第三話 マクシム

「ルフィナ、おはよう」

「おはよう」


 今日の朝食は、旅立つときに両親が持たせてくれた干し肉をスープに仕立てたものと、同じく保存食のもそもそとしたパンだった。けれど、身を削って持たせてくれた食べ物も今日中には終わってしまう。

 だからエレナは躊躇せず、役場でもらった避難民用の配給券を握りしめて、大通りの向こう側、集合住宅前の広場にある配給所の列に、ルフィナと手をつないで並んだ。

 【マケドニア連合共和国】には他の国からも大勢が避難してきているらしく、ここモスタールの配給所にも長い列が出来ていた。だが、自然とエレナの耳に飛び込んでくる周囲の会話からは、避難民ばかりではなく、地元住民にも配給が行われている雰囲気が感じられた。


 三十分ほど並んだ頃に、ようやくエレナの前の組まで順番が回ってきた。

 配給所の職員が手慣れていないのか、彼女が予想するよりも随分と手際が悪く、時間がかかっているようにも見える。前の何組かを見た限り、配給券を確認し、手近な箱から食材がまとめられている袋を配給券の枚数分、渡すだけなのだから、どうしてもたつくのかが分からない。

 けれどその原因は、エレナたちの順番になったことで何となく分かり、さらに次の組を見たことで確信した。エレナが配給券を一枚渡すと、職員は怪訝そうな顔をして何回かエレナたちと配給券を見比べた後、無言で袋を渡してくれた。次の組にも同じように袋を渡す。

 しかし、エレナたちと次の組の夫婦と思われる男女が受け取った袋は、明らかに小さかった。さすがに半分とまではいかないが、前の何組かが受け取っていた袋の大きさを十とするならば、自分たちが受け取っていた袋は七か八くらいに見えてしまう。

 エレナの耳に入ってきていた情報によれば、前の何組かは地元住民、言い換えればマケドニア連合共和国の国民で、後ろの男女は避難民であった。

 つまり、そういうことなのだ。


「ただいま! お腹空いた!」


 ルフィナは二日目にして、もうすっかり緊張感がなくなったらしく、帰宅すると長い旅行から帰ったときのように家の中に駆け込み、屈託のない笑顔をエレナに向けるのだ。

 しかし、支給された食材の量から今後のことを考えると、ルフィナの笑顔をどれほど維持できるのか分からない。

 これはもう、配給所の職員に文句を言ったところで、少ない食べ物がすぐに増えるわけでもなく、どうにかなる問題ではないことも明らかであるのだが、自分はともかくとして、育ち盛り、食べ盛りのルフィナにとっては十分ではない、とエレナは結論を出した。


 そうであるならば、ルフィナの笑顔のためにどこからか食糧を調達してこなければならないと思案するのだが、この時世に簡単に買えるような余剰があるのかと問えば、答えはノーだ。

 あるいは闇市でもあれば、政府から巧妙に隠されたものを入手できるだろうが、そのようなものを一般人が簡単に見つけられるものだろうか。そもそも、買えるだけのお金も持っていないではないか。

 レンカ・クデラがいつ戻ってくるか分からない以上、やはりお金があるに越したことはない。両親が持たせてくれた欧州共通通貨も、水道光熱費の支払いなどがあればあっという間に枯渇してしまうだろう。


 ――どうにかしてお金を稼がなければ、ルフィナを守ることはできない。


 そのことに気付いたエレナは、翌日から精力的に仕事を探した。


 第一候補は農園。何かの理由で出荷はできないが、部分的にでも食べることができる農作物を貰える可能性がある。しかし、モスタール周辺の農園は全て政府の管理下に置かれ、新規の雇い入れを行なっているとの情報は得られなかった。


 第二候補は飲食店。これを候補に挙げた理由も農園と同じだ。痛む直前の食材を恵んでくれる可能性を考慮した。だが、市内の飲食店を何件か回ってみたところで、雇ってくれる可能性は限りなく低いだろうという結論に達した。そもそも飲食店に対しても食材は十分に流通していないのだ。提供できる数も限られ、人手が不足しているという話は聞かなかった。


 それ以外に思い付いた候補は食材を貰える可能性がない上に、長く家を空けてしまうことになるものが多く、ルフィナのことを考えれば、とてもではないが選ぶことはできない。特にURM政府が避難民を中心に募集しているという兵士などは、もっとも忌避しなければならない。


 そのようなことがあったから、エレナは働くこともできずに、配給の食材をどうにかやりくりして、過ごしていた。

 配給所にいる人の好さそうなお爺さんには、たまにおまけをするようお願いしてみるのだが、申し訳なさそうに謝るだけで、効果は全くなかった。

 先行きは不透明だったが、人攫いが出るという異国の地で、外に遊びにも行けず家にいるばかりのルフィナの笑顔を守るため、エレナは敢えて明るく振るまっていた。


 そんなある日、珍しく一人で食糧の配給を受け取りにきたエレナは、何とはなしに古ぼけた平たいコンクリート造りの配給所のわきに回り、入口を確認した。

 するとどうだろう。

 エレナが回り込むのを見計らっていたかのようなタイミングで、白錆が目立つドアから職員がのそっと出てきて、何やら張り紙をしていくではないか。

 あれは何かとエレナが目を凝らして見てみれば、配給所の職員募集を告げるものだった。

 いかにも役場のものらしく、愛想のないつまらない張り紙で、なおかつ給金も雀の涙ほどのものだったが、待ち望んでいた食材を扱う職場である。エレナがこれに無反応でいられるはずもなく、すぐさま白錆のドアを開けて、配給所の事務所に乗り込んだ。

 しかし、ドアの向こうは事務所と呼べるようなものではなく、薄暗い仕分け場の端に、離れ小島のようにいくつかの机と椅子があるような、そんな寂しい場所だった。

 エレナはざっと内部の様子を伺い、いつか見た人の好さそうなお爺さんを見つけて声を掛けた。


「あの、外の職員募集の張り紙を見ました。私を雇って下さい」


 声を掛けられたお爺さんは、いきなりのことにしばらくキョトンとしていたが、やがて職員募集の件に思い当たったのか、「うん、いいよ」と返事をする。


「え? いいんですか?」


 エレナは思わず口にしてしまった。それはそうだろう。いくら、職員を募集しているとはいえ、仮にも政府系の仕事に素性の知れない人間がやってきて、いきなり雇って下さいと言うのを、試験や身辺調査もなく二つ返事で許可したのだ。


「うん、いいよ。貼り出してすぐに来たんだから、これも何かの縁だろうね。ところで、何回か配給所で見掛けたお嬢さん、名前とここの仕事に役立ちそうな特技を教えてごらん」

「ありがとうございます。名前はエレナです。役立ちそうな特技は……、重さをほぼ正確に量ることができます」

「そいつはいいな。けれど、袋詰めした後はきちんと全部量るから、使わないかもしれないな」


 お爺さんはそう言って、はははと控えめに笑うのだった。


「じゃあ、明日から来てね。仕事は食材の袋詰めになると思う。それから、君はそんなことはしないと思うけど、配給用の食材を盗んだら結構厳しく罰せられちゃうし、避難民の認定も取り消されちゃうから、盗んじゃだめだよ」


 そうして翌日からエレナはモスタール市内の配給所で働き始めた。市内の配給所は二か所あったが、六日間の勤務のうち五日間は近所の新市街の配給所で、一日は旧市街のはずれでの勤務になった。一日二時間ほどの短い仕事だったが、エレナは一日目から、分かっていたかのようにテキパキと袋詰めをこなした。


 そうして一週間が経った頃、新市街の配給所では配給係が急病で出勤できなくなり、急遽、エレナが配給係を行なうことになった。

 彼女は常に受け取る側だったのだが、注意深く様子を観察していたお陰か。配給券の種類と枚数を見て、それに合致する種類と個数の袋を取り出して引き渡すという作業を、実に正確にテキパキとこなしていく。

 だが――


「おお、姉ちゃん、すっげえ可愛いな!」


 対面の仕事であればこのような輩はどこにでも現れるものだ。いちいち相手にするものではなく、これまで通りに対応する。


「どうだい、俺の愛人にならねえか? 金は弾むぜ。こんなところにいるよりはよっぽどましなはずだ」


 食糧が足りないというのに、目の前の下品な笑みを浮かべる男の腹はでっぷりとしていて、到底、国民用の配給券を受けとれる人間には見えない。大方、金か、暴力か。まっとうな手段で入手した物ではないのだろう。


「いいえ。あなたに全く興味がありませんので、お断りします」

「おいおいおいおい。このヨナシュ様の誘いを断るなんたぁ、いい度胸じゃあねえか。ますますお前のことが気に入ったぜ。俺の愛人になれよ、なあ?」


 さて、目の前の下衆はどう答えれば自分への興味を失うのかとエレナが考え始めたとき、彼女を採用してくれた人の好さそうなお爺さんが駆け付けた。


「やあ、ヨナシュ。うちの職員に何か用かな?」

「俺が話したいのはジジイじゃねえんだよ。すっこんでろ!」

「それを言ったらこちらが食材を配りたいのは、お前みたいな無法者ではない。食材を受け取ったのならとっとと帰れ」

「うるせえジジイ! 大体お前みたいな木っ端役人が俺に指図するんじゃねえよ」

「ほほう。ここいら一帯の配給所を束ねているこのマクシムに向かって木っ端役人とは随分な言いようだ。すぐにでも儂の権限で、お前の店への配給を止めてもいいんだぞ? ん?」

「く……」

「おっと、そろそろ警察が来る頃だ。まだうちの職員に用があるかね?」

「畜生! 俺様に恥をかかせやがって!」


 脂ぎったヨナシュは、そのまま火が点くんじゃないかと思うほど顔を真っ赤にして、慌てて配給所から去っていく。

 その後、エレナは駆け付けた警察官に事情聴取を受けたが、マクシムの顔が効いていたのか、大して時間もかからずに帰宅することができた。


 そしてその翌日、マクシムは配給所に現れなかった。



 ❄――✿ 用語 ❄――✿

【マケドニア連合共和国】(United Republic of Macedonia。略称URM、または、マケドニア)

 2401年に成立した、旧ユーゴスラビア諸国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニア)とアルバニア、ギリシャ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ジョージア、およびこの物語の世界でポーランドとイランによって分割統治されていた旧トルコ地域からなる他民族連合国家。


【エレナ】

 ルフィナと二人でイタリアからマケドニア連合共和国に避難した。つややかな明るい茶色の長髪の持ち主。


【ルフィナ・カレッリ】

 エレナと二人でイタリアからマケドニア連合共和国に避難した十歳の女の子。焦げ茶色のショートヘアー。


【レンカ・クデラ】

 母の妹。二人が訪ねたときは長期不在で、家の鍵を隣の小母様に預け、伝言を残した。


【マクシム】

 配給所に勤めている人の好さそうなお爺さんだが、モスタール周辺の配給所を統括する立場にある。エレナを配給所の職員として採用した。


【ヨナシュ】

 強面の巨漢商人。配給所のエレナに目を付け、自分の愛人になるよう迫った。

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