第34話 故郷
ぷっくりと膨らんできた蕾を、ライサは注意深く見つめた。
「大きくなったなー。花が咲くのはもうすぐか。楽しみだな」
狩りから帰ってきたザックは、蕾にのんびりと声をかけている。慈しむような優しい眼差しは、まるで久しぶりに会った親戚の子を見つめるお兄さんみたいだ。
沈んだ気持ちが少しだけ浮上して、ライサは口元を緩めて笑う。
「そうね。私も楽しみ」
ザックがこちらを向く。気づかわしげに眉を顰めて、彼はライサの名を呼んだ。
「ライサ、大丈夫か? また、よく眠れてないんじゃないか?」
「平気よ。ちょっと寝つきが悪い程度だから」
あんな非常事態が起きなければ、今頃穏やかな気持ちで薄鱗蒼紅樹の成長を見守っていられたのに。
ライサは寝不足で重い頭を誤魔化すように、自らの銀色の髪の毛を撫でた。
素材を求めて狩りに行っていたザックも、目立った収穫はなかったのだという。彼もライサと祭りの後夜祭の準備を進めるように言われ、後処理もそこそこに家へ帰ってきたのだ。
なんだか、のけ者にされちゃったみたい。ライサはついそんなことを思ってしまい、寂しげに目を伏せた。まだまだ『職人見習い』である自分たちには、仕方のないことだと、思うのだけど。
荒い風がガタガタと窓ガラスを揺らして、彼女は顔を上げる。もう春が近いというのに、窓の外は吹雪で荒れていた。やはり、シャトゥカナルの結界が弱まっているのだろうか。完全に魔核が効力を失うまで、後どのくらいの猶予が残されているのだろう。
ふと、シャトゥカナルにいる従妹たちやタチアナたちのことが思い浮かぶ。特にナターリアは体が弱いのだ。急に寒くなって、体調を崩したりしていないだろうか。
「――なぁ、ライサ。ライサにとって、シャトゥカナルってどんな場所なんだ?」
「え……?」
何故、今そんなことを。そういう思いで見上げたザックの眼差しは、真剣そのものだった。
「その、言いづらいけど、あそこでは色々あったんだろ? でもシャトゥカナルはライサの故郷、そうだよな? おれは生まれ故郷がないから、どんな感じなのかと思って」
ザックの生い立ちを思い出し、ライサはハッと息を呑む。ザックは赤ん坊の頃に、ニーナたち夫婦に拾われたのだと聞いていた。彼女はぐっと胸の前で拳を握りしめる。
『待て! 突然預けられても困る! こちらも余裕があるわけではないんだ!』
『この人の足が動かなくなって、ブラトも生まれたばかりなのよ⁉ その上、この子まで……⁉ 無理よ!』
とても辛く苦しい記憶がよみがえりそうになって、ライサは大きく首を振る。
思い出しちゃ駄目だ。喉に何かつっかえて、息ができなくなってしまう。
その記憶を頭の片隅にぎゅっと押し込んで、ライサは口を開いた。
「――そうね。確かにシャトゥカナルには、辛くて苦しい思い出もたくさんあったわ。私が住んでいたのは最下層でとても寒かったし、都市の恩恵を受けていると言われても正直実感はなかった。けど」
ナターリアやブラト、叔父家族との暮らし、そしてシャトゥカナルでの日々を少しずつ思い出していく。
意外にも胸は痛むことなく、むしろほんのり温かくて懐かしい気持ちで満たされた。
さらに、最近できた賑やかな友人の顔を思い出すと、ライサの唇には自然と柔らかな笑みが浮かんでいた。
「大切な人たちもいるし、あそこは私が生まれて育った場所だもの。この先もずっと嫌いになんてなれない。かけがえのない場所よ」
自信をもってそう言えるようになったのは、きっとザックがライサの気持ちを受け止めてくれたからだ。
ライサは笑みを浮かべ、ザックに一歩近づいた。
「私は例え、結界の効力が失われることが、この村に一切関係のないことだったとしても、シャトゥカナルを助けたい、守りたいって思うわ。私の生まれ故郷はあそこだけだもの」
「そうか。そうだよな……」
ザックの呟きが儚げで、ライサはハッとする。生まれ故郷のないザックにとって、自分の話は残酷だったのではないだろうか。
ライサは息を呑み、口元を両手で覆った。
「ごめんなさい。私ったら」
「え? ああ、良いんだよ。聞いたのはおれの方だし」
気にするなと歯を見せて笑うザックに、思わずライサは勢い良く抱き着いた。腕の力を込めて、ぎゅっと温かい彼の胸に頬を寄せる。
「――ライサ? どうしたんだよ」
「ごめんなさい。つい……」
ザックは力を抜くように笑って、ライサの髪を撫で始める。なんだか、ライサの方が慰められているみたいだ。
その心地よさにライサが思わず目を閉じると、思いの外すぐに彼の手が止まり、体を離されてしまう。
「もう、今日は休もうぜ。薄鱗蒼紅樹の花もまだ咲かないだろ? 今はまだやれることもないしさ」
「ええ、そうね」
ザックはライサの方を向いたまま、数歩後ろに下がっていった。そしていつものように朗らかな笑みで、おやすみと手を振ってくれる。
「おやすみなさい」
手を振り返したライサは、自室へと向かった。自分から抱き着いてしまった羞恥心が今更のように襲い、ライサは両手で頬を押さえる。
しかし同時に、胸の中には分厚い灰色の雲のような、例えようもない感情が渦を巻いていた。
この不安は、シャトゥカナルの危機が影響しているのだろうかそれとも――。
自室に入る前、ライサはふと立ち止まって振り返る。ザックはまだ自分を見つめていて、こちらが振り返ると嬉しげに手を振ってくれた。温かな笑顔には曇り一つなく、いつも通りだ。何の心配もない。それなのに。
「どうしてかしら」
何故か、ライサはあの時、ザックをこの場に強く、繋ぎ止めなければならないと感じたのだ。
「ライサ、朝早くごめんな」
次の日の朝、ライサはザックの声とノックで目を覚ました。また寝つきが悪かったようで、ひどく頭が重い。
なんとか上半身を持ち上げて、返事をする。寝間着のままではいけないと、ベッドの上の毛布をブランケット代わりに羽織って扉を開けた。
そこにはすっかり身支度を整えたザックが、微笑みながら立っていた。
「ザック、どうしたの?」
ああ、実はさ。ザックがにっこりと笑みを浮かべて、口を開く。
「シャトゥカナルを救うのに、良い方法を思いついたんだ。一緒に、ばあちゃ――村長のところに行ってくれないかな?」
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