番外編
思い出のあったか焼き林檎 前編(バレンタインデー)
指先を動かし針で布をすくい上げる。腕をスッと横に動かせば、針の動きを追って薄紅色の糸が布の上を走った。真っ白なキャンバスの上に、控えめだが可憐な花が咲いてライサは口元を緩ませる。
冷えて透き通った空気の中、隣にいたニーナが静かに立ち上がった。
「そろそろ今日は終わりにしようかね」
彼女は老眼鏡を外して机の上に置き、ライサに柔らかい眼差しを向けてくる。ゆっくりと瞬きを繰り返し、ライサは作業場の窓の外に視線を向けて声を上げた。白く光るのは降り積もった雪ばかりで、空は濃紺の闇に包まれていたのである。
「あ、もうこんな時間」
「夢中になって作業していたからねぇ。その甲斐あって、良い物ができそうじゃないか」
「あ、ありがとうございます」
師匠であるニーナに褒められるとくすぐったい気持ちになってしまう。ライサは頬を染め、視線を落とす。
今作っているものは若い女性向けのハンカチーフで、丈夫な糸を使っているというだけで魔法的な効果はない。だからこそ安価で誰でも手にすることができるので、デザインで良いものを作ることができれば、それなりの売り上げになる。
小さなことから頑張っていかなければ。自分たちはまだまだ職人の卵だ。
頭に赤い髪の青年の姿が浮かび、ライサは息を呑む。いけない、彼が狩りから帰ってきてしまう。慌ててライサは帰り支度を始めた。
「ニーナ村長さん、今日もご指導ありがとうございました! それでは失礼します!」
後ろで結んだプラチナブロンドを揺らして、ライサは一礼し踵を返す。
「ちょっと待ちなライサ。良いものがあるんだ」
ニーナに呼び止められ、ライサは慌てて膝に力を込めて動きを止める。
なんだろうと振り返ると、ニーナが両手に木箱を抱えて机の上にドンと乗せた。
「お野菜……? すごい、こんなにたくさんどうしたんですか⁉」
木箱の中を覗き込んだライサは、常時眠たそうに見える瞳を大きく見開いた。
木箱の中には、泥がついたままの根菜や、青々と葉を茂らせた葉物野菜などがたくさん詰まっている。魔法具の効果で、極寒の地であるシャトゥカナルやここスノダールでも多少の農耕や栽培は可能だ。しかしここまで豊富な種類の野菜は、簡単に収穫できるものでないだろう。
「ほら、この前、村総出で取り掛かった大口の取引があっただろう?」
「一室丸ごと調度品を魔法具に変えるっていう、あの?」
ライサは、一週間前まで取り組んでいた仕事のことを思い出す。
「そうそう。あれを昨日ロジオンたちが納品しに行ったんだけどね。依頼主は交易関係の仕事をしている方だったんだ。ちょうど良い物が入ってきたからってね、報酬とは別に持たせてくれたんだとさ。あの時は、ライサやザックにも随分働いてもらったし、持って帰って美味しい物でも作ってやんな」
若いモンはたくさん食べなきゃね。そう言って、ニーナは薄い灰色の瞳を片方つむってみせた。
茶目っ気のある表情に、ライサは口元をほころばせる。
「ありがとうございます。では、せっかくなので」
ふと、ライサの目に瑞々しい赤色が飛び込んできた。どこか彼の瞳の色にも似た、柔らかいランプの灯の色だ。
ライサの視線の先にあるものに、気づいたのだろう。ニーナは声を上げ、微笑ましげに笑って言った。
「はは! そう言えば、ザックは林檎が好物だよ。滅多に食べられるもんじゃないからね、きっと犬みたいに飛び上がって喜ぶさ」
「へ⁉ あ、はい……」
声を裏返したライサの頬が、林檎に負けないくらいに赤く染まってしまう。
けど、そうか、彼が喜ぶのならば。
そう考えるライサの心は、火が灯ったように温かくなった。
ザックと暮らす家に入ると、部屋は暗く静まり返っていた。外気と変わらない冷えた空気が鼻をツンと刺す。
ライサは貰ってきた野菜や果物を台所のテーブルに置くと、慌ててマッチで暖炉に火を入れて、部屋の明りに火を灯した。
明るく温まっていく部屋を見渡しながら、ライサはザックよりも先に帰宅できたことに安堵する。
『帰ってきた家があったかいのって、やっぱ良いなぁ』
二人で暮らし始めた時に、狩りから帰ってきたザックが零した独り言である。
嬉しさを堪えきれないのだと言うようなとろけた表情で、彼は部屋を見回していた。
ライサの胸は、切ないような愛おしいような気持ちで強く締めつけられ、それ以来絶対に彼よりも早く家に帰ろうと心に誓ったのである。
コートや手袋を外して一息ついたライサは、木箱の中から貰ってきた林檎を一つ両手で持ち上げた。ひんやりと冷たい林檎は、ただそのまま齧りつくだけでもきっと美味しいと思うけれど。
「どうせなら何か、身体を温めるようなものが作れないかしら?」
ザックは魔法具の影響のない、極寒の森の中から帰ってくるのだ。せっかくならば、しっかりと体を温めて欲しいし、林檎ももっと美味しく食べて欲しい。
そこでふと、ライサは思い出した。まだ叔父の家でお世話になっていた時、風邪をひいた従妹のナターリアのために作られていたお菓子のことだ。
奇跡的に林檎が手に入った時だけしか出されたことはなかったし、そもそもナターリアの為に作られたそれをライサが口にできたのは本当に一度だけだ。
それでも、いや、だからこそだろうか。とろけるように甘くて胸がポカポカして、あの味は正に幸せそのものだった。
彼にも食べさせたい、食べて欲しい。
ライサは一つ頷くと林檎をテーブルに置いて、必死で記憶を探った。確か材料は砂糖とバターがあればいいはず。戸棚や貯蔵庫を開けて材料が足りそうなことに安堵する。
彼が帰ってくるまで、間に合うと良いのだが。
ライサは包丁を手に取ると、急いで調理を開始した。
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