ……」

「考え事は後にしてくれないか」

「んん……」

「さっさと言え。私たちが離れ離れだと、お前にも不都合があるんだろう。利害の一致、教える理由にこんなに十分なことはない」

「わかった、わかったから」

 朱莉の口は重い。心ここに在らずといった様子だ。椅子に座ってもなかなか切り出さない。

「言えない、と?」

「違う。でも、少し、なんというか」

「はっきりしないな」

 もどかしい。いっそ読心術で問答無用に聞き出してしまおうかと思ったが、白梅楼の警備の妖術に阻まれた。朱莉は妖術を弾く装身具アクセサリーを身に着けているが、そんなことも一時忘れるほどに、今の由羅は冷静さを欠いていた。

「話すためにここまで来たんだろう。教えろ」

「でも……」

 苛々いらいらする。館へ由羅を訪ねてきたときは、余裕ぶって「捧に会わせる」と豪語していたのに――事態が複雑と見るや、この弱り具合だ。

「どうして言えないんだ」

「砂京に怒られそうで……」

 まだ言っているのか、と罵りたくなった。愛情は微塵もない夫婦だが、利害関係で結ばれている分、逆に結束は固いらしい。――結束、というよりも、呪縛に近い気はする。

「口止めされてるのか?」

「そういうわけじゃないけど、言ったら機嫌を悪くされるかも」

「なんだ、大したことはないじゃないか」

「勝手なこと言わないで。最悪、鳴を治してもらえなくなるんだから」

「〝死神〟の臓器がないと鳴は死ぬのに?」

「それは……」

 板挟みになった朱莉は、短く唸ったきり黙ってしまう。

「私がもう取引を打ち切るとでも脅せば、吐くか?」

「ちょっと、関係ないじゃない」

「はっきりしろ。言うのか、言わないのか」

「わかった、言う、教えるから、それだけは」

「そうか」

「君って前触れがなくて困るんだよ、顔もさっきから険しいままで」

 朱莉は唇をわずかに尖らせている。同じく前触れがない無表情な自分のことは棚に上げて文句を垂れた。

「お前、他人に弱みを握られすぎじゃないか。私たちといい砂京といい」

「言っておくと、そこ以外には握らせてないからね。それで?」

「砂京と捧の関係――というか、捧がどこにいるかだ」

「ああ、それは……」

 ちらりと窓の外を見やる。数秒の後に室内の由羅に意識を戻した。

「あくまで私の予想だけど、きっと、砂京と捧は一緒に幽暗朔月の塔にいる」

「……は? ……どう、して」

 どうして、あの名前が出るんだ――尋ねようとしたのを察して、朱莉が先に答える。

「砂京は幽暗の一員だから」

 ……絶句。

 あまりにも展開が早い。場に重々しい空気が満ちる。

「できることなら言いたくなかった。あいつとは内密にするって約束してるんだけれど……君に説明のしようがないし……」

「ちょっと待て。砂京が幽暗の一員ってことは、朱莉もなのか?」

「まさか。そもそも、砂京があそこに属してること自体が機密事項なんだから」

「そう、か。そうだよな。……全然知らなかった」

「知ってたら困るよ。砂京が必死で隠してる意味がなくなる。責められるのは私だし……ああこれ、絶対に他人に言わないでよ。捧にはもう無駄なことだけど、他には絶対に、誰にも知られないようにして」

「わかったよ」

「絶対にだからね」

「わかったって」

 やりすぎなくらい念を押した。

「……もうここまで来たら、いい。私が直接聞いて、どこにいるか確かめる」

 朱莉が軽く手を振って、紅の雷電から短弓を作る。続いて腰のえびらから矢を。事務机から取った紙にさっと文章を書き、矢の軸に縛りつけた。開け放してある窓から放てば、まるで目的地を知っている鳥のようにすいすいと空を飛んでいく。

「なんて書いたんだ?」

「最近寝起きしてる場所を教えて、って。私の手紙なら、どんな内容でもすぐに返すから、少しだけ待って」

 すると言葉の通り、二分もしないうちに矢が飛んできた。先ほどと同じ矢だが、軸に結びつけられた細長い紙は、どうやら朱莉が送ったものとは違っているらしい。本当にすぐ返事が来たのだ。朱莉が紙を開いて読み上げる。

「『ずっと家』……確定」

「家って」

「幽暗の本部の、自分の部屋のこと」

「場所は? 塔の中のどの辺りだ?」

「私は知らない。幽暗に行ったことがないから。でもまあ、生かすにも殺すにも、幽暗の自分の部署が一番やりやすいでしょうね」

「お前なあ!」

 朱莉の机に平手を叩きつける。殺すなどと吐かれて平気なわけがなかった。平坦な口調だから余計に。

「今は冗談でもやめろ」

「沸点が低いよ、由羅」

「悪かったな」

 全く気持ちのこもっていない謝罪。肩の前へ落ちた髪を後ろへ払いのけて仕切り直す。

「じゃあ他に。他に言えることは」

「ないよ。私にはもう、何も……大口を叩いたくせに、会わせられなくてごめんなさい」

「謝らなくていい。私の方こそ八つ当たりして悪かった」

 ようやく頭が冷えてきた由羅は、事務机から離れる。

「そろそろ行くよ」

「どこに?」

「聞かなくてもわかってるんじゃないか? 決まってるだろう」

 立ち去りかけた足を一度止め、はっきりと言った。

「直接、捧に会う」

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