二律背反
十一 掬われた感情
〝死神〟が幽暗朔月を屠った翌日は、奇しくも豪雨となった。水瓶をひっくり返したようなひどい土砂降り。まるで、天気の霊たちが一日遅れで〝死神〟に恐れをなしたかのようでもあった。
雨音の中で、捧は目を覚ました。
眠い。飽きるほど寝たはずなのに、まだ眠たい。どうして、こんな睡魔を内に飼いつつ起きてしまったのか、見当がつかなかった。とにかくまた寝たいが、どうにも目を閉じる気になれず、ぼやける視界に天蓋のひだが映るばかり。じょじょに理性が目を覚ましてきた。
――幽暗の頭領を殺しに行った。
――でも、部屋にいなくて――
――銃を撃たれた。
目を見開いてがばりと体を起こした。
館の寝台の上である。服は寝間着に替えられていて、髪もほどかれている。片手に添えられているのは、布団に肘を乗せ、突っ伏して眠りこけている由羅の手だ。
胸に手を当てても、傷や痛みは全くなかった。綺麗に塞がっている。他に頭痛や発熱もない。由羅が治療して、その後も手を通じて妖力を渡してくれていたからだろう。寝落ちしてしまうほどの長い時間、硬い床に座って捧の手を握っていたのか。
は、と何回か浅く息を吸って吐いたとき。聞き慣れた声と衣ずれの音をさせて、長い黒髪がゆっくりと起き上がった。
「捧、具合は?」
「……だい、じょうぶ」
しばらく使わなかった喉から出した返事は、掠れていた。
よかった、と心から安心した様子で眉を下げる由羅。捧を咎めようという気配は微塵もなくて、勝手に一人で居たたまれなくなる。
「オレってどのくらい、寝てた?」
「半日くらい」
長い。ということはそれだけの間、ずっとではないにしても、由羅を拘束してしまったのかもしれない。治療と、妖力を渡すために。
「……あの怪我、どうなってたの?」
「胸の、このあたりを貫通してた」
由羅の爪が一点を差す。貫通か、と言われたことをそのまま脳内で繰り返した。激しい申し訳なさがせり上がってきて、うなだれた捧は無理やりにしぼり出す。
「……なさい」
聞き取れなかったのか、由羅が体を寄せてきた。声を張って言い直す。
「ごめんなさい、上手くやるから、次は絶対にちゃんと、完璧にする」
まただ。順調に進んだことに気をよくして油断して、つまるところ最後に由羅頼み。
「お互い様だろう。私だって伏兵に気づかなかったわけだし」
重くない由羅の態度から、気にしていないのが伝わってくる。けれども何を言われたとしても、自分の中で折り合いがつかないと満足できない、自分の頑固さに嫌気がさした。
「由羅は? 怪我は、ある……?」
「ない。おまえは自分の心配だけしてろ」
とん、と軽く肩を叩いて立ち上がる。
「何か食べられそうか?」
「……軽めのものなら」
「わかった、少し買ってくるよ」
「ごめん、行かせちゃって」
「気にするな」
由羅が寝室を出ていく。一人残された捧は、ひとつ息をついた。
失敗なんて何度もしてきているのに、今日はとても落ち込む。胸のあたりがつかえている感じだ。ちょうど銃弾も胸に受けているのがおかしかった。
役立たずは不要と捨てられるのが世の常だ。由羅はそんなことは言わないし、いつも気にしなくていいと言うけれど、捧の心にはまだ整理がつかない部分がいくつもある。由羅は捧にたくさんのものをくれるのに、何も返せない。何かを返さなければ、埋め合わせをしなければと焦ってしまう。
いつもは薄れて見えなくなっていて、全く意識に上がってこない。けれどふとした瞬間に膨らんで全身を蝕み、暗闇に突き落としてくる、自己嫌悪。いずれ元に戻るだろうと思いつつも、今日ばかりは確証が持てなかった。
嫌だなあ、と何度めにか思ったそのとき、視界の端に奇妙なものが入った――灰色の、煙のような雲のような何か。疲れていて見間違えたかと目をこすり、見直す。……次の瞬間、血の気が引いた。
「お、まえ」
煙はすでになく、代わりに一人の青年が立っていた。青白いほどに血色の悪い肌が、暗がりに浮かび上がって見える。重たい前髪は目元にかかって影を作り、背中には長い三つ編みがある。
全く気づかなかった。いつの間に? 由羅が行ったきり扉は開いていない。窓だって閉じたままだ。おかしい。──敵意はおそらくある。ならば、治りが不完全な状態で戦うのか。頭の中を鬱々とした気分が覆い尽くす。
「どうやって入った」
「方法よりも事実が大事です」
三つ編みが揺れた、と思えば、そいつはずかずかと布団の上に乗り上がってきた。
「な」
思わず後ずされば、背中が壁に当たる。逃げ場がない。当たり前のことに絶望した。
「……誰だ」
「名は
回答があるとは思っていなかったが、無意味に終わった。名前がわかってもなんの役にも立たない。
「話があります。答えなさい」
「何を」
「答えなさい」
生気のない目に気圧されて黙ってしまう。蛇に睨まれた蛙だ。
「あなたは、ここから出ることは考えていないのですか」
「出る、って」
「あなたはあれのことを相方と思っているけれど、乗り気ではないでしょう」
あれ。由羅のことか。雑な言われ方に、心に浅く爪を突き立てられる心地がした。
「急に来て本当になんなんだ」
「聞いているのです」
ぱっと掲げられた紫林の手を、煙にも似た灰色が包む。ぎょっとして見つめれば、それは一丁の拳銃の形を取り、まっすぐ捧に突きつけられた。
「おい」
「どうなのですか。本当に相方として、あなたにふさわしいのですか」
銃口が胸に食い込む。ちっぽけな質問ひとつに使う道具じゃないだろうと言いたい。
「……不足なんて、あるわけない。オレの方が足りないよ」
「あなたたち二人は釣り合っていないのですか?」
「……そうかもな」
武器を向けられては、答えるほかにない。万全の状態であれば今頃は抜刀していただろうが、あいにく体調はよくないし、武器は手元にない。相手の出方をうかがうのみだ。
「釣り合っていないなら、一体どのようなところが?」
肺が圧迫される感覚。会って数分と経っていない相手なのに、真実を伝えなければと責め立てられている。
「全部」
「全部?」
「由羅に、守られてばっかりで」
「他には?」
「妖力を、もらっていることとか」
「ええ」
「すぐに怪我する。戦ってても、よくドジを踏む……」
「なるほど。自分は不要な存在だという意識がおありで?」
不要な存在、という言葉が重みを持つ。布地に落ちた一滴の墨汁のようにじわりと広がっていく。
「離れた方が彼のためかもしれません。邪魔をしていますから」
「……そうなのか」
「ええ、きっと。何よりあなたがそう思っているでしょう」
そうか。
オレは、由羅の隣にいると邪魔なのか。
意識の深奥から頭をもたげたそれは、繰り返すほど腑に落ちる。夢を見ているような曖昧な気分だ。
「……駄目なんだ」
「言いましたね?」
「…………」
「一緒にいられないのですね」
「……そう、だな」
「ならば」
拳銃が霞が散るように消えた。紫林が両手を伸ばしてきた。頭蓋を包み込み、左右から挟むように掴んで捧の顔を上向かせる。
「私が案内しましょう。楽になれる場所に」
彼の言葉は残響を長引かせる鐘のように、寄せては返す
「苦しいことからは逃げたほうがいい、自分の身を守るための当然の行為です。咎められもしない。あなたにとっても彼にとっても、いいことのはずです」
噛んで含めるように聞かせる紫林。向かい合う捧は、だらだらと嫌な汗をかいている。
紫林の顎がどろりと崩れた。元々顔の一部だった灰色の塊は、細かい粒になり砂塵のように、もっと小さく霧を構成する水滴のように微小になる。すっと辺りに漂い始めて、捧の体にまとわりついた。
ずきりと胸が痛くなる。心痛なんてものではない、異物を捩じ込まれているかのような、確実な物理的な痛みだ。実際に胸をえぐられたことはないけれど、想像の限りではこんなものか。思わず両目をつぶった。ゆえに、灰色の霞が己の体に吸い込まれていることは、認識できなかった。
「私のいるところは快適です。しばらくは私もともに案内しますから」
紫林の顔は、一瞬で元に戻っている。そこに違和感を覚えもしないほど、今の捧は判断力を鈍らせていた。紫林の漠然とした発言も素直に飲み込んでしまうほどに。
耳鳴りがする。視界も明滅して狭い。目の前の者に抗えない。
「こちらに来なさい。……返事は」
「…………」
「返事は?」
「……わかった」
息も絶え絶えの捧を前に、紫林は満足気に頷いた。
「万事上手くいきます。あの御方がいるのですから」
思わせぶりな言葉を残し、三つ編みが消えると、全身からどっと力が抜けた。貧血めいた症状はなくなっても、せっかく由羅が直してくれた胸の傷だって痛むようだし、寝ていて多少回復した体力もいつの間にかほとんど持っていかれている。
――由羅の隣にいられないのなら、自分が頼るべきは。
ずるりと、液体が流れ出るように重たく布団から出た。無理を強いれば体は動く。
緩慢な動作で、部屋にある戸棚のひとつに近づき、最下段の引き出しを開けた。目当ては、なんの変哲もない地味な色の布の袋だ。口を閉じている紐をほどけば、大きさも色も様々な丸薬が、種類ごとに瓶に詰められて収まっていた。
普段、治療を寝室でやる習慣と、念のために買っておいた妖力を回復させる薬が幸いした。長い廊下を歩いていかなくても、持ち逃げする薬を工面できた。
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