一騎当千

十四 希望の少女

 捧は大通りを駆けた。珍しく、自分で姿眩ましの術まで使って。館を出たときからずっと、妖力の残りに気をつけることもなしに術を使い続けていた。

 人の群れを縫って、走る、走る。目指すところは特になく、足はただ漠然と東へ――〝死神〟の館がある西の地区の、反対側を目指していた。

「あれで、よかったのか?」

『ええ、上々です』

 誰かと会話しているわけではない。問いも答えも、自分の口から出ている。端から見たらひどく奇妙だが、捧に周りを気にする余裕はなかった。もしかしたら術の効きが甘くて、誰かに見られているかもしれないが、だとしても無視されるはずだ。様子がおかしい奴などこの街にはごまんといて、気が狂った奴は放っておくに限るのだから、捧のことだって無視される。

 ひたすらに走り、途中で何回か手持ちの薬を飲んだ。捧の中にあるほんのわずかなセンから、妖力を引きずり出してくれる薬である。本来は、完全なセンを持つ者――というか、センを奪われるなんて稀有な経験をしていない者、世間の大多数のために作られた薬であるから、捧に対する効果は弱い。通常の用量を超えて口に含み、通常よりも強い副作用の倦怠感に襲われながら東へ向かった。

 館を出たのが夕方で、今はもう新しく登った太陽が高くなっている頃だが、ときに走り、ときに歩いて、休みもせずに進んでいた。疲れは元来感じづらい体だし、気が張っていて眠気もまだ襲ってこない。幸いなことに、走っていたらだんだん頭もすっきりしてきて、考えごとをする余裕もできた。

「これからどうしよう」

『あの商人の知り合いに頼めば、雇ってもらえるのではありませんか』

「ああ……」

『ずっと走っているわけにもいきませんし』

「まあ」

『金だってもらえます、一石二鳥でしょう』

「そうだな」

『今進んでいる方面に店があります』

 悩む必要もなかった。朱莉を頼ることに決め、足を早めた。

 隣に紫林がいるような感覚がしていた。導くと約束してくれた彼が、どこかへ捧を連れて行ってくれるかのようだった。

 二日後の昼下がり、町並みの彼方に、漆喰固めの建物たちが見えた。

 名は白梅楼はくばいろう。朱莉の経営する「香林館こうりんかん」系列に名を連ねる、大規模な複合施設だ。旅館ホテルは、目玉が飛び出るような料金の特室から安く泊まれる簡素な小部屋まで幅広く取り揃えており、区域こそ分かれているものの、有閑の金持ちも浮浪者も利用する。併設の料亭レストランも同様で、様々な系統の料理が提供されるのだ。地下には賭場カジノがあり、貧富が入り乱れて大金を動かす。他にも酒場など細々とした小店が入っており、そんな諸々が、広大な敷地に乱立する数多の白壁の楼閣で行われているのだった。

 この街で随一の大きさを誇る商業施設、白梅楼。広さ、業種の多さに比例して、大勢の従業員を雇っているから、急に就業希望者が現れても受け入れてくれそうだ。しかも店主は朱莉、知り合いがいるのは心強い。商いをよく心得て、労働者を雑に扱う代償は知り尽くしている彼女のことだから、劣悪な待遇の心配もいらなかった。

 ひとつ、入り口がわからないという問題はあった。正面から踏み込めば入場料を取られて客として扱われてしまうから、通用口を探し、かつ従業員の誰かに入れてもらうしかない。

 ひとまず、敷地内を歩いてみることにした。巨大な建物だし、いつか行き当たるかと軽く構えておく。

 裏手へ進むうちに、数十分で見つけた。壁に溶け込むような白色の扉、中央付近には「関係者以外立入禁止」の文字。思ったよりも早くて、自分の幸運をありがたく思った。

 通用口の近くには水路があった。一歩で楽にまたげそうな程度の幅しかない。楼で出た汚水を処理するためのもののようで、あまりいいとは言えない臭いが漂っていた。

 捧は、じめじめとした日陰で待つ。長引いても、退勤の時間になれば誰か出てきてくれるはずだ。

 日が沈む頃合いまで立ち尽くしていた。そろそろ疲れたな、と何度か思った末のこと。ガチャリと音がして扉が動いた。

 姿を現したのは少女だった。重そうなバケツを傾けて、濁った水を水路に流している。彼女が顔を上げたとき、捧と目が合った。

 今だ、と思った。

「すみません」

「え、えっ、あたし?」

「はい」

 少女はまごついている。無理もない、こんな場所に部外者がいて、しかも話しかけてきたのだ。驚かせたかと少し申し訳なく感じつつ。

「ここで働きたいのです」

 ぬかるみに膝をつく。服が汚れるのも気にしない。

「支配人に話を通していただけませんか。お願いします」

 両手をつき、地面すれすれまで頭を下げた。爪の間に泥が入り込んでくる。色の抜けた髪の毛先が、黒い土を撫でる。泥が嫌だと思ったけれど、行為そのものに抵抗はなかった。

 少女は絶句し、短く唸って、

「……あたしに言われても困るけどよぉ……あの、とりあえず、中に入りなよ。頼むから、顔上げてくれって……」

 心底弱ったといった風情の声で答えた。

 すぐに受け入れられたのが意外で、捧はしばし少女を見上げ、もう一度泥の中に手をつく。

「ありがとうございます」

 深く礼をすると、「もうやめてくれ」と必死に止められた。

「いいから、こっちだ。足元気をつけて。あ、あたしの名前は渦潮うずしおっていうんだ、よろしくな」

 通用口を入ると、薄暗い部屋だった。ゴミをまとめた袋がそこかしこに積んである。ここはゴミ捨て場になっていて、業者が回収に来るまで置いておくのだと、渦潮は勝手に一人で喋って教えてくれた。

「さっきのは、掃除で使った水を捨ててたんだ。……それにしてもお兄さん、ちょっとは考えてくれよな。土下座するなんて汚いって思わないのかよ! 働くんなら、泥まみれになっちゃいけないだろ」

 すっかり困りきった顔で言いながら、手ぬぐいを渡してくる。捧はひとまず受け取ってから、腰を折った。

「申し訳ありませんでした」

「や、そういうことじゃなくて。顔上げて!」

 渦潮はまた慌てて、強めに首を横に振る。

「あそこまでしなくてもよかったって話だよ! ちょっと声をかけてくれれば聞いたのに。ていうか、やめてくれよ、今の敬語。なんか変な感じがする。――よし、直してくれないと、もう返事しないからな」

 確かに敬語を使おうとしていた捧は、しぶしぶ名前ごと言い直す。

「……渦潮」

「はーい、なに?」

「まずは、入れてくれてありがとう。本当に助かった。部外者なのに……」

「どうってことないよ! お兄さん、働きたいんだろ? じゃあ追い払わないよ」

「……本当に、紹介してくれるのか?」

「するぞ? あたしみたいな下っ端、役に立てるかわかんないけど、ちゃんと案内する!」

 渦潮は両手を握りしめて意気込んでいる。

「オレ、警備員に捕まったりしないか?」

「お兄さんが本当に働きたいと思ってるなら、心配いらないよ! なんか、そういう仕組みになってるらしい」

「へえ……」

「お兄さん、名前は?」

「捧」

「捧な。わかった。じゃあお兄さん、支配人のところに行こう。見た目を綺麗にしてくれ! 泥を落として、手とかも洗ってさ。急ぎで頼む!」

「わかった」

 ようやく、捧は手ぬぐいで服を拭き始めた。

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