第三十五話 上書き
僕はやはり何も言えなかった。
機械が楽園を求めるのはおかしい。口に出すのは簡単だ。
だけど、機械を目の前にしてそれを言えるだろうか。アンドロイドのアトランティエ・ラヴクラフトに向かって。
「……人間の思想や思考の方向性、そして人格も、記憶や経験によって形作られる」
黙っている僕に、アトランティエさんは読み聞かせるように語りかける。
「例えばその記憶や経験を人工知能にコピーしたら、例えばその記憶や経験を別の人間にコピーしたらどうなるかしら」
「そんなこと――」
「できないわけじゃないわ。あなただって知っているでしょう。八百四十年も前に開発され、今は存在しない脳拡張記憶デバイス技術を」
知っているとも。特殊な手術をした上で、外部装置に人間の記憶をコピーし、そして戻すことができる夢の技術だ。しかし、レコードでしか見た事はない。手術が難しいか、それ以外の問題が見つかったのだろう。
「つまり、……ああ、ちょっと待って下さい。うまく考えがまとまらない。どうして、どうしてそんなことをしたのか。何か目的が……。アヴァロンの末裔、洗脳のために……。ああ……、そういうことか」
僕は無意識に声を出して思考を続け、結論を導き出した。
「紛い物のニライカナイがある限り、オリアナさんのような被害者が増え続ける。だから、コード:サクラは停止されなければならない。絶対に」
アトランティエさんは少し目を細め嬉しそうに微笑んだ。
「カザハナさんがその結論に達してくれて私は嬉しいよ。アヴァロンの末裔も、きっとコード:サクラが生み出した弊害の一つで、それを取り除くためにもアルカスプログラムを起動しなければならないわ。たとえ時間が巻き戻ろうともね」
僕はゆっくりと頷く。頷くが、しかし、バグフィックスを完了させるパスワードは未だ不明だ。
「ところで、アトランティエさん」
「これからはリッカでいいわ。リッカ・アイコウ。それが私の本当の名前」
「では、リッカさん」
「……驚かないのね」
「薄々感づいていましたので。あなたはリクギ・プラトーとハルカ・アイコウの娘で、モグサ・プラトー博士の孫で、そしてネージュ・アイコウであり、アトランティエ・ラヴクラフトでもある」
「当たっているわ。よく分かったわね」
「だって、あなたはコード:サクラのことを知りすぎている。しかし、どうしてそこまで知識があるのかは分からなかった。それが先ほどの件でようやく合点がいきましたよ。あなたは体を機械化し、そしてモグサ・プラトー博士の脳拡張記憶デバイスを引き継いでいる。違いますか?」
怒り、焦り、哀しみ、或いは嘲笑。
僕が予想した彼女の反応はそれだった。
でも、現に目の前にいる女性が見せているのは、実に穏やかな微笑、そして首肯である。
僕に母親がいたとしたら、きっとこんな感情を見せてくれていたのだろうと思う。
「うん。うん。素晴らしいわ。だから、あなたが聞きたいことを先に教えてあげる。私は、アルカスプログラムのバグフィックスを完了させるためのパスワードを知らないの」
「そうですか――」
その瞬間、頭にパスワードが閃いた。
閃きというのはいつも突然やってくる。しかも、これは正しい。なぜだかは分からない。いつも通りだ。なぜだか分からないけど正しいものは正しいのだ。
「リッカさん、パスワードなんですが――」
念のためにリッカ・アイコウにも披露すると、彼女はつい先ほどと同じように、手放しで「素晴らしい。きっとそれが正解よ」と肯定してくれた。
「ファル助。アルカスプログラムのバグフィックス終了に必要なパスワードは、モモヨ、だ」
「了解。トライ……成功。アルカスプログラムのバグフィックスが完了しました。ただちに制御端末への上書きを開始します。上書き終了と同時に実行しますか? マスター」
「頼む」
「了解しました。……上書きコピー完了。シニアアドミニストレータ権限によりアルカスプログラムを実行」
固唾を呑んで端末のホログラムモニターを見守るが、そこには特段の動きは見られない。停止処理をキャンセルする場合には、シニアアドミニストレータ権限を持つ者がホログラムモニターに三十秒以上触れて下さいとあるくらいだ。しかし、周囲には分かり易く反応があった。
『コード:サクラの運用停止命令を受諾。二時間後に統括維持管理プログラムの停止を実行します。管理区域内に残っている職員は速やかに退避して下さい。繰り返します――』
ブザー音もサイレンも鳴らず、ただ古臭く落ち着いた調子の合成音声だけが、広いホールに反響する。
「あ、そうだ。ファル助、ロックを解除してくれ」
「了解。……ロック解除完了」
あとは停止処理が完了するまで待つだけだ。何もやることはない。
ホールには停止処理を告げる機械音声が、繰り返し、繰り返し流れ続けていた。
こういうときには、もう少し緊迫感のある警告などが流されるものかと勝手に思っていたのだが、島そのものが破壊されるようなものではないから、割合にのんびりとしたものなのだろう。
のんびりしていた。
僕は疲れてのんびりしていたのだ。
背後からコンっと金属の音がして、のんびりと振り返った。
おでこに衝撃が走り、僕の後頭部は木の幹に打ち付けられた。
火花散る視界には、ところどころ人工皮膚がめくれ、金属フレームや樹脂やチューブがむき出しになったオリアナさんが映っていた。
コートの懐から多針スタンガンを取り出そうと右腕を動かそうとする。
動かない。
機械のオリアナさんが近づいてくる。スローモーションのように。
ファル助が触手を伸ばした。電気ショックを与えるつもりなのだろうか。
オリアナさんは触手を掴み、両手で引きちぎった。
何かがオリアナさんの頭部に刺さった。ヒグマのときのようにアオエが電極を射出したのかも知れない。
オリアナさんの表面に電気が走った。けれど、彼女は倒れない。
何かを引っ張る仕草をしたら、アオエが飛んできた。床にひどく叩きつけられて、そのまま動かなくなった。
オリアナさんがこちらに向かってくる。
僕はまだ立ち上がれない。
右腕は動かない。
左腕で多針スタンガンを引き抜き、片手で射出した。
全てが刺さり、電気が流れる。
彼女はまったく動じない。
僕はまだ立ち上がれない。
右腕はまだ動かない。
オリアナさんの右腕が僕の頭を殴る。
オリアナさんの右足が僕の体を蹴る。
僕はうずくまり、左腕と左脚で必死に守った。
彼女の動きも、時間が経つのも、全てが遅く感じられた。
彼女からの攻撃が止んだ。
体の隙間から彼女を見た。
リッカさんが彼女に体当たりをしていた。
二人とも転倒し、なかなか起き上がれそうにない。
だから、僕は立ち上がった。
僕は彼女の散弾銃を探す。
端末の足元に転がっていたのを拾い、左腕でそれを構えた。
いまだ起き上がれない彼女に銃口を向ける。
ドン
重く乾いた音が鳴り、銃もろとも僕の左腕が跳ねる。
オリアナさんの体も跳ねる。
今度は両腕で構える。
ドン
彼女のむき出しの体が跳ねた。
悲鳴も何も発しない、ただ彼女の顔が付いているだけの機械の体。
「オリアナさん。一緒に楽園に行きましょう」
そう言うと彼女は「うん」とだけ発した。
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