思い出のあったか焼き林檎 後編(バレンタインデー)

 オーブンを開けると甘い香りと白い煙が立ち上る。黒い天板をミトンで掴みそっと取り出すと、皺の寄って少ししぼんだ林檎が二つ顔を出した。

 林檎の芯を繰り抜いて、そこに砂糖とバターをぎゅっと詰める。そしてその林檎をオーブンでじっくり焼けば完成、のはずだ。見た目や香りは、記憶の中のものとほぼ同じである。


 火傷をしないように林檎を取り出し、皿の上に乗せて、そっとナイフを入れてみる。さくりと雪を切ったような触感の後に、溶けたバターと温められた果汁がさらりと皿に流れ出していく。断面はてらてらと黄金色に輝いていた。


「上手くできたと、思うのだけど」

 念のため、ライサは細かく切った林檎にフォークを突き刺し、口へと運ぶ。二つ作ったのは二人で食べるため、そして味見のためだった。

 甘い蜜がじゅわりと染み出て、ライサの口の中を満たす。林檎の香りが鼻から抜けて、温かくてほっと肩の力が抜けていく、けれど。


「何か、足りない……?」

 あの時食べたものとは、何かが違う気がする。レシピが間違っていたのか、それとも思い出の中だから勝手に美化してしまったのだろうか。

 どうしようと、ライサは力なくフォークを皿の上に置く。このままでも十分美味しく食べられる。けれど、自分が未完成だと思うものを彼に食べさせるなんて。


「ただいま、ライサ! 遅くなってゴメンな」

 突然響いた声に、ライサは肩を大きく跳ねさせる。慌てて振り替えると、大きな背中を屈めながらザックが台所に顔を覗かせた。

「あ……、おかえりなさい」


 ザックは赤色の瞳を嬉しげに細めると、まるで犬のように鼻をひくつかせる。

「なんか、甘い香りがする……? あ! これ林檎……か? え、なんでここに?」

 ザックは驚きと嬉しさが入り混じった表情で、ライサの傍まで駆け寄ってくる。

 もうなかったことにはできない。ライサは少し視線を下げながら呟く。


「その、ニーナ村長さんにもらったの。この前の、都市での仕事の報酬なんだって。それで、ザックが林檎が好きだっていうから、昔叔父さんの家で出てきたものを思い出しながら作ってみたんだけど」

「え⁉ わざわざ、作ってくれたのか⁉」

 本当にザックは文字通り飛び上がって喜んでくれている。しかし、素直にそれを喜べない自分がいて、ライサは小さな声で呟いた。


「でも失敗しちゃったみたいなの。美味しいけど、何かが足りない気がして」

 え、とザックが声を上げる。彼はテーブルの上の林檎とライサの顔を交互に見つめ、ライサに視線を合わせるようにして身を屈めた。

「何が足りないんだ?」


 ライサが視線を上げると、ザックは柔らかく微笑んでいる。眼差しの柔らかさに強張った体の力が抜けていき、ライサは先ほどの味を思い出しながら答えた。

「何て言うのかしら? 昔食べた林檎のお菓子はとても甘いんだけど、それだけじゃなくて……少し香ばしいというか、ピリッとした刺激もあったような気がして」


 その刺激がまた、子ども心に衝撃的だった覚えがあるのだ。

 ライサの答えを聞くと、ザックは腕を組んで思案を始めた。目線を上げ、口の中でライサの言葉を転がすようにして呟く。やがて彼は、戸棚の中から小さな小瓶を取り出した。


「ひょっとして、これじゃないか?」

 手渡された小瓶の中には、茶色くて細かい粉末のようなものが入っている。何かの調味料だろうか。

「スパイス?」

「そうだ。ライサが感じた刺激はこれだと思う。本当は『しなもん』とか『じんじゃー』とかの方が良いんだけど……この国じゃなかなか手に入らないものだからな。代わりにスノダールの森に生える木の皮を乾燥させてすり潰せば、かなり似た味と香りを引き出せる。これなら比較的安価で流通してるし、ライサの叔母さんも使っていたと思うぜ」


 ライサからやんわりと小瓶を取り上げると、ザックは皿の上の林檎に数回それを振りかける。

 目線で促され、ライサがもう一度菓子を口に含むと、あの時と同じ幸せそのものの味が口の中に広がった。

 これだ、この味だ。

 すごい、何故分かったのだろう。


「その感じだと、正解だったみたいだな! 良かったぁ、ばあちゃんが料理にこれを使うのを見てたからさ。誰でも手に入るスパイスなんて、そうはないだろうと思って」

 ザックはほっとしたような表情で、頭をかいて笑っている。


「さて、せっかくライサがおれのために作ってくれたんだし、食べようかな! ありがとうライサ」

 やはり彼はすごい。今回も助けられてしまった。

 なんとなく面白くない気持ちになってしまい、口から拗ねたような言葉が出てきてしまう。


「でも、完璧にできなかったわ」

 子どもみたいだ。せっかく楽しい時間を過ごしたかったのに。

 ライサの胸がちくりと痛みを覚えてしまう。

 こんな自分を彼はどう思うだろうか。ライサが恐る恐る視線を上げると、心底不思議そうにザックが目をしばたたかせていた。


「へ? 何も一人で完璧にしなくても良いだろ?」

 え、とライサの口からも疑問の言葉が漏れる。ザックは何でもないことのように、ライサの暗い感情を明るく笑い飛ばした。

「魔法具職人と一緒だよ。二人で一人前、おれたちは、それで良いじゃん。おれだって、ライサに助けてもらってること、たくさんあるしな」

 お菓子の香りのように、ザックの言葉がふわりと甘く自分を包み込んでいく。

 ライサは目を丸くして、頬を染めた。

 本当に、まだまだこの人には敵いそうにない。


「それよりも、ライサがおれの為にこれを作ってくれたことが本当に嬉しいよ」

「どういたしまして」

 ライサはようやく、心から彼に笑いかけることができた。半分浮足立ったような気持ちで改めてテーブルに二人分のお菓子とフォーク、そして温かいヤギのミルクを準備していく。

 不意に、ザックが声を上げた。


「あ、そうだ。せっかくだから、一つだけお願いしちゃおうかな」

「『お願い』?」

 何だろうとライサが首を傾げていると、ザックがいそいそと近づいてきて、無邪気な様子で笑った。

「おれに、このお菓子食べさせてくれない?」

 妙に期待した眼差しを向けてくるザックを見つめ、ライサはサッと顔色を変えた。


「――え? まさかザック貴方、手に怪我でもしてるの⁉」

「そう来たか……」

 そうじゃなくて、とザックはライサの手首をやんわりと掴む。

 悪戯を思いついたような表情で耳元に近づいて、ライサにある言葉を囁いた。

 彼の息がかかった耳から、熱が一気にライサの全身を駆け抜ける。


「――っ、な、そう……そんな目的で……?」

 だってに「あーん」してもらいたいじゃん。そう言ったザックは、ライサの顔を見て噴き出した。


「はははは! ライサ。林檎なんかよりもっと顔真っ赤だぞ! 可愛……むぐっ」

 からかう様に笑うザックの顔が、憎らしくて恥ずかしくて、ライサは少々乱暴な手つきでフォークを掴むと、ザックの口に林檎を突っ込んだ。

 彼の「食べさせてほしい」という要望は満たしているし、これで良いはずだ、そうに違いない。

 始めは不満げな顔をしていたザックだったが、口の中のものを咀嚼する内に見る見る表情を変えていく。


「あ、ライサこれすっごく美味しい! 甘いし、なんだかポカポカ身体があったまるし! おれ、コレすごく好きだな」

「……もう、切り替えが早いんだから」

 どこまでも無邪気な彼を見つめながら、ライサは苦笑して自分も林檎を口に運ぶ。

 あの時食べた時よりも、ずっとその味は彼女の胸を甘く温かく満たしてくれた。

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