第41話 ザックの過去

 初めて会った時、は折れそうなほど細い体で一人、負けじとそこに立っていた。

 人に寄りかかることを忘れてしまったような瞳が、とても綺麗で、でも悲しくて。

 ザックは思わず、目を奪われてしまったのである。




 膝まで積もった雪道を、ひたすらに足を動かし分け入ってく。彼が通った痕跡は、降り続く雪によってかき消されていく。あまり寒さを感じないのは、自分の体も同じくらい冷たくなってしまっているからだろうか。ザックはふと立ち止まり、何かを懐かしむように目を細めた。


 雪でできた彫刻のような、氷霜ひょうそうの森。周囲は冷えた空気で満たされ、吸い込むと肺すらも傷ついてしまいそうである。しかし、静寂に包まれた世界は清浄で、聖域のようだった。

 ここは十数年前、ザックが自分の罪を知ってしまった場所だった。




 ザックが、狩人としてようやく簡単な仕事ができるようになった頃、彼は深い山の奥の森で、迷子になってしまった。

 偶然珍しい魔物を見かけ、夢中になって追いかけている内に、知らない場所へと迷い込んでしまったのである。


 迷いこんだ森は、全てが純白の世界だった。木の枝も幹も真っ白な雪や霜に覆われ、本来の色を隠されている。地面には深く雪が積もり、何の足跡もついていない。高級な絨毯のようにも見えた。

 生き物の気配も、風の音すら聞こえない。

 雪が全ての音を吸い込んでしまったような、美しく現実離れした世界だった。


『魔物は、見失ったかぁ。それにしても、すごい場所だな……』

 体格だけは成人男性に引けをとらないが、中身はまだ十代の少年だ。ザックは好奇心で瞳を輝かせながら、周囲をぐるりと見回した。

 幸い、自分の足跡はまだ雪の上に残っている。これを辿っていけば、なんとか元の場所に戻ることができるだろう。

 のんきにそう考えながら、ザックは美しい森をゆっくり観察していた。


『誰ダ』

 その声が聞こえた瞬間、ザックは心臓を握りつぶされたような、例えようのない恐怖心に襲われた。

『ココが私の森と知って、入ってキタのか?』

 声と共に、冷たい息吹がザックの全身に吹きかけられる。恐怖からなのか、その冷気で凍りついてしまったのか、ザックは指先一つも動かすことができなかった。

 この声は、明らかに人間のものではない。

 何者だ。

 ザックは喉をならしながら、ゆっくりと顔を上げた。


 淡く青色に輝く鱗、コウモリにも似た巨大な両翼、蜥蜴にも似た相貌、ユニコーンのような長い一角、そして、サファイアのような両目が冷ややかにザックを見下ろしていた。

『もしかして、氷龍、なのか……?』

 遥か昔から、この地を統べていたという女王、氷龍。まさか、おとぎ話の存在が、目の前にいるのか。

 ザックの背筋を悪寒にも似た感覚がはしった。なんて気高く美しい姿なのだろうか。まさか、こんなところで会えるなんて。


 氷龍はザックの眼差しに嫌悪感を滲ませ、再び声を震わせた。

『ここは、人の子が立ち入ってよい場所ではない。早くここから――』

 ザックを見つめていた氷龍が、不意に言葉を切った。瞳の嫌悪が憎悪に変わり、周囲の温度が一気に下がる。


『オマエはまさか、我のツガイの鱗を奪ったあの時の赤子か!?』

 え、とザックは聞き返すような声を発した、つもりだった。実際には声にならず、頭の中を氷龍の言葉がぐるぐると回る。

 氷龍は翼を大きく広げ、ザックに深い深い悲しみと憎しみをぶつけるように吼えた。


『オマエが鱗を奪ったから、我は、愛しい我のツガイと会うことができなくなった! よりによって元凶であるオマエが、生き残ってシマッタのカ!? なんと、なんと憎らしい。よくも、おめおめと』

 おれが、氷龍のツガイの鱗を奪った。そして、おれだけが、生き残った。

 何を言っているんだと思う中で、ザックの脳内にある記憶が浮かぶ。


 ぼんやりとした視界の中、「良いもの」だと思って小さな手のひらで思わず掴んでしまったもの。ルビーのように紅く輝く、平べったい石のようなものの記憶だ。


 育ての親のニーナたちに、自分は赤ん坊の頃、雪山で拾われたのだと聞かされていた。

 まさか、まさか、赤ん坊の自分が一人でいた訳は――。

 そして、その元凶は――。

 氷龍の話とよみがえったばかりの記憶が、繋がってしまった。


 自分の根底が、薄氷のようにひび割れて崩れていく。何も考えられず、呆然と氷龍を見上げていると、氷龍はザックの左胸の辺りを見て息を呑んだ。

『このちから……オマエ、あろうことか、我が愛しのツガイの魔核を使い、呪いから生き延びたと言うのカ!?』

 全身をバラバラにされたような痛みに、ザックは悲鳴を上げた。


 痛い、痛いとそれだけで頭の中が満たされ、心臓がガンガンと耳元で鳴り響く。

 思わず胸元に手を当てると、ドロリと生暖かい液体が手のひらに付着する。氷龍が、その鋭い爪でザックの胸元を切り裂いたのだ。


 ザックは自分の傷口を見て、ひきつったような声を上げる。凄惨な傷に恐怖したわけではない。

 切り裂かれた皮膚の下から、赤橙色に輝く宝石のようなものが顔を覗かせていたからである。


「お、おれのからだ、どうなって……これ、なに……?」

 おれの体の中に、一体何が。

 氷龍は再び前足を振りかぶって大きく吼える。

 ザックはきつく両目をつぶった。


 ふわりと温かい風が頬を撫でている。違和感を覚えたザックが恐る恐る目を開けると、炎のような赤色が氷龍と自分の間に割って入っていた。

 蝙蝠のような雄大な両翼と、長い尾。氷龍と同じ姿形をしているその生物は、鱗の色だけが異なっていた。氷龍が震える声で、その名を呼ぶ。


『炎龍……!?』

 炎龍、この存在が。

 氷龍と炎龍は、何やら自分に分からない言葉で言い争いをしているようだった。ふわふわとザックの周りを取り囲んでいるのは、温かい風だ。

 炎龍は自分を助けてくれたのか。どうして、おれなんかを。

 決して穏やかではない両龍の叫び声を聞きながら、ザックは左胸の痛みに意識を飛ばした。



『気ガついたか、ヒトの子』

 目覚めると、紅いルビーが視界一杯に広がっていた。驚いたザックの体は、大きく跳ねる。

 どうやらルビーは炎龍の体で、ザックはその懐に身を預けていたのである。


 炎龍の声は静かで穏やかだったが、それでも体は恐怖に震え、ザックはまともに息が吸えなくなる。

 炎龍がため息のような息をこぼすと、ふわりとザックの体を温かい空気が包みこんだ。


『スマナカッタ。幼かったオマエに、罪などあるはずがないのに、こんなコトになってしまって』

 優しい声色と温かい空気に、ザックの体の強ばりがほどけていく。

 恐る恐る、ザックは炎龍に問いかけた。

「一体、おれが赤ん坊の時に、何があったんだ……? ひ、氷龍は――」


 しばらく口を閉ざしていた炎龍は、ゆっくりと頭を振った。

 龍の表情は、人間のザックにはよく分からない。ただ、酷く悲しそうに見えた。


 そして、炎龍は語った。

 かつて、ザックの両親が誤って、氷龍の巣に迷いこんでしまったこと。赤ん坊だったザックが、氷龍の持つ炎龍の鱗をいつの間にかつかんで、持って帰ってしまったこと。

 それで氷龍は、鱗を取り返そうとザックたちを追いかけたのだと言うこと。


『ソコで、威嚇のために氷龍の放った攻撃が、不運なことに鱗を破壊してしまったのだと聞いてイル。ツガイの証を失った氷龍は悲しみと怒りで錯乱し、オマエを呪ってしまった。オマエを含む周り全てを凍りつかセ、死に至らしめる。そんな呪いだ。我が気づいて駆けつけた時には、オマエ以外はもう……』


 炎龍は、前足の爪をそっと持ち上げ、ザックの左胸を指差した。傷口は塞がっていたが、氷龍が切り裂いた箇所の皮膚が赤く変色している。

 炎龍の力で傷は塞いでくれたそうだが、跡は残るだろうと炎龍は言った。


『オマエのソコには、皮のすぐ下に我の魔核を埋め込んである。魔核で呪いの力は抑え込まれているから、オマエも周囲も凍りつくことはナイ。臓器を傷つけないように、深く埋め込むことはできなかった。たった、薄皮一枚だ。魔核は決して奪われてはならナイ。オマエの体から魔核が取り除かれれば、呪いは再び牙を剥くダロウ』

「……氷龍は、今どうしてるんだ?」

 数秒黙り込んで、炎龍はゆっくりと首を横に振った。


『先ほどの、我の行動と発言が酷く気に入らなかったラシイ。ツガイは解消すると言われて、ココではないどこかへ隠れてしまった。元々、我の人間贔屓ヲ、良く思ってなかったカラな。目印もないし、再び見つけられるカどうかは、我にもワカラナイ』

 炎龍の弱々しい声が、ザックの胸を締め付ける。


「もしかして、おれのせいなのか!? おれの、せいで、炎龍と氷龍はもう会えないのか!?」

『違ウ。あれは事故で、どちらかと言えば氷龍の逆怨みというものだ。――そもそも、根本的に性質の異なる我々が、ツガイとなったことがオカシカッタのだ。遅かれ早かレ、こうなっていた。オマエが気に病むことはナイ』


 炎龍はそう言って、翼をザックの頭にそっと被せる。まるで人間が、頭を撫でてくれるような動作だった。

『とにかく、オマエは我の魔核を手放さないことダケ、気に止めておけば良いのダ。では、な』

 その言葉を残して、炎龍は真っ白な空へと飛び去っていった。





「結局、約束破っちゃったなぁー」

 ザックはわざと大きな声を出し、自嘲した。冷たい森に自分の声が吸い込まれて消えていく。

 炎龍はああ言ってくれていたが、両親や村のみんなの命を奪ったのは自分の行動が原因だ。死んでいったみんなも、自分を恨んでいるかもしれない。

 だからいつかは、償わなければならなったのだ。それが、こういった形だっただけ。


 ザックは息を吐いて、くしゃりと自分の髪を撫でる。

 いつ声が出せなくなるのだろう。いつ、呼吸が止まって、心臓が動かなくなるのだろう。

 けれど、炎龍の魔核の名残があったおかげか、すぐに呪いの影響がでなくて良かった。


 おかげで、ライサにお別れを言う時間ができた。

 旅立つ前に、とうとう「好き」とは言ってもらえなかったけど。シャトゥカナルもスノダールも、大切なライサも救うことができたんだ。


「これで、良かったんだよ」

「何が、良かったの……!?」

 ザックは目を見開いた。この声は、まさか。

 否定するように、首を何度か横に振る。


「やっと、見つけた」

「――ライサ?」

 ゆっくりと振り返るとそこには、もう会えないと思っていた愛しい彼女の姿があった。

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