第31話 言えない
ライサがスノダールへと帰り、ザックと暮らしている家へ急ぐと、既に家の煙突からは煙が立ち上っていた。もうザックが帰ってきてしまっているらしい。
ライサは慌てて足の速度を速めると、家の扉をノックして少し間を置いてから扉を開いた。
「ごめんなさい! 遅くなってしまって」
声をかけながら雪を払い、部屋の奥へと入っていく。外へ通じる二重扉を開けるとすぐに居間があり、その正面の奥が作業場、左隣がザックが使っている自室だ。その部屋から、ザックがひょっこりと顔を出す。
「ああ、ライサか! そんな慌てなくても良いって。タチアナと楽しんできたんだろ?」
そう柔らかく笑いながら、ザックは両手で上着の裾を引っ張り直していた。着替え中だったのだろうか。薄い布地が彼のたくましい身体の線を浮かび上がらせていて、ライサはパッと赤面する。
「ご、ごめんなさい!」
視線を逸らす一瞬、彼の鎖骨の辺りに紅い何かを見た気がしたが、顔まで熱くて上手く思考が回らない。
「はは、そんな過剰に反応しなくても平気だって。それよりも、おかえりライサ」
苦笑を浮かべたザックが近づいてきて、その太い腕でふわりとライサを包み込む。ライサは一瞬躊躇いながらも彼の背中へ腕を回した。
ザックの腕の中は、ふかふかの毛布のように温かい。安心感に包まれ、ライサはほっと息を吐く。
「……ただいま」
「おう!」
ぎゅっと腕に一瞬力を込めて、ザックがライサの体を離す。彼の暖炉の火のような瞳が自分に向けられた後、妙な間があった。ライサは違和感を覚えて、首を傾げる。
「ザック? どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない!」
焦った様子で、ザックは後ろを振り返り居間の卓上を指さした。
「それより、村のみんなからライサの嫁入り道具のデザイン画が届いてるぞ。好きなのを選んでくれってさ! もちろん、何か修正がある場合は対応してくれるって」
「わぁ……」
ライサは瞳を輝かせながら、机に広げられた紙の束に手を伸ばす。
氷の結晶が描かれた箪笥や草花の彫刻が施された木製のベッド、カラフルな糸で編みこまれた温かそうな布団など、様々な調度品のデザインが描かれていた。タチアナの依頼の際に、嫁入り道具のデザインはいくつも見ていたが、今回のものはそれとも異なるデザインだ。
自分の為に新しいものを考えてくれたのだと思うと、嬉しい反面、ライサは恐縮してしまう。
中には「遊び歩いて帰って来ない亭主をこっそり追跡するための魔法具」なんてものの図面もあるが、これもライサへの気遣いだろう。おそらく。
嫁入り道具にしようという辺りに、なんだか闇を感じてしまう。
「サーシャおばあさん、苦労したのかしら?」
「ん? どうした?」
顔を覗きこんできたザックに、ライサは咄嗟に図面を裏返す。
「いえ! その、これ、本当に私が使っても良いのかしら……」
「何言ってんだ。全部ライサの為に作るんだよ! みんな張り切ってたぞー! 希少素材を惜しげもなく使おうとするから、さすがにニーナのばあちゃんが止めてたよ」
そう言えば帰宅する前、偶然すれ違ったレース編み専門の職人に、婚礼衣装も作るからねと耳打ちをされてしまった。タチアナの言う「実質的な結婚式」という言葉も、あながち間違いではないのだろうか。
婚礼衣装を着て彼の隣に立つ自分を想像し、ライサは頬を赤く染めた。
「そうだ、ライサ!
「そうなの⁉ すごい、本当に早いのね」
ライサは感嘆の声を漏らして、目を丸くする。
しかし、これからが大変だ。花びらを龍の鱗のように加工して儀式の道具にするには、時間も手間もかかるのである。しかも指導してもらえるとは言え、それを行うのはライサとザックの二人だけなのだ。
「二人で頑張って、良いものを作ろうな。心を込めた分だけ、実際の龍の鱗の輝きに近づくってばあちゃんも言ってたし」
「そうね。上手くできるか少し不安だけど、二人ならきっと――いいえ、絶対に大丈夫よね」
ライサはザックの顔を見上げ、自信を持って微笑んだ。少し驚いた表情を見せたザックは、少し目元を赤く染めてはにかむように笑う。
「おれ、やっぱりライサのことが好きだな」
あ。キラキラと輝く笑顔を向けられ、ライサの心臓が大きく跳ねる。彼の顔を直視できなくて、ライサはパッと視線を逸らす。
「な、何? 突然」
「突然じゃないよ。いつも思ってることだって」
ザックの言葉は落ち着いていて、揶揄うような響きもない。そう、いつだって彼は真っすぐだ。
ライサの心臓は激しく音を立てているが、決して嫌な感覚ではない。じわじわと湧いてくるのは、大きな喜びだ。
ふと、タチアナの言葉が思い浮かぶ。今が、自分の気持ちを示す絶好の機会ではないだろうか。自分がどれだけ彼のことを想っているか、ちゃんと伝えなければ。
ライサはおずおずを顔を上げ、ザックを見上げる。愛おしそうに自分を見下ろす彼の瞳。今なら伝えられる気がする。
高鳴る胸を落ち着かせ、ライサは思い切って口を開く。
「私、貴方が――」
その時、ライサの喉がヒュッと嫌な音を立てた。
彼女は呼吸の仕方を忘れた様に、喘ぐような息を吐く。ぱくぱくと口を開け閉めしても、出てくるのは音にならない空気だけだった。
ザックに気持ちを伝えたいのに、どうしても言葉が、声が出てこない。
どうして。
何故言えないの。
ライサは愕然として、視界がぼやけてくる。
ただ、私も好きだと言うだけ、それも彼を好きなのは紛れもない本心なのに。自分の背筋を冷たく凍らせているのは、紛れもない「恐怖」だ。私は一体、何を恐がっているのだろう。
私はザックを――。
『大好きだって言ってくれたのに! 大好きだったのに……おかあさんの嘘つき!』
心臓が大きく跳ねる。体が一気に冷えて、指先や唇がぶるぶると震えた。
どうして忘れていたのだろう。いや、自分の心を守るため、蓋をして思い出さないようにしていたのかもしれない。間違いない。あれは、幼い私が自分を置いていった母親に向けて言った言葉だ。
ライサは母のことが大好きだったし、それを無邪気に母親へ伝えてもいた。それなのに母は、幼いライサを置いていってしまったのだ。
「――ライサ?」
俯いてしまったライサに、ザックが不思議そうに声をかける。ライサの顔を覗こうと、ザックが身を屈めてくるのが分かった。
顔を見られたくない。ライサが露骨に顔を背けた瞬間、扉を叩く音がけたたましく響き渡った。
「な、なんだ?」
『ザック! ライサちゃんも、いるか⁉』
「ロジオンのじいちゃん? なんだろう、やけに騒がしいな」
ザックがライサから離れ、扉の方へ向かう。彼が扉を開けると、息を切らせたロジオンが目の前に立っていた。
「おお、二人ともいたんだな」
「そんなことより、どうしたんだよそんなに慌てて」
ロジオンは血相を変えて、かなり慌てているようだ。ただ事ではないと、ザックは表情を引き締める。
ロジオンは胸に手を当てて息を整え、掠れた声で告げた。
「急で悪いが、今すぐ
それは、ライサの悩みを一瞬吹き飛ばしてしまうくらい衝撃的な言葉だった。
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