第20話 大嫌い

「結婚する相手に一度も会ったことがない、んですか? 本当に……?」

「ええ。婚約は旦那様とムロツィフスキー家のご当主様の間で交わされたものですので。ご当主様にはご挨拶をさせていただきましたが、ご子息様はお忙しい方のようで肖像画でお顔を拝見し、簡単な略歴を伺ったのみでございます。実際にお会いできるのは、婚礼の儀当日になるかと」


 ライサは言葉を失った。自分自身も相手のことを知らずに嫁入りした身だが、アレは勘違いが引き起こしたものだ。

 本当に、結婚相手と当日まで会わないなんてことがあるのか。


「そう珍しいことでもございませんよ。そうですね。御年はタチアナ様よりも上の三十二だと伺っておりますね。非常に温厚で誠実なお人柄だとか。きっと良いご縁ではないかと思われます。貿易を営むムロツィフスキー家の次期当主を、お嬢様がどこまでお支えできるのかが、少し、いやかなり心配でございますが」

 肖像画を拝見した印象だと、あまり派手な色合いは好まれないかもしれません。

 ローズマリーの言葉が遠くに聞こえる。何度か名前を呼ばれ、ライサはやっと我に返った。


「大丈夫ですか? ご気分でも優れませんか?」

「いいえ、大丈夫です。色々とお話を聞かせていただき、ありがとうございました」

 ライサは膝の上で拳を握って、頭を下げた。こちらが首を突っ込むことではない。

 自分達の仕事は婚礼に花を添える嫁入り道具を作ること、それだけだ。


「今のお話を参考にして、またスノダールからデザイン画を添えた手紙が送られてくると思います。その時はどうか、タチアナ様にもご協力をお願いいたします」

「承知いたしました。お待ちしております」

 ライサがソファーから腰を上げると、ローズマリーが音もなく素早く立ち上がり、応接間の扉を開けてくれた。

 恐縮して背中を丸めながらも、ライサは鞄に荷物をまとめて応接間の扉をくぐる。

 絨毯の敷かれた長い廊下に足を踏み出したところで、よく通る鈴のような声が響いた。


「な、貴女……」

 首をもたげると、廊下の奥にタチアナが立っていた。

 室内での彼女の服装は、彼女の存在感をより目立たせている。胸元を強調したドレスには、袖や裾にたっぷりとフリルがついていており、色も目の覚めるようなピンク色だ。可愛らしい雰囲気のドレスだが、眉のつり上がったその表情からは、あからさまに不機嫌さが滲み出ている。


「ちょっと! どうして貴女がこんなところにいらっしゃいますの!?」

 高いヒールを鳴らしながら、タチアナはライサに詰め寄ってくる。こちらに向ける視線は冷たい。なんだか責められているような気持ちになり、ライサは体を強張らせる。


「お嬢様。ライサ様は、嫁入り道具の件でわざわざお越し下さったのです。本日スノダールの方が来られると言うことは、今朝お伝えしたはずですが」

「それはそうだけど……まさか貴女が来るなんて思いませんでしたわ。用事が済んだなら、もうお帰りになってはいかが?」

「お嬢様! 失礼ですよ」


 気に入らないとばかり自分を睨み付けてくるタチアナに、ライサは次第に腹が立ってきた。

 出会った時からこうだ。

 直接多くの言葉を交わしたわけでもないのに、一体自分が何をしたと言うのだろう。


「あの、私の何がいけないんでしょうか?」

 唇を震わせて、ライサはタチアナを見下ろした。エメラルドグリーンの瞳が、少しだけ見開かれる。その瞳が動揺した様子で揺れていたことも、依頼人だということも忘れ、ライサは彼女に刺々しい言葉をぶつけた。


「私がタチアナ様に何かをしてしまったんですか? 何か失礼なことを言ってしまったんですか? それならきちんと謝罪します。でも、何もしていないのに一方的な嫌悪感を向けられたら、誰だって傷つきます。もう、いい加減にしてください……っ!」

 抱き抱えた鞄の中身が皺になることも構わず、ライサは両腕に力を込めた。そうしないと、タチアナを強く睨みつけてしまいそうだった。


 タチアナは細い肩を大きく震わせて、下を向く。深くため息を吐くと、勢いよく顔を上げた。

 怒りのためか悲しみか、大きなエメラルド色の瞳には薄っすらと涙が滲んでいる。


わたくしは貴女の――自分が恵まれていることに鈍感で甘えた態度をとっている所が、大っ嫌いですわ‼︎」

「え――」

 真っ向からぶつけられた嫌悪は、ライサに頭を殴られたような衝撃をもたらした。

 頭が真っ白になって呆然としている間に、タチアナはドレスの裾を翻しこの場から去っていく。

「お嬢様!」

 ローズマリーの呼び止める声も聞かず、タチアナは廊下の角を曲がって、走り去ってしまった。


 力の抜けたライサの腕から鞄が滑り落ち、中に入っていたデザイン画が廊下に散らばった。ライサは、慌てて膝を折って紙をかき集める。

 ローズマリーは無言で身を屈めると、デザイン画を拾ってライサに手渡してくれた。意外にも、ローズマリーはタチアナを追わなかった。


「ありがとうございます。その、申し訳ございません。私、タチアナ様にとんでもないご無礼を……」

「いいえ。初めに不快な態度をとっていたのはお嬢様です。しかし、そうですね。確かに今のお嬢様にとってライサ様の存在は、酷く心をかき乱すものだったかもしれません」

 ローズマリーの言葉が棘のように刺さる。自分の身を守るように、ライサは拾い上げた荷物を強く胸に抱いた。

 自分の何気ない言動や行動が、酷く他人を不快にしていた。それがとても怖かった。自分を嫌いになってしまいそうで。


 強張るライサの肩に、温かい手が乗る。ローズマリーはライサを見上げ、柔らかい笑みを浮かべていた。

「ライサ様がご自身を責める必要はございません。――お嬢様がお客様を傷つけたとあっては、スカロヴィナ侯爵家の名が廃ります」


 ローズマリーは立ち上がり、再び応接間の扉を開く。そしてライサに頭を下げた。

「もう少しだけ、お時間よろしいでしょうか? お話ししたいことがございます」

 彼女の言葉に、ライサは戸惑いつつも頷いた。

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