第37話 嘘でも良い

『おかあさん、遅いな……』

 ある夜、ライサは寒い部屋で一人、母の帰りを待っていた。暖炉は薪の節約のため、自分一人でいる時には使わないことになっている。ありったけの衣服や毛布をかき集めても、ライサの指先はかじかんで感覚がなくなってしまっていた。


 母の帰りが遅い。以前も遅かったのだが、大抵はその日のうちに帰ってきてくれていた。ところが最近は日付が変わってから、日によっては朝帰りすることも増えたのである。

 今夜は一段と冷えるようだ。

 母は寒くないだろうか。

『あ』

 扉の開く音に、ライサはパッと顔を上げた。

 おかあさんだ。寒くて強ばった体を動かし、パタパタと母の下へ向かう。


『おかえりなさい!』

『あ、あー……そうよね。まだ起きてたのね』

 母はライサの姿を見ると、表情を曇らせて俯いた。最近はいつもこうだ。ライサの胸にチクリと刺されたような痛みがはしる。

『お、おかあさん! あのね、明日は私の』

『疲れてるの。あなたもさっさと寝なさい。うー、寒いわね。……帰ってきたくなかったけど、仕方がないわよね』

 母は自分の肩を抱き、ぶつぶつと不満げに呟いている。帰ってきたくなかったという言葉を、ライサは聞かなかったふりをして寝室へと戻った。


 帰りが遅くなるにつれ、母の態度がそっけなくなっていく。仕事帰りに抱きしめてくれることもなく、「大好き」だと言ってくれることもない。

 変化に戸惑いつつも、その頃のライサはまだ母を信じていた。


『おかあさん、疲れてるのかな? 明日は私の誕生日なのに』

 去年の誕生日にはプレゼントこそなかったが、早めに帰ってきた母とゆっくり二人きりで過ごすことができた。明日もそんな風に過ごせたら良いな。

 ライサは虫のように丸まり、震えながら眠った。



『って訳で、この子のことお願いね』

 どうして、あんな衝撃的な日のことを忘れることができたのだろう。

 誕生日の朝、久しぶりに母と外出だと喜んだライサは、自分の叔父さんと叔母さんだという人たちの前で、呆然と立ち尽くすこととなった。


『今まで顔も見せなかったくせに、突然現れてこの子をよろしくだと!? 何を考えてるんだ!?』

『だから、が子どもはいらないって言ったのよ! だったら、置いていくしかないじゃない』

『うちは、上の子は体が弱いし、下の子は生まれたばかり。その上、夫は怪我をしてろくに仕事もできないのよ!? そんな余裕があるわけ』


『あ、そ。だったらちょうど良いじゃない。この子、誰に似たかは分からないけど背も高いし、もう十歳だもの。どこかで働かせれば良いわ。少しは役に立つんじゃない?』

 おかあさんは、何を言っているんだろう。

 ライサは言い争う大人たちを眺めながら、ぼんやりと思った。この、唇を歪めて笑うこの人は、本当に自分の母なのだろうか。


『おかあ、さん』

 おかあさんは私のことが大好き、なんだよね。

 だって、前までちゃんと「大好き」だって言ってくれて――。

 ライサの喉が、音にならない悲鳴を上げる。自分を見下ろす母の眼差しは、驚くほど冷たいものだった。


好きな人ができちゃったんだもの、仕方がないじゃない!? 私が幸せになるのに、この子は邪魔になったのよ』

 母の言葉が、鋭く深くライサの胸を突き刺した。




 

「嘘つき」

 漏らした言葉は、我ながら暗くて重い。手足が冷たくなって、ライサは震えながらぎゅっと両手の拳を握った。


 ザックはあの人とは違う。ずっと私のことを好きでいてくれる。裏切ることは絶対にない。

 そう思うのに、ライサは人の心は決して見えないことも、人の心は変わってしまうことも知ってしまった。

 だからこそ、彼と心が通じ合った後で、万が一にでも「終わり」がきてしまったら。

 ライサは自分の肩を抱き、握りつぶすように手のひらに力を込めた。


「あ――」

 玄関の扉が開く音がして、ライサは顔を上げる。勢いよく立ち上がった拍子に、椅子が大きく音を立てた。

 ザックが帰ってきたんだ。良かった、無事に帰ってきてくれた。今は、素直に彼の無事を喜ぼう。

 ライサは、先ほどまでの暗い考えを首を緩く振ってかき消した。

「ザック、おかえりなさい!」

 できたばかりの祭具をトレーに乗せて、ライサは作業場を飛び出した。


 ザックは、ゆっくりとした足取りで居間まで入ってきた。ライサを見つけると、少しだけ口角を上げる。

「あ――ライサ、無事に炎龍の魔核は譲ってもらえたよ。ニーナのばあちゃんにちゃんと預けてきたから、その内シャトゥカナルの方に運ばれると思うぞ」

 ひかえめな笑みに、ライサの胸が騒ぐ。目を泳がせて、慌てて返事をした。

「そ、そう。良かった……」


 ザックの表情には覇気がない。怪我をしている様子はないが、疲れたのだろうか。それともどこか具合が悪いのだろうか。

 ザックはライサの顔を見て、何かに気づいたような様子で表情を明るくした。


「なんだよ。そんな顔すんな。別にライサが心配するようなことは何もないからさ。――あ、祭具できたのか⁉」

「え、ええ。どうかしら? 綺麗にできていると思うのだけど」

 近づいてきたザックは、腰を曲げてライサの手元を覗き込む。瞳を輝かせ、彼は弾んだ声を上げた。


「綺麗だなー、完璧じゃん! これなら、ばあちゃんも間違いなく合格をくれると思うぞ。ライサ、頑張ってくれてありがとう」

「そんな、ザックだって一生懸命作ってくれたじゃない。――あ、それに炎龍の魔核のことも、本当にお疲れ様! ザックのおかげで、シャトゥカナルのみんなも寒さや魔物の脅威に怯えなくてすむわ、本当にありがとう。誰かから……それこそ国王陛下から、何かご褒美をもらっても良いくらいだと思うわ」


 ライサは、そうだと言わんばかりに大きく頷く。

 せめて国王陛下には、「スノダールのザック」がこの国を救ったのだと国民に認知させてほしい。

 国王陛下が、スノダールの人々は決して野蛮で冷たい人たちではないと、みんなの誤解を解いてくれれば、もっと生きやすくなるだろう。


 ライサがそんなことを考えていると、ザックが子どもっぽく不満じみた声を上げた。

「えー? 王様からのご褒美なんて堅苦しそうだし、いらないよ」

 その時ふと、ザックが言葉を切って真顔になった。

「なぁ、ライサ。頑張ったご褒美をくれるって言うなら、ライサに一つお願いがあるんだ」

「私に?」


 私で良いのかしら。そんな思いで、ライサは首を傾げる。ご褒美をねだるザックが微笑ましくて、ライサは明るく笑みを返した。

「私にできることなら、良いわよ。なんでも言って」

 ザックは眉を寄せてこちらを見つめている。何か手の届かないものを見つめるような、遠い眼差しで、彼はふっと微笑んだ。


「嘘でもいいから、おれのこと『好き』って言ってくれないか?」


 何を言われたのか分からず、ライサは呼吸を止めた。

 やがて頭を殴られたような強い衝撃が襲い、心臓がバクバクと激しく音を鳴らす。

 ライサは、首をゆっくりと横に振った。


「何を、言ってるの? そんな、嘘でも良いからなんて、なんで、そんなことを言うの……? こんな状況で、言ったって」

 この状況で「好き」と言ったって、本当か嘘か分からないじゃない。


 ここまで、彼を不安にさせていたのだという後悔と、情けない自分への怒りが、ライサの心をじわじわと侵食していく。ほんの少しだけ、ザックに対して腹立たしさも覚えている。

 それがまたどうしようもない自己嫌悪を生んで、頭の中はぐちゃぐちゃだった。感情の整理ができず、泣きたくもないのに泣いてしまいそうになる。

 ライサは唇を噛みしめ、下を向いた。


「――ごめんな。変なこと言って。おれ、さすがにちょっと疲れてるみたいだ」

 ふと顔を上げると、ザックの真っ青な顔がライサの目に飛び込んでくる。目を見開いて、ライサは悲鳴のような声を上げた。


「ザック顔色が悪いわ!? わ、私のせい」

「違うから! ごめん、さっきの言葉は忘れてくれ。大丈夫。疲れただけで、休めば、大丈夫だから」

 彼の強い口調に、ライサの肩が大きく跳ねる。

 ザックは、ごめんと小さく口にして、にこやかな笑みを見せた。


「――炎龍の魔核、ライサは見たことないだろう? 滅多に見られるもんじゃないしさ。ニーナのばあちゃんに祭具を見せてくるついでに、そっちも見せてもらってくればいいよ」

「え、こんな時に何を」

「良いから! 行ってきなよ。すごく綺麗だからさ」


 有無を言わさぬ調子でそう言うと、ザックは両腕をライサの背に回した。触れるか触れないか、壊れ物のような抱擁に、ライサの心臓が締めつけられる。

 彼の体は、違和感を覚えるほど冷たく感じた。

 抱きしめ返す間も与えず、ザックはすぐにライサの体を離して背を向ける。


「じゃあ、おれ休んでるから。しばらく……そっとしておいてほしい」

 待って、一体何があったの。

 そう、問いただしたかったのに。

 凍りついたように、ライサの体は動かなかった。

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