第四話 レンカ・クデラ

「では、あなたが帰る頃には、マクシムさんはまだ事務所にいたと、そういうことですね?」

「はい、その通りです」


 翌日、新市街の配給所には警察官が来ていた。

 エレナが出勤した時刻にも二十名ほどの警察官がいて、職員や配給を受け取りに来た人たちに聞き取りをしたり、配給所の周辺を警戒するなどしていた。

 職員に対する聞き取りについてはエレナも例外ではなく、立ったままで中年の男性警察官から昨日の行動などを聞かれている。


「近所のレンカ……、ははぁ、なるほど。……近所にお住まいだとのことですが、その後も見かけていないと?」

「はい。帰宅後は朝までずっと家におりました」

「ヨナシュ氏をあなたの家の周辺で見かけたことは?」

「それもありません。窓の外はほとんど見ませんが」

「分かりました。協力ありがとうございます。何か思い出したことがあったら警察署まで連絡してください。もう、仕事に戻っていいですよ」

「あの、何かあったんですか?」

「ああ、あなたはまだ聞かされていないんですか。ふむ、実を言うとですね、マクシムさんが死体で見つかりましてね、内容は言えませんが、我々は殺人事件として捜査しているんです」

「そうだったんですか……」

「あまり、驚かないんですね」

「いえ、そんなことはありません。ただ、配給所の偉い人だと、食べ物を目当てにした犯罪に巻き込まれることもあるかも知れないな、とは思っていました」

「そうですねえ。まったくいやな時代になったもんです。あ、それじゃあ私はこれで」


 マクシムが死んだ。

 この事は配給所の職員に大きな動揺を与え、新市街の配給所は対外的にはいつも通りに業務を行ないながらも、袋を取り違えるなど、その実、大混乱に陥っていた。そんな状況でも、エレナはいつも通りにテキパキと袋詰め、あるいは臨時で配給係をこなし、混乱する職場を尻目にいつも通り明るいうちに帰路についた。


 だが、玄関の少し前でエレナは立ち止まり、じっと下を見るのだ。なぜ、彼女は下をじっと見ているのだろうか。彼女はいったい何を見ているのだろうか。

 やがて彼女は動き出し、いつもよりゆっくりと玄関のドアを開いた。それこそ、音が立たないほどゆっくりと慎重に。

 しばらくして何も起こらなかったことを確認すると、エレナは腰をかがめて家の中に入ってゆく。そして、居間、寝室、ユニットバス、クローゼット、屋根裏を丁寧に見て回った彼女は、それまで推測に過ぎなかったことを事実と結論付けた。


 ルフィナ・カレッリがいない、と。


 なぜ、いないのか。どうしていないのか。

 様々な可能性がエレナの頭の中に浮かぶが、確定している事実は、玄関の前にうっすらと大きな靴と小さな靴の跡があり、家の中には大きな靴の跡はないということ。それは、ルフィナが大きな靴を履いた人物と一緒に、お出かけしたということだろう。もちろん、エレナは彼女のお出かけの予定を聞いていないし、そもそもそんな可愛らしいものでもないだろうと予想している。


 警察に通報すべきか。

 そんな選択肢が浮かぶが、けれど事件性がないことだとすると、通報というのは相手方に迷惑がかかるのではないか。その前に、もう少し情報が必要だ。通報をすべきかどうか判断するための情報が。

 そしてエレナはもう一度玄関ドアを押し開ける。最初に少し開け、様子を見る。何事もなかったのを確認して、そろりと外に踏み出す。

 さて、玄関前の靴はどれほどの大きさなのかと、再び地面に視線を落としたとき、隣のお喋りなご婦人の声がした。


「あら、エレナちゃん、お帰りなさい。配給所の所長さん、殺されちゃったんですってね。仕事の方は大丈夫だった? 食欲がないなら私がなにか作ってあげるわよ?」

「あ、いえ、お構いなく。ところで、ルフィナの姿が見当たらないんですけど、見掛けてませんか?」

「あらまあ。じゃあ午前のあれはいったい何だったのかしらねえ」

「あれ、とは?」

「あれよ、あれ。なんだか体の大きな人がレンカちゃんの家を訪ねてきてね、ルフィナちゃんと一緒にお出かけしようとしてたのよ。だから私、声を掛けたの。どちら様ですかーって。そしたらその人、なんだか酒臭くてね、今どきこんな男の人もいるんだって……、ああ、話しが逸れちゃったわね。ともかく、どちら様ですかって聞いたら、ルフィナちゃんの伯父だっていうから、私、すっかり信じちゃったわ。エレナちゃんのところには伯父さん、来なかったの?」

「伯父?」

「そう、確かにお父さんのお兄さんだ、って言ってたわ」

「そうですか、分かりました。伯父を探してみますね。ありがとうございました」


 エレナが知る限り、伯父など存在しない。だとすれば伯父とは誰のことなのか。いったい誰が存在しない伯父を騙るなどという、雑なことをしたのか。そして、ルフィナを攫った目的はなにか。

 そのとき、郵便受けの口で風に踊る紙がエレナの目に映った。レンカの家で生活を始めて以来、郵便物はおろかチラシすら入っていたことがない郵便受けにだ。


〈お前の妹は預かった。返して欲しければ明日の夜、一人で俺の店まで来い。間違っても警察を呼ぶんじゃねーぞ。俺の手下どもが監視してるからな〉


 それは短いくせに読むことに時間を要する脅迫状だった。ご丁寧に〈俺の店〉の地図まで一緒にされている。俺が誰かは分からないが、ヨナシュの仕業であることは明らかで、わざわざ自分が罪を犯したことを自白しているのだ。きっと、あの脂ぎった下衆は脳みそまで脂肪で凝り固まっているのだろう。

 本来であればすぐにでも警察に駆け込むなどして、一刻も早くルフィナを救出したいところではある。ヨナシュの頭の中が本当に脂肪で出来ているのなら、それでも勝ち目はあるだろう。

 しかし、マクシムの件がある。警察官は何も言っていなかったが、一昨日の一件から、ヨナシュが犯人だと思っていることだろうし、エレナもヨナシュが犯人だと思っている。ヨナシュは後先も考えずに、人を殺せる人間なのだ。

 結果、エレナは警察にも相談せず、翌日も何事もなかったように配給所で働くことを選択した。

 政府から所長の代理が派遣されることもない配給所で、エレナは普段通りに作業をこなす。そうして、退勤時間になればまた普段通りに配給所を出るのだ。この身一つでルフィナ・カレッリを守れれば安いものだとでも思っているのかも知れない。

 けれど、この日はルフィナがいないことに加えて、もう一つ、普段と違うことがあった。


「こんにちは、あなたがエレナちゃんね。私は――」



   ―― ❄ ――― ✿ ――



 派手な色の看板が立ち並ぶ狭い道を、エレナは歩いていた。

 ところどころアスファルトが剥がれた道。その奥から流れてきた冷えた風が頬をすり抜け、これから進む方向に困難が待ち構えていることを教えてくれる。

 そうして〈俺の店〉の前まで辿り着いてみれば、バーと思われる外っ面そとっつらは、夜だというのに灯りの一つも点いていやしなかった。


 エレナは店の前でピタリと立ち止まり、緊張のためか、用心のためか。二度三度と周囲を見回してから、他のお店の照明のお陰でかろうじて見えるドアノブに手をかけ、そろそろと入店した。

 中も真っ暗かと思えばそうでもなく、ロウソクの炎のような灯りがうっすらと店内を照らし、奥に誰かがいることだけは分かった。

 一歩、二歩と中に進めば、暗闇にも慣れてくる。

 両サイドの壁際に一人ずつ、奥に三人。

 一度足を止め、エレナは声に出さず数える。


 それから再び、じゃりっとしたまるで外のような感触を交互に足裏に受ける。


 やがて、左右の人物に挟まれるような位置まで進んだとき、店内が少しだけ明るくなり、エレナは思わず声をあげた。


「ルフィナ!」


 しかし、エレナの声に応えたのは下卑た男の声だった。


「げへへへ。よく来てくれたなあ。そのままゆっくりこっちに来るんだ」

「エレナ! そこにいるの!? 助けて、エレナ!」


 見ればルフィナは目隠しをされたまま椅子に手足を縛られていて、ヨナシュは外道にもその頭に拳銃を突き付けていた。


「うるせえ、クソガキ! 大人しくしていやがれ!」

「きゃ!」


 ルフィナがエレナに助けを求めれば、ヨナシュは何が気に入らないのか、拳銃を持った拳でそのままルフィナを殴りつけた。こう薄暗くてはよく見えないが、ルフィナの顔のところどころ痣が出来ていることが容易に想像できる光景だった。


「やめて! 私はどうなってもいいからルフィナには手を出さないで! お願い!」

「おーおー、よく出来たお姉ちゃんだ。ルフィナちゃんはいいお姉ちゃんをもって幸せでちゅねー」

「う、うう……」


 ヨナシュとルフィナの背後にもう一人。

 そのような状況であっても、エレナは冷静に周囲を観察し、両手を頭の後ろで組みつつゆっくりと歩を進める。


「よし、そこでいったん止まれ」


 ルフィナまであと十歩ほどとなったところで、ヨナシュがエレナに銃口を向けて、尊大に命令した。


「お前、なんか武器を持ってるだろ。隠したって無駄だ。俺には分かる。悪いがそこでボディチェックをさせてもらうぜ」


 ヨナシュはそう言うと、左右の壁際にいた男たちに顎で指図し、その男たちはと言えばエレナに向かって「両手を上げてじっとして下さい」とこの場に不釣り合いに丁寧な言葉を投げた。

 だが、言い終わる前には、すでにエレナの両手は高く上げられていて、男たちは一瞬、呆けるのだ。それが、合図だとも知らずに。


 刹那、何かが投げ込まれ、店内を真昼よりも明るい光が包み込んだ。


「ぬあ!?」

「なんだ!?」


 下卑た声に変わって店内に響くのは、鈍い音と電気がスパークする音、そして男たちの呻き声。

 眩い光が徐々に暗くなった頃、今までとは別の声音が店内を支配していた。


「アルファスリー、確保!」

「アルファフォー、確保ぉ!」

「アルファツー、制圧」

「アルファワン、確保完了」


 そして音も軽やかにエレナを追い越し、汚い床に無様に押さえつけられたヨナシュの前に歩を進めたのは、焦げ茶色の髪をきつくしばったダークスーツの女だった。


「ヨナァーシュ! 貴様を未成年者略取の現行犯で逮捕する! 連れていけ!」


 声も高らかに叫べば、いつの間にか店内にいた屈強な男たちがヨナシュらを次々と店の外へ連れ出していった。


「ルフィナ、大丈夫?」

「エレナ、エレナ、ありがとう……。とっても恐かった」


 エレナによって拘束を解かれたルフィナは、勢いで抱き付いたかと思うと、疲労のあまり、すぐに寝てしまうのだった。

 そんなルフィナを抱きかかえるエレナに近づく人影が一つ。

 先ほどの焦げ茶の髪の女性だ。

 そして優しくルフィナの髪を撫でると、エレナに声を掛けた。


「あなたの任務はこれで終了よ。ルフィナを守ってくれてありがとうね。アンドロイドのエレナちゃん」



  +-+-+ records over +-+-+


――発掘サレタ丙類KTJ-16817330663839617029号文書ノ復元及ビ再生ガ完了シマシタ。


――コノ記憶ヲ廃棄シマスカ?


 >> ハイ  <<

    イイエ



 ❄――✿ 用語 ❄――✿

【マケドニア連合共和国】(United Republic of Macedonia。略称URM、または、マケドニア)

 2401年に成立した、旧ユーゴスラビア諸国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)とアルバニア、ギリシャ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ジョージア、およびこの物語の世界でポーランドとイランによって分割統治されていた旧トルコ地域からなる他民族連合国家。


【エレナ】

 ルフィナと二人でイタリアからURMに避難した。つややかな明るい茶色の長髪の持ち主。西暦2499年式の最新型アンドロイドで、人間と見分けることは非常に難しい。ルフィナ・カレッリの両親が護衛としてレンタルしていた。


【ルフィナ・カレッリ】

 エレナと二人でイタリアからURMに避難した十歳の女の子。焦げ茶色のショートヘアー。

 エレナを自分のものにしたいヨナシュに誘拐されたが、エレナとURMの広域警察により、無事に救助された。


【隣の小母様】

 お喋り。レンカの家に訪ねてきたばかりのエレナとルフィナの世話を焼くが、純朴な人柄で、悪人を見抜く眼力は持ち合わせてはいなかった。


【レンカ・クデラ】

 母の妹。URMの上級広域捜査官。二人が訪ねたときは長期不在で、家の鍵を隣の小母様に預け、伝言を残した。モスタールを経由地とした人身売買を捜査している中で、たまたま配給所で働いていたエレナを利用することを思い付いた。


【マクシム】

 配給所に勤めている人の好さそうなお爺さんだが、モスタール周辺の配給所を統括する立場にある。エレナを配給所の職員として採用した。エレナをかばった件でヨナシュに逆恨みされて殺害されたことになっているが、ヨナシュはマクシム殺害の件について関与を否定している。


【ヨナシュ】

 強面の巨漢商人。配給所のエレナに目を付け、自分の愛人になるよう迫った。

 URMで暗躍する人身売買組織の構成員ではないものの、自身の経営する店を組織に提供したり、場合によっては足がつきにくい避難民を組織に売り渡すなど、密接な関係にあった。

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