十五 交渉術と頭痛

 ゴミ捨て場を出れば、明かりが弱めに灯された、薄汚れた廊下だった。見るからに従業員用の空間である。

 と、両手に掃除用具を持った壮年の男がやってきた。渦潮の姿を認め、声をかけてくる。

「おう渦潮、北側の渡り廊下も終わったぜ」

「あ、ありがと!」

 くだけた口調から、同僚だろうと想像がついた。

「あのさ、悪いんだけど、少しおじちゃん一人でやってくれないか? 戻れなくなっちゃってさ」

「任せとけ。そっちの兄ちゃんのことがあるんだな? 仕事サボる分、きちんと案内してやるんだぞ」

「わかった。助かるよ!」

 そんなやり取りを経て、渦潮と捧は、壮年の男とすれ違った。

「……渦潮」

「なに? どんどん言って!」

「オレ、余所者だから、もっと変な目で見られると思ってたんだけど……そうでもないな」

 肩透かしを食らった気分で感想を述べると、渦潮は嬉しそうに笑う。

「あはは、そうだろ? 皆、自分から深入りはしないんだ。同僚がどこから来て何をしてようが、関係ない。今が大事だって感じだな」

 得意げに説明する渦潮と歩いていると、また従業員と会った。山積みの箱が自ら歩いていると勘違いするほどに、大量の荷物を抱えた若い女だった。建築物のようにうず高く積まれた荷をひとつも取り落とさないのもさることながら、顔の前にも箱が積まれているのに、廊下に沿って歩き、障害物は避け、曲がり角も器用に曲がっている。開いた口が塞がらない捧が、彼女とすれ違おうとしたとき。彼女はいきなり、どさりと荷物を床に置いて、素晴らしい笑顔で渦潮に迫った。

「渦潮ちゃん! 隣の方は誰? 彼氏? きゃーっ、仕事場に連れてきちゃうなんて!」

「あたし、何も言ってないんだけど」

「あらそう? ごめんなさいね。でも私嬉しいわ! 渦潮ちゃんてば全然色恋のケがなくて、私とっても心配してたんだから。これで安心!」

「だから違うって! 勘違いはやめてくれよな。あたしだけならともかく、お兄さんも巻き込むのは困る」

「えー、残念。じゃあなんなの? 彼は渦潮ちゃんの何? 教えて?」

「姉さん、荷物運びなよ」

「ちょっとくらいいいじゃない。もう、仕事あがったら話してよ! 絶対に!」

 頬を膨らませてむくれると、また箱を担いで歩いていった。細い体のどこにそんな力があるのか、捧は目を丸くする。

「……すごい人だな……」

「あっ、お兄さん、嫌に思ったらごめんな!? 姉さん、すぐ誰かをからかって一人で盛り上がっちゃって」

「いや、気にしてない。……力持ち、だな」

「だろ? 姉さんはすごいよ! 従業員みんなで腕相撲大会をしたら、全員に勝って、優勝しちゃうんじゃないかな」

 にっこりと笑う渦潮からは、同僚のことが好きなのがよく伝わってきた。

 その後も何人かとすれ違いながら歩いた。存在がないように寡黙な者、半ば強引に捧と話したがる者、のらりくらりとして発言が的を得ない者と、性格は様々。皆、渦潮とは最低でも一言の挨拶は交わしていた。

「渦潮、すごい」

「え?」

「従業員の誰とでも、話してた。本当に仲がいいんだな」

「そう? ありがとな!」

「渦潮といるだけで、顔を覚えてもらえそうだ」

「ははっ、じゃあ働けることになったら、あたしが皆に紹介してやるよ! きっとすぐ馴染めるはずだ」

 その話をする頃には、もうずいぶんと歩いて、支配人室に近づいていた。従業員の姿はまばらになり、客たちの声も遠ざかる。磨き込まれた大理石の階段を登っていると、ふいに渦潮が前方を指差した。

「あれが支配人室だよ」

 ぴったりと閉じられた木製の扉。来客を拒絶するかのような重厚な見た目に、中にいるのはよく知る相手であるにも関わらず、気づけばごくりと生唾を飲み込んでいた。

「白梅楼の雇用方針は、『来る者拒まず、去る者追わず』なんだってさ。きっと雇ってもらえるから、お兄さん、あんまり緊張するなよ」

 渦潮も表情が硬くて、緊張しているのが見て取れた。とはいえ、捧を元気づけようとしているのも伝わってきて、いくらか励まされた。

 軽く握られた少女の拳が、深い茶色の木を三回叩き、少し上ずった声を上げる。

「支配人、掃除係の渦潮です。お時間よろしいですか?」

「平気だよ。入って」

「失礼します」

 扉ごしの声に許しを得て、渦潮は重たそうに取っ手を押した。

「働きたいと言ってる人がいるので、連れてきました」

「そうなの。働き手が増えるのは嬉しいことだね」

 捧や由羅に対するのとは違って、とても優しげな朱莉の声がした。白梅楼ではよき経営者を演じているらしい。客と話すこともあるのだから、従業員にも慈悲深いよき支配人の顔を見せているのだろう。

「外にいるんでしょう? 入って」

 朱莉が呼びかけ、渦潮も扉から顔を突き出して捧に視線を送る。捧は心を決めて、扉の影から出ると、支配人室に足を踏み入れた。

 正面に、立派な事務机に座った朱莉がいた。彼女の赤い目が捧をとらえる。――このとき、朱莉の顔はほとんど変わらなかったが、捧から見れば、驚いているなとひと目でわかった。

「えっ、と……この人が、その……」

 いざ支配人を前にして、渦潮はまごついている。捧は逆に、よく見知った商人に会えて、肩の力を抜くことができた。なんのためらいもなく、知人として振る舞える。

「朱莉」

「えっ、お兄さん、支配人の名前!?」

 当然、何も知らない渦潮は隣で顔色を驚愕に染めた。

「呼び捨て、いやそうじゃなくて、でも知っ、ええ?」

 支配人室だということも忘れて取り乱している。捧と朱莉を何度も見比べては、混乱から抜け出せずに支離滅裂なことを口走った。朱莉はそんな彼女に、一言だけ言い放つ。

「渦潮」

「ひゃいっ」

 渦潮が背筋を伸ばす。相当慌てているようで、返事も噛んでいた。

「下がりなさい」

 有無を言わせぬ確固とした口ぶり。笑みを浮かべたままなのが逆に恐ろしい。少女は目にも止まらぬ速さで踵を返し、裏返った声で挨拶を残した。

「失礼します!」

 どたばたと駆けていった渦潮の手で、バタンと扉が閉められる。部屋の中はしんと静まり返った。

 朱莉の演技していた笑顔が消え、代わりに送られたのは、懐疑に満ちた視線。無表情が感情を帯びているのが、捧には物珍しく思えた。

「…………捧。なんの真似?」

「見ての通り、雇われに来た」

 あっけらかんとした態度に、朱莉はわずかに眉根を寄せる。

「私の依頼は放置なんだね?」

「どれだけ時間をかけてもいいって言ったのは誰でしたっけ」

「……わかった。一旦置いておく。でも、何を考えてるの? 気味が悪い。君に限って、稼ぎに出てくるなんてありえない」

「別にいいだろ、どこで働いたってオレの自由だ」

「おかしい。〝死神〟の稼ぎで、貯金が底をつくはずないのに」

「金はあるよ。でも色々と混み合ってるんだ」

「……出稼ぎなら由羅も一緒に来ればいいでしょう、私と顔見知りなんだから。捧だけで来るのは不自然。由羅だけがわざわざ人脈コネのない場所で働く、その理由がない」

「由羅は関係ない」

「……ええ?」

 捧の口から出たとは、到底思えなかった。〝死神〟といえば、妖力のことであったり、それぞれが抱えてきたものであったりの関係で、お互いにお互いが必要な二人組だ。朱莉が最初に彼らに会ったときからそうだった。信じがたい気持ちで身を乗り出す。

「由羅のところが嫌になったの?」

「違う。どっちかっていうと……自分?」

「自分」

 掴みどころがない発言に、朱莉は心の中で唇を噛んだ。仲違いならまだわかる、しかし自分が嫌になったとは――自分が嫌になったら朱莉のもとで働くのか。なぜだ。脈絡がなさすぎる。由羅との仲を心配する気持ちはもちろんあったが、大部分は別の心配だった。

 捧が一人でいるということは、〝死神〟の仕事が滞っていることを意味する。それでは朱莉が困るのだ。高品質の臓器を仕入れさせたら、彼らの右に出る者はない。朱莉が求めるものは、〝死神〟以外では代用が効かない。センを失った妖怪だって、無尽蔵の妖力の持ち主だって、簡単には見つからない。ましてや、両者が手を組んでいる状況など相当の希少さだ。どうにかして〝死神〟を元の状態に戻して、一日でも早く臓器の取引を再開しなければ。焦燥に追われ、念押しするように再び問う。

「きちんと聞くよ。志望動機は?」

「金が必要だから」

「それを知りたいんじゃないって、普通わかるでしょう。私が言ったこと聞いてた?」

「聞いてたよ。でも、本当なんだって」

 捧は、貼りつけたような笑みを崩さない。朱莉が返事に迷っているうちに、強引に話を進める。

「妖力のことならご安心を。燃料の心配はいりません」

 薬の瓶を手に取って見せ、振ると、丸薬が転がって軽い音を立てた。

「どうですか、支配人。『来る者拒まず去る者追わず』だとお聞きしましたが」

 朱莉は、長い沈黙の末に長いため息をついた。今日の彼女はとても表情豊かだなと、原因の捧は自分を棚に上げて思う。

「とりあえず、採用」

「え?」

「どうして君が驚くの。要求してる側なのに」

「思ったより緩かったからさ。大丈夫? 敵対企業とかに潜り込まれない?」

「知り合いじゃなければもっと探りを入れてる。あと、白梅楼の結界の中では、管理職を除いて妖術が使えない。安全性の面と、賭場カジノでイカサマを防ぐために、一切禁止。だから心配はいらないよ」

 朱莉の声はもはや、投げやりな響きすら持っている。雑談も面倒くさそうだ。捧の強情さに折れて、膠着状態を打開するため、一度引き下がることにしたらしい。手慣れた仕草で新規契約の書類に記入している。

「名前書いて」

「オレの名前って本名じゃないけど」

「問題ない。形式的なものだし」

 とんとんと指で叩かれた先に細い黒の線。それに乗せるように自らの名を一文字記せば、すぐに回収された。朱莉はまた別の書類を出して書き始める。

「配属はどこがいい? 新人には、厨房の下ごしらえか、掃除くらいしか任せられないけれど」

 普段から料理はしているから、厨房がいいかとちらりと思う。けれど思い浮かんだのは、渦潮の顔だった。捧にも明るく接して、支配人室まで案内してくれた少女。まだ会ってほんの少ししか経っていなくても、彼女とならば上手くやっていけそうな気がした。

「掃除係で。……あと、できれば渦潮と一緒が、いいんだけど」

「わかった、清掃ね。ええと、あの子は……」

 立ち上がってしばらく棚を漁り、紙の束を取り出してページを繰った。

「渦潮……あ、賭場カジノの方。……ねえ、捧」

「何?」

「正式な雇用は少し先になるよ。把握しておいて」

「え、タダ働き?」

「給料はちゃんと出る。業務も明日からやってもらう。形式上の話だから実務には影響しないよ」

「……どういうこと?」

 不思議がる捧に、朱莉は書類を整理する手を止めず答える。

「白梅楼は、色々な業種の色々な店が、それぞれの区画で営業をしてる。売店はもちろんのこと、料亭レストランとか賭場カジノとか。旅館ホテルなら白梅楼が直営してる」

「うん、だよな」

「私が全部の業種を管理してるわけじゃない。いくらなんでも体が足りないからね。賭場カジノがちょうどそうで、委託してるんだけど……責任者が全然書類に目を通さなくて、受理がものすごく遅れてるの。気まぐれで気分屋でものぐさで……まったく、あいつは」

 後半は朱莉の個人的な評価だろう。捧は、苦々しい口調に聞き覚えがあった。

「それってもしかして、オレも知ってる人?」

「……正解、砂京がやってる。本当に名前だけの存在だよ、実際に仕事してるのは部下の子たちばっかり」

 彼女の言いぐさから、本当に嫌気が差しているのがよくわかった。毎度のことながら、夫婦であるのが奇妙だ。捧が踏み込めることではないけれど。

「これで五枚め。名前書くだけなんだから早くしなさいよ……さてと。必要書類は揃ったね。社員寮は七十二号室。食事、風呂なんかは、先輩の指示に従って。裏方に制服はないから私服で平気だよ。ただし、客の前には絶対に姿を見せないこと。これだけ守ってきちんと働いてくれれば、何も言うことはない」

「はい。痛み入ります」

 深く礼をするが、「早く出ていって」と追い払われてしまった。

「形だけの敬意は好きじゃない」

 扉を閉める前、最後に言われた。他人行儀すぎたか――少し反省した。

 廊下に出ると気が抜けてしまった。難所を突破してひとまず安心する。

 すぐに歩き出す気分ではなく、なんとなく壁に寄りかかって、物思いに沈んだ。支配人室の前を通る不躾な客はいないし、従業員の姿も今は見えない。

 一人でも、どうにかなるものだ。

 もちろん、妖力を持たない捧は死と隣り合わせで生きなければならない。少し薬を出し渋ろうものなら、すぐに倒れる。けれど慣れれば、薬を使う頃合いも、何日に一度と言った具合で見極められるだろう。薬が尽きたら、給料を全て注ぎ込んで買えばいい。足りなかったらかけ持ちも考えて、あとはその繰り返しだ。

『順調な進み具合です』

「うん」

『この調子で――』

「おい、あんた。何してんだ」

「えっ」

 明らかに自分に向いている野太い問いかけ。弾かれるように顔を上げると、顎ひげを蓄えた男が、不審そうにこちらを見ていた。

「あっ、いいえ、なんでもないです」

 首を横に振って取り繕った。せっかくもぎ取った労働の権利だ、しくじって失ってしまっては元も子もない。

「失礼をお許しください。今日からここで働かせていただく者です。でも、道が分からなくて、困ってしまって」

「配属はどこだ?」

「清掃です」

「そうか。案内してやるからついてこい」

 男は終始無言で、従業員の通路を案内してくれた。本当は渦潮と歩いたときの道を覚えていて一人でも歩けたのだが、わざわざ言うこともない。

 最近、どうもぼうっとしてしまう。紫林の助言を求めて頭の中ばかりに没頭してしまい、周りへ意識が向かなくなるのだ。仕事中にこうならないように気をつけないと、と自分に言い聞かせた。

 社員寮は、四人一組の相部屋になっていて、捧が入る部屋はすでに二人が使っていた。肩幅が広く背も高い壁のような男と、じろりと捧を見たきり関わろうとしてこない無口な女。女の方は耳が猫によく似ているから、十中八九、猫又の筋だろう。大男は、屈強そうな見た目に反しておっとりとした性格らしく、間延びした口調で従業員の生活について教えてくれた。

 慌ただしく身の回りを整えて、一通りの準備が終わった頃には夜だった。食事の席では、昼間に仕事をしてきた者たちが達成感とともに夜食を味わい、朝食をかき込むのはこれから夜勤が待っている従業員。だだっ広い食堂で、皆が思い思いに親しい相手と肩を並べて食べる中、捧は隅の方でひっそりと一人で箸を動かした。唯一の知り合いの渦潮は、見つけられなかった。

 その後は、人だかりに押されるまま、共用の風呂場で体を洗い、またも押されて自室に戻った。同室の大男と猫又は、風呂の後片付けの当番があるとかで、部屋を出ていった。することもないし寝てしまおうと、一人で残された捧は早々に布団に入る。

 髪をおろそうと髪紐に触れたとき、不覚にも、じくりと胸のあたりが痛んだ。

『紐がどうかしましたか』

「……ちょっと、由羅のことを思い出して」

 捧の髪紐は、由羅にもらったものだ。彼が使っていたのを譲り受けた、捧にとってはどんな上等な贈り物よりも価値があるもの。使い古されて表面が毛羽立った地味な紐が、今では由羅を思い出せる唯一のものになってしまった。

『古いですね。捨ててしまったらどうです』

「そんな」

『捨てられないのですか』

 図星をさされて、黙るしかなかった。

 別の紐なんて、選り好みしなければいくらでも手に入るし、そもそも髪を縛らないか、短く切ってしまえばいいだけの話。今使っている紐を捨てたところで大して困らない。それでも決断できない事実が、心残りを示して余りある。

 彼を置いて来たにも関わらず、髪紐たった一本にまだ執着しているのだ。

 この感情が「焦がれる」の類かもわからない。妖力を簡単にもらえる生活の便利さに甘えたいだけかもしれない。言える立場でないのはわかりきっていても――無性に寂しい。迷惑をかけたくないから館を出たというのに。

『あの男の痕跡は、あっても、あなたの枷になるだけです。さっさと捨ててしまいなさい』

「すぐには無理だ」

『痛い目を見ても知りませんよ』

「うん……」

 だんだん疲れを感じてきた。環境が激変したことだし、寝た方がいい。独り言を振り切るように普段より手荒く髪をほどいた。

「寝る」

『そうですか』

「オマエが連れて行ってくれるんだろ、ならもう、なんでもいい」

 呟いて、枕に顔をうずめた。意識が眠りへと引かれていく。

 とにかく無意味なのだ。由羅はいない。捧一人で、全てどうにかするのだ。白梅楼で朱莉に助けを求めたように、紫林の所属する場所で彼に会って、相談すればどうにかなる。――根拠をよく理解していないのに、確信していた。その異様な思考を異様と思ってはいなかった。

 紫林を探すはずが、なぜか白梅楼にいる、という現状さえも、どうでもよく思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る