長大息

十九 捧の場合

これは、〝死神〟が生まれる前の、少しばかり昔の話である。



 最初に覚えた感覚は、眠気。一瞬だけ意識が浮上して、ひどく眠たかった。すぐに再び眠りに引きずり込まれる。数日間はずっとそんな調子だった。

 しばらくすると、だんだん起きている時間が長くなってきて、思考がはっきりしてきた。

 自分は冷たい床に横になっていて、周囲は薄暗い。着ている服は薄手のものが一枚。目の前では、床から太い柱状の物体が突き出し、腰の高さくらいで平たい板を支えている。――外科手術に使う台だ。なぜこんな場所にいるのかはわからない。

 自分については最初に、記憶がないらしい、ということがわかった。今手元にないものに対して、元々あったというのもおかしな話だが、確信があった。ぽっかりと腹のあたりに穴が空いているような感覚だった。

 自分はどこかで生まれて、育って、生きていたように思うのだが、思い出せない。名前もわからない。服の着方とか、文字とか言葉とかは知っているから、それが、自分が赤子でない証拠、ひいては失ったものが記憶だと示す唯一のものだった。ほとんどの記憶を失った中でも、命の根幹に刻みつけられた生きるすべたちは、運よく残ってくれたのだろう。一方でなんの根拠もなく、自分が失ったのは記憶よりもっと大切なものだったのではないかと、漠然と直感してもいた。

 とりとめもなく考えているうちに、空腹を感じた。ずっと寝ているだけだった身には当然のことだ。部屋を出てみると、いかめしい顔つきの守衛らしき者がいたので、食事がほしいと告げると、すぐに出てきた。茶碗一杯の米と汁物という、簡素だが食事には十分な献立だった。どちらもやけに苦くて青臭かったのだが、食べられないほどではないし、胃を満たすのを優先して食べた。思えば、元々食べ物とはどれも苦くて青臭かった気もする。おぼろげにしか覚えていないから、こうだと決めつけてしまえば楽だった。

 それからは、毎日決まった時間に食事が出てくるようになった。部屋に時計はなく、朝夕を判断する道具は換気扇の隙間から見える小さな空だった。そこが明るくなって光が差し込む頃と、橙の夕日が見えなくなった頃の、一日二食。他にできることといえば、用を足すか、古びた建物の中を歩き回ることだけだった。いくつかの部屋があり、全てに、自分のいる部屋と同じく外科手術のための設備が揃っていた。といっても、患者を寝かせる台と使う器具などを置いておく台、器具を保管する棚だけ。こんなに汚れているとなると、施術の衛生面で大きく問題がありそうだ。ずいぶん長い間使われていないようだが――などと考えながら、広くはない建物を巡った。

 建物を出ようとすると、守衛が何も言わずに出入り口の前に立ち塞がった。守衛は筋骨隆々の巨体、片や痩せぎす、体格差は目に見えている。勝ち目はないし、逆らうと何があるかわからないし、第一、そこまでして外に出る理由もない。早々に諦めた。

 守衛と話をしようとも試みたものの、無視された。二日ごとに交代するらしく、人が変わるたびに懸命に話しかけたが、誰も同じ、一言も喋らない。おまけに、いくらと経たないうちに三人で当番を回しているとわかってしまって、会話をする希望は完全に消えた。

 結局、また食事しかやることがなくなった。淡々と繰り返して何日か経つと、守衛が無言で、分厚い本を数冊渡してきた。

 日焼けして褐色を帯びた表紙。古ぼけて開き癖がついているが、ページの抜けはないし、字も図も十分読み取れる。変わり映えしない毎日にはとっくに飽き飽きしていたので、貪るように読んだ。

 題名は様々。『外科入門書』とか『肉体と妖脈について』とか、医術の気配が漂っていた。難しそうで気後れしたが、暇つぶしを選り好みしている場合ではなかった。

 何も覚えていない頭は、乾いた土が水を吸うように早く、大量に、知識を蓄えていった。体の作り、部位の名称、それが果たす役割。器具の使い方、手術後の処置。ただでさえ傷んだ表紙がすり切れるほど何回も読み込んだら、内容を丸暗記してしまった。

 完璧に知っている本を読んでもつまらない。またやることがなくなったな、と退屈さを覚えるると今度は、部屋に男が訪ねてきた。初めてここで会った、守衛以外の者だった。

 小柄な老爺だった。薄汚れてみすぼらしい衣を着ている姿に、自分の格好と似たものを感じて、密かに親近感を抱いた。

「お前か」

 老爺は言う。しかしそんな雑な確認の仕方では、自分が何者かも定かでないのに、答えようがない。

 黙っていると、老爺はまた言った。

「新しく入ってきた外科医は、お前か?」

「……わからない。オレは何も知らない」

「どうやら間違いなさそうだ。あの本は読んだな?」

「……外科の?」

「そうだ。お前はわしと同じ、華煌てい組専属の解体ばらしを仰せつかったのだ。明日から仕事だぞ、心得ておけ」

「かこう、ていぐみ…………」

 少しも心当たりがない。老爺が見かねて補足した。

「華煌はこの組の名だ。いくつか班があり、丁組はそのひとつ。わかったか」

「……はい」

 ぶっきらぼうな態度の老爺は、返事を聞くなり去ろうとした。

「待って、行かないで」

「気安く他者に心を預けるな」

 突きつけられた言葉の冷たさに怯む。しかし屈せず、これだけはと、話の流れを無視して問いをぶつけた。

「オレの名前はなんていうんだ」

 やっと現れた、会話を許された相手だ。彼に聞かなくてどうする。

 記憶がないのだから、当然名前もわからない。その欠落は、自分がひどく虚ろな存在であるように思わせてくる、なんとも厄介なものだった。やっと今日、不安感から解放されるのだと期待する。――老爺の態度はそっけなかった。

「儂にはわからん」

「……え」

 今度こそ老爺は出て行ってしまった。

 立ち尽くすことしかできなかった。世界は、あまり自分に優しくはないのだな、と思い知らされた日の出来事だ。

 親身になって捧と話してくれる気配はなかった。友とか仲間とか、そういったものには、なってくれないみたいだった。

 茫然自失で眠りにつき、翌日、老爺に揺り起こされるまで、深い眠りに沈んでいた。

「起きろ。昨日言った通り仕事だ」

 寝ぼけ眼をこすると、視界に焦点が合う。いつもと似ているようで違う景色があった。手術台に、裸の男の体が転がされていた。

「……解体ばらしか?」

「そうだ」

「手術でもするみたいだな」

「ああ、外科手術だ」

「素人なのに?」

「命じられたからには、やらねばならん。儂らに拒否権はない」

 手術台の男に目を向ける。瞼は固く閉じられて、身動きはしそうにない。

「麻酔をかけてある。回復も早い者だそうだ。しばらくは、失敗しても見逃してくださるらしい。今のうちに技術を全て身につけろ」

 硬い口調の老爺は、メスだ、と銀色の刃物を渡してきた。

 おそるおそる手に取ると、なんだか懐かしい感じがした。手が馴染むようで、同時に物足りない。

 まじまじと刃を見つめていたら、老爺に小突かれて急かされた。

 指示の通りに肌へメスを当てると、よく研いであると見えて、すっと肉を裂いた。本で読んだ内容と老爺の助言を脳内で照らし合わせながら手を動かす。

「合ってるのか」

「いい。早く手を動かせ。本番は時間との勝負だぞ」

「はい」

 なんの問題もなく、手術は終わった。銀の盆の上にずらりと臓器が並ぶ。

「手つきがいいな。初めてとは思えん」

「じいさん、オレって外科医だったのか?」

「儂は知らん」

「あ、そうだった。じゃあ兵士か外科医だったんだろうな。いつも刃物を持ってる仕事で」

 勝手に思う分には自由だ。自分の素性が気になる気持ちは日に日に強くなっていて、どうにか折り合いをつけたかったのだ。真実を知る誰かに教えてもらえたらいいけれど、都合よく進むはずがないのは知っていた。

「じいさんもそう思うだろ」

「ありえない話ではないと思う。血肉への嫌悪感はないらしいしな」

「……あ」

 言われてみれば、体にメスを入れること、流れる血、顕になる体の内側の物にも、抵抗を感じなかった。

「ならば好都合。やはり、あの男の眼には狂いがないのだな」

 老爺はまるで嘲笑うように、遠くを見て言い捨てた。言葉が老爺自身に向いている気がして不思議で、捧はぱちぱちとまばたきをした。

「じいさん、どうしたんだ」

「何がだ」

「男って誰だ?」

「いずれわかる」

「でも……………………いや、やっぱり、なんでもないよ」

「そうか。儂はもう帰る。明日もあるからな、心づもりはしておけ」

 老爺は手術室を出ていく。入れ替わりで見知った顔の守衛がやってきて、臓器と裸体を回収していった。話しかける気は起きなかった。どうせ前と同じように無視されるに違いない。

 守衛も去ってしまうと、がらんとした部屋に血の臭いと自分が残った。今まではここで寝起きしていたが、鼻につく臭いの中にいては寝心地が悪そうだ。勝手に、一つ隣の手術室に移った。運ぶような荷物はない。

 一人になってみると、ふと、外科医の老人はどこに部屋をもらっているのか疑問が湧いた。……が、すぐに考えるのをやめた。

 外に出られないのなら、考えないほうがいい。手術室だらけの建物に軟禁されて言われたことをこなすのが、捧に与えられた仕事だ。老爺が明日も手術といったから、言われたとおりにしておけばいい。

 幸いにして、新しいことを要求されるのはまだ続いていて、味気ないという状況からは遠かった。本当に暇を持て余したとき、自分がどう思うのかは、予想もつかない。

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