第十七話 夜の虹

「死なずの、魔女……」


 ご本人を目の前にして、そんな都市伝説めいた二つ名を口にするなど、うっかりさんにもほどがある。だが、僕は思わず口に出してしまった。口から出てしまったものは戻らない。覆水盆に返らず、破鏡再び照らさず、時すでに遅し。

 だが、目の前のご婦人は営業スマイルを崩していない。


「人のことを魔女だなんて、全く失礼な話ですよね。私、まだ三十歳なのに」

「う」

「う?」


 危ない。またうっかりして、嘘だ、などと言ってしまうところだった。いったい何度うっかりを重ねれば気が済むのか。

 少なくとも西暦2548年から存在しているラヴクラフト財団の初代理事長にして、八百年近くたった今でも理事長であり続けているんだぞ?

 アトランティエ・ラヴクラフトが三十歳であろうはずがない。

 あれは、名前だけが独り歩きしていて、声も出身地も生年月日も全てが謎に包まれている、文字通りの魔女だ。

 いや、待てよ? 理事長や総帥になる人物が代々名前を受け継いでいるとしたら問題ないのか? 正体不明なのだから、そういう可能性だって大いにあるじゃないか。

 うん、そうだ。そうしよう。そうに決まってる。そうだと思い込みたい。そのように頭に浮かんだ疑念を改竄しなければ、僕は本当の意味で消されてしまうかもしれないのだから。


「ああ、これは失礼しました。大変な有名人にお会いしたせいで、思わず声が漏れてしまったのです」

「まあ、それはごめんなさいね。私ったらいつまでも自分が一般市民だと思っているものだから、つい、偽名を使うのを忘れてしまうのよ」


 気にしてはいないようで何よりだ。僕の命の灯火も消されずに済みそうだ。


「そうでしたか。ラヴクラフト財団の偉い人ともなると、簡単に素性をばらすわけにもいかないのでしょうね。ところで、何かご用でもありましたか?」

「あ、そうそう。その話――」


 そのとき、僕のリーフィがキュルルルンと可愛らしい音を立てた。宙に映し出されたホログラムモニターを確認すると、カルイザワブランチからの音声通信の呼び出しである。もちろん、キュルルルンは僕が設定したお気に入りの着信音だ。いつかレコードで見た二十一世紀の夢見がちな男たちを真似ているのだ。だが、これも記憶が改竄されているような気がする。どうしてこの着信音にしたのだろう。


「失礼。音声通信が入りましたので」

「あら。少し離れているわね」

「いえ、そのままで結構ですよ」

「そう? 悪いわね」


 相手がRSC顧問であったり、自分が動揺していたとはいえ、なぜアトランティエさんを引き留めてしまったのか。


「はい、こちらミハル・カザハナ」

『こちらオリアナ・マンディス』


「どうされましたか? 薄い本のレコードでしたら、きっと大量に持ち帰れると思いますから、楽しみに待っていてください」

『それもとても重要なことなのだけど、今回の用件はそのことではないわ』


 アトランティエさんに背を向け、腰に手を当てて空を見上げるが、やはり空の色は変わらず灰青色だ。


「と、すると?」

『あなたの報告書にたまに出てくるコード:サクラのことなんだけど、』


「ええ、コード:サクラ」

『あれ、何なの?』


「何なの? と言われましても、今のところさっぱりで」

『RSCのレコードデータベースを検索してみても、今まで世界中に二例しかないのに、あなたの報告書だけで三例もあるのよ。何か思い当たることはない?』

「さ、さぁ?」


 思い当たることと言われても、僕に何か特別な能力があるわけでもなく、むしろ世界中で二例しか見つかっていないことに驚くばかりだ。


『毎年の視力検査は真面目に受けてる? 見えないものがえたりしてない?』

「あ、はい。大丈夫です。検査機械の指示通りに目を動かしてます」


『そう。それならいいわ。それと、今日の採掘結果は、必ず生きて持ち帰るのよ。いいわね?』

「は、はい」


 オリアナさんからの音声通信はそこで終わり、辺りには再び静寂が訪れた。それにしても、結局、薄い本かあ。僕の命よりも薄い本ですかあ……。

 気を取り直してアトランティエさんは、と振り返ると、


「うわあ!」


 美しい黒髪と碧眼の端正な顔が目の前にあったのだ。

 そして、僕が声をあげたのと同じくらいのタイミングで、彼女は口を開く。


「今、コード:サクラの話をしてたの?」


 その質問に、僕の時間が止まった。いや、そうではない。少しずつ進んではいる。口をギュッと噤んで、果たしてどんな言葉を返すのが適切なのかと、少しずつ頭を回転させていた。けれど、結論は難しいものではない。


「はい、そうです。ご興味がおありでしたか?」


 そもそもアトランティエ・ラヴクラフトはRSCの顧問であり、システムもファル助も、スノウビートルでさえも、ラヴクラフト財団製なのだ。正直に答えたところで問題はないはずだ。自信はないけど。


「ええ、もちろんよ。コード:サクラって何なの? どの年代のどんなレコードに入ってたの? あなたとはどういう関係が? あ、どんな風にレコードに入ってたのかしら?」

「ちょちょ、ちょっと、ちょっと落ち着いてくださいね。あの、」


「は!? 私ったらごめんなさいね。一方的に聞いてばかりで」

「いえ。それでコード:サクラのことなんですけど、たまに再生中のレコード上に文字が表示されるだけで、まだ何も分かっていないんです」


「そう……よね。そうだ、もう行かないと。えーと、どうしたら……。あ、これ、リーフィの直通アドレスを交換しましょう」

「へ?」


「もたもたしてないで、早く出しなさい」

「ひぃ」


「夜になったら連絡するように。絶対よ?」

「は、はひ」


 凄い人なんだけど、なんだか気さくで、でもやっぱり変な人だったなあ。


「マスター、指定範囲内の採掘が完了しました」

「やあ、お疲れ。それじゃあ帰ろうか。今日はもう疲れたよ」


 戻ってきたファル助との会話は、そのほんの少しの時間だけだったのだが、徒歩で立ち去ったはずのアトランティエさんの姿は、もう見えなくなっていた。



   ―― ❄ ――― ✿ ――



「マンディス施設長、本日の報告書を送信いたしました。ご確認をお願いします」

「うむ。ご苦労」


 暗くなる前にカルイザワブランチに帰ることができた僕は、仕事ができることをアピールするために、超高速で報告書を作成した。これももちろん、他のファルよりもほんの少しだけ処理速度を速めたファル助とのコンビプレーだ。


「薄い……、じゃなくてレコードの解析は明日。ふむ」

「施設長。美しいお顔から鼻血が出ております。こちらをお使いください」


「うむ。ご苦労。えーと、何々それから、アトランティエ・ラヴクラフトと接触したと……。え? ご本人?」

「ご本人と思われます。プロフィールに財団の公式アイコンが付されておりますので、間違いないでしょう」


「ということは?」

「はい、連絡先を交換いたしました。ご覧になりますか?」


「いや、いい。鼻血が止まらなくなるし、何よりもそれは君に個人的に教えたものなのだろう。第一、それを知ってしまったら面倒ごとに巻き込まれる予感がするし、そうなると薄い本を愛でる時間が無くなってしまう! そんなのはいやでござる!」

「僕もいやでござる! 一緒に巻き込まれましょうよう」


「いやでござる!」

「薄い本の文書番号を教えませんよ?」


「くっ……、お前はなんて卑劣な男なんだ! お姉さんはそんな部下に育てた覚えはありませんよ!」

「えー」


「冗談はここまでにしておいて、彼女は我がRSCとの関係において、かなり特別な位置にある。くれぐれも本人の了解なしに、連絡先を漏らすようなことがないよう、厳重に保管したまえ。いいな?」

「は! 了解であります! ところで、施設長」


「なんだね?」

「美しいお顔から鼻血が出続けております。こちらをお使いください」


「君は実に気が利くな。同志カザハナよ、私が記憶監理官になった暁には、全ての薄い本の閲覧権限を君に付与すると約束しよう」

「ありがたき幸せにございます」


 ああ、幸せだ。全ての薄い本の閲覧権限など、記憶採掘官なら三級でも付与されているのだ。それでも疲れた僕を冗談で和ませてくれるのだから、僕はとてもいい上司に恵まれたのだなあ。一生ついていきますよ、オリアナさん。

 ……いや、これだとプロポーズみたいじゃないか。実際に結婚のお相手として考えると、うーん、ちょっと、ね。



   ―― ❄ ――― ✿ ――



 その日の夜、職員寮の自室で僕はリーフィを片手にアトランティエさんへの音声通信を試みた。


『ただいま混雑しております。該当アカウントを呼び出しておりますので、このまましばらくお待ちください。ただいまこ――』


 音声案内の途中で、通信が確立しているときの静かなノイズが走る。だが、静かにノイズが流れるだけで、向こうからの声はない。


「こんばんは。ミハル・カザハナです」

『あ、ちょっと待っててね』


 やっとアトランティエさんの声が聞こえてきた。バタバタと足音も一緒に聞こえたから、移動し始めたのかも知れない。


『ごめんなさい。お待たせしました』

「いえ全然です。それで僕に何かご用でしょうか?」


『そうなのよ。君に頼みたいことがあって、連絡をくれるようにお願いしたのよ。そのまま楽にして聞いてちょうだい。……昼間のコード:サクラの件なんだけどね、実は財団でも情報を集めているの。だけど、なかなか集まらなくてね』

「そこで、僕にも協力して欲しい、ということですね」


『ええ、その通りよ』

「しかし、僕には記憶採掘官としての職務と職責がありますので、難しいと思うのですが」


『ああ、その件なら大丈夫よ。もうそちらのサトウ監理官には話を通してあるから』

「サトウ監理官、というとマイルズ・サトウ記憶監理官の?」


『そうよ。具体的にはね――』

「ちょ、ちょっと待って下さいね」


 世界に七人しかいない記憶監理官の一人に話を通した!? しかも今日!? ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って。顧問ってそんなに権力持ってたの? なんか相談されたときに適当に答えるとか、そんなんじゃないの? え? やばくない?


「あの、その協力する話って、例えば失敗したら消されるとか……」

『消される? ……あー、その心配はないわ。あくまでも記憶採掘官の職務の範囲内でやってもらうだけだから』


「それを聞いて安心しました」

『話、進めていい?』


「あ、はい。止めてしまってすみませんでした」

『契約内容に疑問を持つのはいいことよ。それで、具体的な仕事の内容と流れなんだけど、まず、カルイザワブランチで通常通り仕事はしてもらう。その上で、これから話す四つのキーワードが含まれるレコードを採掘して、財団に送信して欲しい。RSC内に回さないで、財団に直接よ? ちなみにそうやって送信された全てのレコードは、財団からサトウ記憶監理官に送信することになってるわ』


「それなら僕にもできそうですね。それで四つのキーワードというのは?」

『キーワードは、コード:サクラ、モグサ・プラトー、ニライカナイ、イアン・ケンドール。この四つよ。あとでテキストでも送信しておくから確認するように』


「はい、分かりました。ところでなぜRSCを経由しないのでしょう?」

『……あなた、RRFって知ってる?』


 その話になった途端、彼女の声は低くなる。

 さて、RRF。今朝、ファル助から聞いたあれだな。


「確か、過激なことを言って全レコードの公開を求めている団体ですよね」

『そうよ。その団体なんだけど、厄介なことに背後に宗教団体が絡んでいるのよね。そっちはアヴァロンの末裔というんだけど、あなた知ってるかしら?』


「いえ、生憎と」

『あとでRSCのデータベースで調べておきなさい。話を戻すと、そのアヴァロンの末裔の信者がRSCの職員にも複数いるという情報があるわ』


「なるほど。そういうことでしたか」


 つまり、コード:サクラは正体不明の文字列だけど、HCCが管理しなければいけない情報である可能性が高い。だからRRFに情報を流されるリスクは避けたいと。

 そうであるならば、財団はRSCよりもコード:サクラについて情報を持っているとも考えられるけど……


「ところで、財団はどうしてコード:サクラの情報を集めているんでしょうか?」


 三秒。ノイズだけが静かに流れた。


『罪は、償われなければならないのよ』


 なぜか、風に揺れるテンイの虹色が見えたような気がした。

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