第二十話 日本科学の現在地
タッタッタッタ……
そんな空耳も聞こえるほどに軽やかに、僕の目の中でどんどんと白色が小さくなっていく。けれども、足元には五センチほどの雪。そんな音は聞こえようはずもない。
果たして、その白色の狙いはファル助であるのか。
我に返った僕はコートから多針スタンガンを取り出した。
二つに折られたそれを、ガコッという音とともに真っ直ぐに固定し、トリガー付近のストッパーを外すと、両腕で目線の高さに構える。
だが、遠い。
このスタンガンの射程距離はわずか三十メートル。有線であるが故に、普通の拳銃のような射撃を期待することはできない。
白いケープコートをまとった推定少女――テンとの正確な距離は分からないが、ここからでは届かないことに疑いの余地はない。だから僕は一瞬迷ってしまった。近寄るべきか、待つべきか。
だが、近寄ろう。
放っておけばファル助が強奪されるおそれがある。ここで待機しているよりは、彼女を射程距離内におさめた方が、それを阻止できる可能性は高いはずだ。
多針スタンガンを斜め下に構えて、僕も走り出す。
軽快に、といきたかったところだが、残念ながら雪が足に絡みつき、なかなか思うようには進ませてくれない。
僕がもたついている間にも、視線の先では、ファル助を捕まえようとテンが飛び掛かり、それをファル助が避ける場面が展開され始めていた。やはり彼女は身軽に駆けまわり、ファル助を追いかける。しかし、彼女の動きを正確に予想しているかのように、ファル助はふわふわと避け続ける。
何度かそれを繰り返した後に、ファル助が突如閃いたのか、彼女が思い切りジャンプをしても届かないであろう高さまで、すぅっと浮かび上がった。
「卑怯だぞ! 降りてこーい!」
強奪しようとしていただろうに、どの口が言うのかと心の中で呟いたが、彼女との距離はすでに二十五メートルほど。
今がチャンスとばかりに多針スタンガンを構え、こちらに背を向けている彼女に狙いを定める。
パシュ
初めて人に向けて撃った針は、なんとも迫力がない音とともに飛んでいった。細い糸の尾をきらきらと輝かせて。
ひらり。
音が聞こえた気がした。
それくらい彼女は事もなげに避けたのだ。散らばるように十二本も撃ち出された、スタンガンの電極針のすべてを。
すぐにトリガーを引いてケーブルを巻き戻し、再度、彼女を照準におさめる。
いない。
一度構えを下げ、慌てて周囲を見回せば、白いコートをひらひらさせて、すぐ横を通り過ぎようとしているのが見えた。つまり、先ほどよりもかなり近い。
パシュ
僕は好機とばかりに針を撃ち出すも、慌てた素人の弾など当たるはずもない。けれど、テンは未だに射程圏内。
すぐに巻き戻し、もう一度狙いを定める。
パシュ
やはり当たらない。
当たらないというよりは、背中に目でも付いているのではないかと疑うほど、簡単に躱されてしまう。
パシュ
パシュ
白い布が舞い、そして消えた。
本当に消えてしまったわけではない。距離が離れた上に降り始めた雪と白が混ざり合ってしまったのだ。なんとなく、雪の上で何かが動いているのが分かる、そんな程度に。
その先、スノウビートルよりも向こうに見えるのはチャコールグレイ。
白に気を取られてすっかり忘れていた。あちらから通信をしていたという仮説が浮かぶ。
だが、もう遅い。
白とチャコールグレイは、見えなくなってしまった。
けれど、捜査は記憶採掘官の仕事ではなく、見えないものを探す必要はない。
その後、モグサ・プラトー博士がかつて住んでいたという、旧オッパマ駅近郊の住宅地で、びくびくしながら夜まで採掘をさせていたのだが、向こうも警戒をしていたのか。
白とチャコールグレイの二人が、姿を見せることはなかった。
―― ❄ ――― ✿ ――
「――以上が海洋研究開発機構跡地での、襲撃事件の顛末です」
翌朝、いつも通りカルイザワブランチに出勤した僕は、すぐに報告を行なった。
「ふーん。……君とファルが無事で良かったよ」
オリアナさんはいかにも興味がなさそうだが、ファルを強奪されかけた話など、まったく初めてのことで気持ちの整理ができていないのだと、僕は不遜にも思うことにした。そして不遜を重ねることにした。
「つまらない報告でしたか?」
「だってさ、それって財団とマイルズ・サトウ記憶記憶監理官に関係することなんでしょ? なんとなくだけど、興味が湧かないんだもん」
すねた。それも頬を膨らませて。
美しい人が頬っぺを膨らませることのなんという愛らしさか。むしろ神々しさすらある。守りたい、その頬っぺ。
などと見惚れている場合ではない。見惚れていたいけれど、ムニムニしたいけれど、僕には仕事があるのだ。
「ニホンステイトの警察には通報済みです」
「分かった。ところで薄い本はあったのだろうな?」
「これから分析するところであります」
「期待しているぞ」
今日も僕には仕事が待っている。
薄い本を探し出してオリアナさんに献上し、そしてアンセルム先輩に怒られるまでがセットの仕事が。
いや、違う。今は財団からの仕事もあるのだった。
「ファル助。昨日、ヨコスカで採掘したレコードについて、財団から提示されている四つのキーワードのいずれか一つが含まれているものの抽出を頼む」
最近までほとんど屋外採掘をしたことがなかったため、どうすれば効率よくレコード収集を進められるかを考えるにあたって、先日、前例も調べていた。HCC内で最も若い組織だとはいえ、流石に六十年近い歴史があれば屋外採掘のコツも積み重ねられており、今回はその内の一つを試す、というか確認も兼ねていた。
そのコツの一つが、クレイドルが持つネットワーク機能を利用するというものだ。
今や旧先進国の都市全てに建てられていると言ってもいいクレイドルには、冷気を防いで暖かい空気を中で循環させる主要機能以外にも、その枝葉と地下に伸びる根を利用した通信機能がある。これはルーティというサービス名で一般にも有料で開放されており、対応端末――例えばリーフィを使えば大昔の携帯電話端末のような遠隔通信を行なえるのである。
もちろんクレイドルの電波が届かない地域もまだまだ多いので、必然、ルーティにアクセスできない地域もあるのだが、何はともあれテンイの内側であれば問題はない。
そして、財団製の汎用浮遊アシスタントロボットFARG96型も、当然のようにルーティに対応していて、カルイザワブランチにある端末もルーティに接続されている。だから昨日は、採掘したそばからどんどんカルイザワブランチの僕専用ストレージに未解析のレコードを送信し、外部から復元解析の指示を出した。
そうすれば、朝、ブースに入ってすぐに選別作業を行なえる、と先人が知恵を遺してくれていたのである。
「リストアップガ完了シマシタ」
それは今の僕の仕事に実に効果的なやり方で、事実、ファル助はすぐに関係したレコードをリストアップしてくれた。何百件も。
「その中から、これまでに発見されたことがない情報を含むものを更に抽出」
「了解」
青白く発光するホログラムモニター上のリストが、次々と消されていき、最後に残ったのは一つだけ。
「レコードの再生を頼む」
「了解。採掘場所、オッパマ市街地。年代ハ西暦2495年ト推定。雑誌[日本科学の現在地]ノ再生ヲ開始シマス」
モニターに映し出されたのは一冊の薄い雑誌。表紙には写真もイラストもなく、ただ題字と号の表示があるだけで、シンプル以外の何物でもない。
モニターに手をかざして横に動かし、ページをめくる。内容もシンプルというか、お堅いもので、注目の最新論文徹底解説であるとか、どこかの大学教授のインタビューであるとか、つまらなくも、しかし、記憶採掘官としては保存しなければならない類いのものだった。
やがてページをめくる手をはたと止めた。
理由は簡単だ。[現代を生きる伝説。モグサ・プラトー博士の日常]という、担当編集者が急病で変わったんじゃないかと思うような記事が現れたからだ。
そこにはいつも何時頃に起床するとか、朝ご飯は何が好きだとか、何時ごろに出かけるだとか、そんな他愛もなく、けれど人間モグサ・プラトーの姿が書かれていて、僕も俄然、真似したくなってくる。天才とか、憧れるに決まってる。
でも、それじゃない。
その記事の中で僕が最も興味深く眺めたもの。
それはモグサ・プラトーの養子であるリクギ・プラトーと、そして彼と並んで映るハルカ・アイコウの姿だった。
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