二十 決定打
それからは、毎日が手術、手術、手術で、血を見ない日はなかった。初めのうちは直接体を切って臓器を取り出していたのだが、しばらく経ったある日、違う手術を任された。
妖脈に刃を入れるのだ。
「本当にいいのか、そんな大切なもの取って」
「儂らは指示通りにやるだけだ」
「わかってるけどさあ……」
「手術を施した後に、患者がどうなるのかすら、儂らには告げられない。さっさとやるぞ」
老爺は相変わらず淡々と言って、指を複雑な形に組み合わせて妖術を使った。仰向けの患者の体から光が溢れ、枝分かれした妖脈が表皮へ浮かび上がる。
「じいさん、オレもたまにはそっちがやりたい」
「やめておけ。お前が妖術を使うとろくなことがないぞ」
「なんだよ」
唇を尖らせながらメスを入れた。普段使っているものとは違うらしく、非常に貴重な、妖力そのものに触れて干渉できる金属が熔かされているとかなんとか老爺が言っていた。そんな手のかかるものを作るくらいなら、ただの手術器具を使わせて、握る外科医の方に妖術を使わせればいいのに、と思う。何も事情を知らないが、勝手に想像した。
妖術を使おうとすると、いつも老爺に止められる。不服な気持ちもあるが、老爺の言うことだから聞き入れているのだ。記憶をなくした自分より、愛想は悪くても常に冷静な老爺の方が、よほど信用できる。
場数を踏むうちに慣れてきて、手術の傍らで老爺と話したり、考え事をする余裕も生まれてきた。それでつい、考えてしまうのだ。妖術を使ってはいけない理由を。
「そもそも妖術ってどう使うんだ?」
「覚えていないのなら、知ろうとするな。きっと後悔する」
「また言うんだな」
「いいから、早く」
ひび割れた爪のついた老爺の指が、淡く白く発光する妖脈を差す。ひとまず作業を続けた。
「不思議じゃないか? 生きる最低限のことは覚えてるのに、妖術のことだけは記憶喪失で持っていかれたってこと」
「…………」
「誰だって使えるものだろ? 向き不向きはあるけど。でもオレは、こんな感じだった気がする、ってやってみても駄目なんだ。何も出てこない」
「無理に使う必要はない」
「皮肉で言ってる? それとも同情?」
「皮肉のつもりはない」
「ふーん」
脈本体から切り取られた弁は、盆の上に列になって並べられる。始めは白く光っていて、少し時間が経てば輝きは弱まり、大きさも縮んで、最後には大ぶりな魚の鱗が乾燥したもののようになるのだ。全部で二十一ある弁を全て取り除く頃には、序盤で切った三つ四つが分厚い鱗になっていた。
「じいさん、終わった」
合図をすると、老爺は無言で妖術を止める。手術の開始時とは逆に、妖脈が体に吸い込まれて消えていく。後はいつも通り、守衛が寝転がっている患者を回収して終わり――と、思ったのだが、今日は違った。
「終わったようだな?」
一人の男が、作業の終わりを感知したように、ちょうど手術室に入ってきた。台に近寄ると、手術を終えたばかりの患者に手をかざし、何やら妖術を使う。丁寧に扱われている患者を見るのは初めてだった。
「ご苦労」
男は外科医たちの方を向く。その目は気のせいか、二人をまとめて軽蔑しているように見えた。
「いつも助かっているぞ。これからも励め」
「……誰だ、アンタ」
思ったことを口にしたら、珍しく老爺が声を荒げた。
「言葉を慎め、馬鹿者が。この御方は、階級は
「は――はい」
素直に頷いておく。上三位、が何かはよくわからなかったが、響きからして高い地位を表していそうだと思った。顔は覚えたから、今後関わることがあっても、どうにかなるだろう。
「失礼いたしました」
頭を垂れて詫びる。老爺が注意したのだから、あの言動は間違いだったのだ。
「構わぬ、構わぬ。以後気をつけよ」
淵衰というらしい偉そうな男は、偉そうに許しを与えた。
「お前ときちんと顔を合わせるのは初めてだったな。知りたいことはあるか? 今日は気分がいいことだし、答えてやろう」
淵衰は面白がるように見下ろしてくる。知りたいこと、と脳内で反芻して意味を理解したとき、反射的に叫んでいた。
「オレの名前を教えてくれ!」
意外なほど大きな声が出た。自覚していなかっただけで、もう諦めたと思いつつも実は欲していたのだと気づく。
「名前……名前か……」
遠くを見ている。まるで思い出しているような仕草だ。忘れた、とでも言われたらおしまいだ。視線を注いでいると、淵衰がぽんと手を打った。
「うむ。お前は、
「ささげ?」
直属の上司の言うことなら間違いはないだろう。ようやく手に入れた自分の名前を噛みしめる。
「気に入ったか?」
「ずっと名前が知りたかったんだ」
「ほう」
「もっと早く知りたかった」
「はは、それは難しいかもなあ。何しろ今考えたのだから」
淵衰は声を上げて笑った。
――なんでもないように言われた一言が、胸に深く突き刺さった。
「私は、
「…………このっ……!」
思考はなかった。衝動に突き動かされるまま、目にも止まらぬ速さで立ち上がり、同時にメスを掴んで淵衰に襲いかかった。
――襲いかかろうとしたのだ。
硬いものに派手にぶつかる。したたかに打った頭ががんがんと痛み、思わず床に座り込んだ。
「血の気が多いのう」
淵衰は顔色ひとつ変えず、その場を動いてもいなかった。ただ、彼と捧の間に、透明の壁が現れていた。見た目はガラスに似ており、薄く青色を帯びて、表面には
妖術の壁。
悲しくも瞬時に、妖術が使えない理由と、老爺に止められる理由を理解してしまった。使い方を忘れたのではない。使おうとしても体が応えなかったのだ。
捧の
「…………るな」
「ん? 聞こえぬぞ?」
「ふざけるな!」
自分の怒鳴り声が耳の内側で反響した。
「そっちの都合で、好き勝手、何も考えないで」
「落ち着け!」
突然、手荒く後頭部を掴まれて、無理やり頭を下げさせられた。
「申し訳ありません。後でよく言って聞かせますので、本日のところは、どうかご容赦を」
老爺がしたことだった。彼も捧にしているのと同じように深く頭を下げている。老爺の手をはねのけたかったが、それを許さない力の強さだった。
息が詰まりそうな沈黙。やがて淵衰の声が降ってきた。
「まあ……よい。お前も、来たばかりの頃は荒れておったからな。そういうもの、ということで、不問にしてやろう」
「痛み入ります」
老爺がひざまずいて頭を垂れる。捧も渋々習った。満足したのか、淵衰が立ち去る気配がした。
視界には、濁った色の床と自分の足だけ。そして、やり場のない激しい怒り。
物音がしなくなって、やっと老爺が足を崩した。床にあぐらをかき、頭を下げる。
「すまなかった」
ただ一言、痛いほどの思いを孕んだ言葉が捧に向けられた。瞬間、憤怒はやるせなさに変わった。
「……言わ、ないで」
ぼろぼろと涙が溢れる。頬を濡らして顎から落ちるのに任せて、袖口で拭うのも忘れていた。鼻の奥が詰まって苦しくなった。
「じいさんは、悪くない、だろ」
「いや。……儂が、もっと早くに言っておくべきだった」
老爺の、皺の寄った褐色の顔が、いつもより黒ずんで見えた。
「これだけは覚えておけ。権力に逆らってはならない」
「……権、力」
「どんな理不尽を強いられても、直接反抗してはいけない。相手の逆鱗に触れたら最後、死ぬよりひどい仕打ちもありえる。だから何を感じても、権力者の前では抑えろ」
「わかった」
たった四文字のありふれた返事なのに、やたらと苦味を伴っていた。思い知らされたことで、すとんと理解が懐に落ちてくる。自分の立場をわきまえた振る舞いを要求されるなんて、記憶がないなら忘れていてほしかった。
「じいさん」
「なんだ」
「じいさんは淵衰様が嫌いか?」
問えば、老爺は、はっ、と鼻で笑って答えた。
「お前に聞かれたのでなければ、滅相もない、決してそんなことはございません、と答える」
「そっか。安心したよ」
少なくとも自分一人ではない。老爺も取り繕っているだけで、あの淵衰とかいう男が嫌いなのだ。そして、嫌いという理由だけで反抗できる立場ではない。老爺でさえも、しょせんは捧と同じだ。
上手く立ち回らなければならないと、身をもって知った。
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