第十二話 ヌシ

 それから一週間後。

 ツルばあが襲われた林で別のグループが木の実を拾っていたところ、再び巨大な熊に襲われ、一人が絶命した。だが、周囲にいた同行者十名ほどが大きな声で叫んだお陰か、遺体は運び去られず、ヌシと思しき熊は一目散に逃げ出したそうだ。

 集落の者たちは当然のことのように、悲痛な表情の中にも今度こそはと鼻息を荒くして山狩りを行なったのだが、果たしてヌシはどのような手段で移動しているのか。

 痕跡を辿っても途中で途切れ、討伐はおろかの者の姿を拝むことさえ、誰一人として成し遂げられなかったのだ。


「このままでは、ツルばあが浮かばれない。俺たちだけでヌシを仕留めるぞ」


 トラは、己の母を奪ったヌシへの恨みを忘れることなど到底できず、通常の狩猟の合間に、エイヌとオトクマを連れだって、三人だけでヌシの捜索を続けていた。

 これまで二回の山狩りで見つからなかったんだから、三人だけじゃ難しいんじゃないかと鍛冶屋の男は言うのだが、トラには野性の勘にも似た確信めいたものがあった。だからこそ、細長く錆びついた筒状の金属を道路の跡地で拾ってきて、鍛冶屋に加工をお願いしたのだ。


「山を下って海岸に行くぞ」


 大人数で二回の山狩りを行ない、少しの痕跡しか見つからなかったのだから、ヌシはよほど集落から離れた山奥か、さもなければ海に近いところにでもいるのだろうとトラは見当をつけていたが、果たしてその予想は見事的中することになる。

 段々になっている下り坂の終点、道路跡の更に向こう側の海岸に、いくつもの黒い岩が転がっている。それと同化するようにして、大きな毛むくじゃらの物体が丸くなっているのが見えてきた。その体は、とても周囲の岩と間違えるような色ではないというのに。


 トラは人差し指を口の前に出して、エイヌとオトクマの兄弟に音を立てないよう伝える。

 二人はこくりと頷いて、父の前に出ないように、しかし、腰を落として弓矢をすぐに射れるように番えながら、じりじりと海岸線に移動する。


 やがて、ヌシと思しき巨大な熊がのそりと起き上がり、奥の砂浜の方に移動してから四本足でトラたちを見た。

 だが、トラたちは止まらない。

 だからヌシは今度は二本足で立ち上がり、トラたちを威嚇するように見下ろした。


 大きい。

 立ち上がったそれの大きさは、実に二百五十センチほどはあるだろうか。大きな岩が突如として目の前に現れたとすら錯覚する。


 この槍であれを貫けるだろうか。

 トラの脳裏に湧きあがる不安と、そして母の仇への憎悪。


 ――やってやる。

 トラは長く静かに息を吐き、そして大きく息を吸い込んだ。

 肘を曲げてゆっくりと上げた左手を勢いよく前に倒し、二人の息子に合図する。

 直後、二本の矢が大きく弧を描きながら、ヌシの頭上に襲い掛かった。

 一本は運悪く頭蓋骨で滑り、残る一本は目の辺りに突き刺さったようだ。だが、二人の矢は止まらない。次々とヌシの体に傷を与えていく。

 だが、そんな危険極まりない中を、ザシュ、ザシュ、ザシュと音を立てて砂を蹴り、猛然と駆ける人影があった。


 トラだ。

 彼は肩に金属製のパイプを加工した不細工な槍を担ぐと、まずは一投。

 ヌシの左後足に一度は刺さったが、浅かったのか、苦痛に身をよじる動きですぐに抜け落ちてしまった。

 ならばと、トラは背中のもう一本を両手でしっかりと握り、再びヌシに向かって駆け出した。

 エイヌとオトサルの矢はもう尽きている。もっと深い傷を負わせられなければ、奴は三度、彼らの集落を襲うことだろう。


 トラの体は槍の先端を前に突き出したまま、いささかの迷いもなくヌシに吸い込まれていき、ついにその巨体を貫いた。


 勝った。


 その瞬間、トラはきっとそう思ったのだろう。けれど、ヌシの生への執念は、そこで終わることをよしとしなかったのだ。

 目の前の敵を倒せ、さもなければ生き延びることができないと本能が告げる。

 突き刺さった槍を持ったまま、注意力がおろそかになっている目の前の人間にまずは一撃。しかし、思いのほか力が出ず、叩くよりは押し倒す形になってしまった。

 だが、これはこれで好機なのだ。このまま抑え込みながら、目の前にある男の首筋を一口、がぶりとすれば良い。なにも難しいことはない。楽勝だ。


 ヌシがそのようなことを思っていたかどうかは定かでないが、前足でトラの右腕を踏み付けながら、大きな口で執拗に首筋を狙ってくる。

 トラも左腕で力の限りヌシを離そうともがくが、ヌシの重さにいつまでも抗えるはずもなく、彼の顔には次第に諦めの色が見えるようになっていた。


 そしてついにそのときがやってきた。

 大きく開けられたヌシの下あごがトラの下あごとふれあい、通り過ぎ、そして巨体がビクンと跳ねて硬直した。


「父ちゃん大丈夫か!?」

「大丈夫ですか!?」

「待ってろ父ちゃん、すぐこいつをどかすからな。オトクマ、そっちを押してくれ!」


 息子たちの声と、聞き馴染みのない落ち着いた女性の声がトラの耳に飛び込んできては、自身が生きていることを実感する。

 やがてトラの体は軽くなり、視界には心配そうに顔を覗き込む息子二人が映った。耳をすませれば、寄せては返す波の音とフォンフォンフォンという聞いたこともない異音。


「ああ、大丈夫だ。ありがとう。ところで女の声が――」


 息子たちに引き起こされながら、先ほどの声を探すと、フォンフォンフォンという音の発信源に、たまに見かける巨樹の住人と同じような服装をした、ファーの付いたフードを目深にかぶる女性がいた。その横には、宙にわずかながら浮いている取っ手の付いた乗り物に、そして肩口にはこれまた宙に浮くクラゲのような物体が見える。


「……あなたが、助けてくれたのか?」


 恐る恐るトラが尋ねれば、顔などほとんど見えないながらも、女性はほっとしたような表情のあとにすぐに笑顔を作ったのが感じられた。


「大きな熊と人が戦っているところを見たときには、どうなることかと思いましたが、無事で何よりでした。ところであなた方は、この辺りの集落に住んでいるのですか?」

「ああ、その通りだ」


 前半はともかく、後半のやりとりには慣れたものだ。巨樹の住人たちは、こうして稀にシモダの集落を訪れては、住民たちに色々と聞きまわり、風変わりな者になればそのまま居着いてしまう者もいる。


「私、この辺り一帯を調査しておりまして、集落にご案内頂けないでしょうか?」


 だから、トラもこうして頼まれることが何回かあった。


「俺はともかくとして、集落の者への見返りは?」

「干し肉と干飯を持ってきました」


 彼女はそう言って、わずかに宙に浮く乗り物の、こんもりとした荷台を指さした。


「それは助かる。ところで、俺たちを監視していたのは、そのクラゲか?」

「あら、よく気が付きましたね」

「趣味が悪いな」

「どういたしまして」

「ふう……案内しよう。エイヌ。この女性を集落まで案内してやれ。オトクマは俺と一緒にヌシを解体するぞ」


 フワフワと小さく白い雪が舞い降りる中、トラは遠く南に、天高くそびえる象牙の塔を見遣る。ところどころにノイズが走るそれにこうべを垂れては、そっとツルばあを悼むのだ。



  +-+-+ records over +-+-+


――発掘サレタ丙類KTJ-16817330664110668032号文書ノ復元及ビ再生ガ完了シマシタ。


――コノ記憶ヲ廃棄シマスカ?


    ハイ

 >> イイエ <<



 うん?

 ファル助、少し戻して……、ストップ。

 ……このホバーバイク、ラヴクラフト財団のソリッドトイてい型スノウストライダーじゃないか。

 ロングセラー商品とは聞いていたけど、こんな昔からあるなんて。 

 それはさておき、今回のレコードにもコード:サクラの文字が見え隠れしていたが、これを報告書にどうまとめたものか、本当に悩ましいところだよ。



 ❄――✿ 用語 ❄――✿

【トラ】虎

 家族を支える四十代前半の大男。ヌシを倒してツルの仇をとった。


【フジ】藤

 トラの妻。


【ツル】弦

 トラの母親。ヌシに連れ去られて行方不明になったが、山狩りで見つかった体の一部などから、絶命しているとトラは考えている。


【ナベ】鍋

 トラ夫妻の長女。二十代前半。松ぼっくりが苦手。


【エイヌ】兄犬

 トラ夫妻の長男。二十代前半。集落の掟に反して、十歳になる前からトラに狩猟の技術を教え込まれた。ヌシの討伐に同行した。


【オトクマ】弟熊

 トラ夫妻の次男。十代後半。集落の掟に反して、十歳になる前からトラに狩猟の技術を教え込まれた。このことがばれ、トラは危うく集落を放逐されかけた。ヌシの討伐に同行した。


【オトサル】弟猿

 トラ夫妻の三男。四歳。オトクマの件で里長にひどく叱られたため、狩猟の技術を教えたいのに教えられていない。


【ハシ】箸

 トラ夫妻の次女。九か月。


【巨樹の住人】

 シモダの住民が、クレイドルの範囲内に居住している人たちを指し示すときに使用する言葉。


【ラヴクラフト財団】

 2550年頃に突如として歴史の表舞台に現れた科学技術集団。


【ソリッドトイてい型スノウストライダー】

 一般向けホバーバイクのロングセラー商品。ラヴクラフト財団製。アンモニアを燃料としている。燃料が切れると、ただの大きな荷物になってしまう。なお、燃料切れの際は、プロペラを保護するスカートに格納されている、キャスターのように小さい車輪を出す。

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