十六 違う生き方を
「掃除にコツなんかないよー」
翌日、投げやりに言ったのは、捧の新たな上司、渦潮。
「ホコリを払って、拭いて、磨くだけだ。ていうか、やってるうちに覚えるよ! 実践あるのみだ。一緒にやろう!」
渡されたのは、バケツに入った道具一式だ。雑巾を始めとしてハタキや洗剤が顔を揃え、収納用の
「いい感じに使って、いい感じに綺麗になれば平気だよ。じゃ、行こう」
渦潮の先導で迷路のような建物内を歩く。他数名の従業員とも合流しつ離れつ、ひたすらに廊下や部屋を磨き上げる。話好きと見える渦潮は、手を動かしながらずっと喋っていた。
「お兄さん、よかったな。雇ってもらえて」
「いや、まだ認められてはないらしい」
「え? でも働いてるじゃないか」
「朱莉が許可を下ろしてくれただけなんだ。正式には、
言ってから、渦潮は朱莉の夫のことを知っているだろうかと思い至った。が、無用の心配だったらしく、平然と返される。
「あー、そういえば。あたしのときもだったなー。
「そんなに」
「うん、困ることはなかったし、お給料もらえたからすっかり頭から抜けちゃって。砂京様はさ、あたしたちの間じゃ『ぐうたら支配人』って呼ばれてるんだ。一応は
「くく、ぴったりなあだ名」
この職場は楽しそうだ。掃除係のような下っ端なら、客と顔を合わせることもなくて気楽だし、捧は早くも愛着が湧き始めていた。
注意されることなく一日を終えた。初日にしてはいい出来ではないかと、満足感を持ちながら夜食に向かう。ごった返す食堂で、どうにか自分の膳を受け取って、席を探していると。
「お兄さん、こっちこっち! 捧ー!」
渦潮の声がした。壁際の席で元気よく手を振っているのが見える。
「一緒に食べよう」
席を勧められ、車座の中に収まる。渦潮を始めとして数人がともに食事をしていた。
「兄ちゃん、無事に就職できてよかったな。おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
にかっと笑いかけてきたのは、渦潮と特に親しそうだった壮年の男だ。見渡せば他にも、昨日と今日で見かけた者がちらほらと座っている。
「静かに食べたいんだったらごめんなさいね。この子、初めての後輩だからってそれはもう張り切ってて、世話したくてうずうずしてるの」
「あー! 言わないでくれよ!」
「まあまあ、今日のところは勘弁して、一緒に食べてってほしいな。もし気に入ってくれたら次も、ね」
わいわいと大勢で賑わう食卓は初めての経験だった。案外悪くない。捧が話しかけられることもあれば、数人が隣で盛り上がっていたり。発言しないで見守っている者も、心なしか楽しそうだ。箸を動かしていると、卓に近づいてくる者があった。また誰かの知り合いかと、特に気にせずにいると、その青年は首だけを突き出して口を開く。
「あー、君が、渦潮だよね?」
「渦潮ならあたしだぞ」
「連絡。なんか、部下? 後輩? を貸せって、支配人が言ってる」
「捧のことか?」
「……オレ?」
自分を指差すと、周りの数人も不思議そうに捧を見てきた。支配人が直接従業員を訪ねるのは、珍しいことらしい。
「話があれば、いつも支配人室に呼ぶのに。どうしたんだろう」
「仕事は真面目にやってたし、お叱りではなさそうだけどねぇ」
「ま、急いで行ってきなよ。支配人を待たせるのはまずいし、飯が冷める」
「……じゃあ、ちょっと」
捧は、椀に残る米を名残惜しく思いながら、席を立った。
支配人、つまり朱莉だ。支配人室で話した他に、連絡があるのか。まさか昨日の今日で
「人違いじゃないよね。渦潮は何人も後輩持てるほど偉くないんだし」
「言い方ひどいぞ! あ、そういえば! お兄さん、支配人と知り合いなんだってさ、すごいよな!」
渦潮の言葉で、ええっ、と場が沸き立つ。輪から弾き出されてしまうと心細かった。少し恨めしさを感じながら、ずらりと並ぶ食卓を横目に食堂を出ると。
「ああ、捧くん」
「……砂京、さん」
待っていたのは朱莉ではなく、「ぐうたら支配人」だった。
手を離した扉がひとりでに閉まって、捧と食堂の間を完全に隔てた。
全くの意識の外にあった人物の登場に、動揺を隠せない。顔はひきつっていないだろうか。日頃から持っている嫌悪感が、とっさのことで現れてしまってはいないか。不安になったが、砂京はそのことには触れず、有無を言わせぬ口調で話しかけてきた。
「突然で悪いんだけれど、話があるんだ。いいかな?」
「……わかり、ました」
「静かなところで話そうか」
踵を返した砂京を慌てて追いかける。騒がしい夕餉の席はあっという間に遠くなった。砂京と――苦手な相手と一対一で向かい合っている事実を意識して、息が苦しくなってくる。
しばらく歩き、従業員の通用口から外に出る。ひんやりとした夜気が身を包んだ。街の喧騒は遠く、他人の気配もなく、本当に二人きりで話したいのだとわかる。
「やっと会えたね、捧くん。名前だけとはいえ、白梅楼の支配人をやってて命拾いしたなあ。合流できた、もう安心」
「さっきから、なんなんですか」
「君に、お得な求人のお知らせ。報酬は弾むから、〝死神〟として使っていた力を少しばかり、僕に貸してほしい」
「具体的には?」
「身構えなくていいよ。君にとっては簡単なことだ」
核心に迫るのを避けているようなはぐらかし方だ。
「まるで、聞くなって言ってるみたいですね」
「……その通りだけれど、何か?」
砂京の視線が、冷水を浴びせてくるかのようになり、捧の背筋が薄ら寒くなった。
今の自分は本当に弱い。妖力がないのはもちろん、武器の類も何ひとつ持っていない。しかも砂京は、体裁の上では白梅楼の関係者、下手に対立しようものなら、悪い事態は避けられない。
考えあぐねていると、畳みかけるように砂京が言葉を継ぐ。
「文句が多いね。断るのなら、君の白梅楼への就業申請を退ける」
「そんな、朱莉は」
「知らないわけじゃないだろう? 朱莉は白梅楼全体の支配人で、他の責任者へは橋渡し役にすぎない。僕が彼女の夫だから色々と特例措置があるだけだ。
「……こういうときばっかり言うんですね」
砂京が不機嫌そうに目を細めた。彼の神経が刻々と尖っていくのがわかる。
「働き手の頭数ならあるんだ。一人減ったところで僕は困ら」
「やります」
砂京が言い切るより先に返事をした。
何を要求されるかわからないが、働く場所を条件に出されたら、従うしかない。例え卑怯だと叫んだところで、誰にも聞こえないのだ。潔く諦めるべきとは考えずともわかる。
「物分かりがよくて助かるよ」
態度を一転させ、砂京は満足気に言った。すぐに腰に挿している扇子を手に取り、張りのきいた音を響かせながら開く。施された銀色の雲の絵が、白梅楼の明かりを浴びて輝くのを、捧はぼんやり眺めていた。
扇子の動きとともに、砂京の周囲に濃灰色の霞が漂い始める。――そこまでは見慣れた景色だった。妖術を使うときにおのおのに生じる、何かの形。由羅なら金の炎、朱莉なら紅の雷、砂京は
「紫林」
砂京が名を呼んだ。同時に霞が渦を巻き、人影が現れた。長い三つ編みを背中に垂らした男が。
捧の瞳が、限界まで見開かれた。頭を殴られたような衝撃は、この先生きていたってきっと簡単には味わえない。
「なんでアンタと紫林が」
「ああ、気づいたかな?」
砂京は少しも慌てる様子を見せずに、微笑を浮かべた。知られてもまずいこととは思っていないらしい、むしろ得意そうだ。
「僕はね、
「そうじゃなくて」
「気になることも多いだろうけどね、今は秘密だ。追って話すよ」
唐突に扇子が空気を打った。
傀儡に指示を出した、と気づくのと、ほど遠くない場所から撃鉄を起こす音が聞こえたのが同時。身を隠せる場所はない。武器もない。妖術は使えず防御も不可能。完全なる丸腰。避けるなどもっての外、銃弾の速さに適うはずもなかった。
発砲音がして、どさりと捧の肢体が落ちる。砂京の背後に控える紫林が、構えていた銃を下ろした。
「妖術入りの銃弾は、入れるときに痛いのが問題だね。これでも改良して、マシになったんだよ? ……治療はちゃんとするから、少しだけ我慢してほしい」
聞こえていないとわかりながらなお話しかけた。捧に近づくと、身をかがめて銃弾を拾い上げる。扇子を振って、紫林に捧を担がせた。
「さあ、行くよ」
「かしこまりました」
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