第36話 蝶姉からは逃げられない
「ただいみゃ〜……ひっくっ」
ちょっとだけ酔った顔の蝶姉が帰ってきた。
ついさっき、乃彩のエンスタライブが終わったタイミング。
酔った蝶姉と一緒に鑑賞するなんて惨事は辛うじて避ける事ができた。
「おかえり蝶姉」
「それよりエンスタ見たじょ〜? 乃彩ちんと付き合ったんしょ〜、おめでとー!」
若干怪しいが、呂律は回っている方だ。
これは途中でお酒を止められたパターンだろう。
正常で良かった。
いや、俺が乃彩と付き合った事は、既に伝えていたはず。
なのに記憶が吹っ飛んでいるのは問題か。
「蝶姉ボケてるみたいだから、早く寝よう」
「ヤダ! お姉ちゃんボケてないもん……ひっくっ」
しゃっくりが止まっていない。
飲み会で沢山笑ったり大声を出したのだろうし、休んだ方がいいに決まっている。
しかし蝶姉は譲らない。
「お祝いするの〜!」
「何のお祝いだよ」
エンスタを見たと言っていたっけ。
脈絡からして乃彩のライブを見たと考えれば、カップルチャンネル設立祝い?
いや、祝うほどのものではない。
本当に何を祝うのかわからない。
「お姉ちゃん離れおめでとう祝い!」
「離れてくれないのは蝶姉の方なんだが」
呂律は回っているしフラついてもいないので、普通にリビングまで付いてきてくれた蝶姉だが、さっきから俺の腰に抱きついて離れない。
「身体は触れ合ってもいいの! 家族なんらから当然でしょ〜! そういうのじゃにゃーいのー!」
言いたい事はわかる……自立的な意味で言っているんだろうけど、ちょっと如何わしく聞こえそうな事は言わないでほしい。
本当に酔っている蝶姉はお外に出せないと思わされる。
「乃彩しゃんがいれば、もうユイは大丈夫〜……お姉ちゃんも安心して余生を過ごせるよ〜」
「まだ若いのに、余生とか言うなって……残りを楽に過ごしてくれるなら、そりゃ願ったり叶ったりだけど」
実際、蝶姉が稼いだお金を考えたら――。
彼女だけなら、贅沢しなければ残りの余生を働かずして過ごせるかもしれない。
でも、そのお金は俺と羽衣に残された親の借金と学費と入院費に充てられている。
もっと俺が頑張らなければいけない。
そんな事を考えた瞬間、俺は酔った蝶姉の怪力で押し倒されてしまう。
日頃からよくある事ではあるが――。
「……ユイもいいんだよ? 乃彩さんと一緒に残りの人生を楽しんでも」
「えっ……?」
酔いが覚めたような顔が、目の前にあった。
「お姉ちゃんにその権利があるなら、ユイにもあるべきだよ。だからね……いいんだよ? トイを辞めても」
それは、今までも何度か聞いた事のある台詞。
いつもは適当に誤魔化していたが、今回に限っては……なぜか俺の心に響いた。
実際のところ、俺がトイを続けるというのは社会的なリスクが大き過ぎる。
企業のデマを流すような奴を企業が採用する訳ないし、俺がトイだとバレた時点でまず社会人としての道は閉ざされるだろう。
(俺は戻れる内に、普通の男子高校生『赤松結翔』に戻らなければいけない……そんなこったわかってんだよ!)
俺は、一人の人生を終わらせる事ができるくらいの影響力を持っている。
一つボタンをかけ間違えるだけで、簡単に振るえる力だ。
休止活動に追い込まれた時のデマだって、相手が企業だからどうにかなった。
だけどもし、相手が企業ではなく何の後ろ盾もない個人だとしたら……?
――考えたくもない結果を産んでいた。
(今すぐ、こんな力は捨てた方がいい……わかってるのに、辞められる気がしない)
それは理屈では説明できない感情論。
特別楽しい趣味という訳でもないのに、どうしても辞めたくない。
炎上系配信者として、俺は今まで他人から嫌われるような事を沢山してきた。
だけど――同時に俺が燃やした炎上のお陰で救われた人間も…………いるのだ。
応援会の同志だった男が言った。
『お陰で、あの子の無念を晴らせたよ』
冤罪にあった配信者が言った。
『俺、トイ様みたいになりたいっす!』
セクハラを訴えた女優が言った。
『意外と紳士なんですのね』
復讐を誓った少女が言った。
『トイ様……本当にありがとう……!』
そんな事で――自己承認欲求は満たしてない。
ただそうして生まれた『ありがとう』は鎖のように俺を引き止める。まるで呪いのように。
だから俺は何も言い返せない。
だが、何も言えないからこそ気付いた。
「蝶姉、もしかして酔ったフリか?」
恐る恐る蝶姉と目を合わせると……彼女は微笑んだ。
「ビール一杯は飲んだけどね。お姉ちゃん演技は天才的に上手いので」
「知ってる」
酔いが浅いのは分かっていたが、記憶喪失のフリをするのは大袈裟だったな。
何より蝶姉は自分が酔っている時こそ、本音なんて漏らさない。
つまり、不自由なく意思疎通はできる訳だ。
「お姉ちゃんはユイの選択を尊重する。だけど絶対に――自分一人で抱え込んじゃダメだよ」
羽衣に知られないように活動する。
その為に、俺がトイであることは……幼馴染である和成と美波にも内緒なのだ。
特に美波は同じジュニアアイドルのメンバーとして仲が良かったから、今もなお内通しているかもしれない。
そんな中で、蝶姉だけには最初から全部伝えていたけど――もうこの秘密を知るのは蝶姉だけじゃない。
「お姉ちゃん離れって――そういう意味かよ」
乃彩という恋人の存在は、これから俺の中で大きくなっていくのだろう。
それこそ――蝶姉以上の存在になると彼女は宣言しているのだ。
「察しの良いユイにしては、気付くのが遅かったね……そうだよ、きっと乃彩さんが――私の代わりにトイを辞めさせてくれるよ」
未知の可能性に、蝶姉は賭けたらしい。
だが――。
「乃彩が俺を理解してくれるなら、きっとそうはならないと思うけどな」
乃彩は今の俺を好きになったのだ。
トイを辞めた俺を好きになるだろうか。
それも乃彩は元々トイのファンなのだし、続けてほしいと願うはず。
彼女の為にも俺は――。
「ユイはわかってないなぁ……恋は好きな人を肯定するだけじゃないんだよ。乃彩さんは、きっとユイを変えてくれる」
「…………」
俺には、未だに恋というものがわからない。
いや、乃彩に惹かれている俺がいるのは確かだし、実際には恋をしているのかもしれない。
だけど、未だに自覚できていなかった。
……蝶姉の言葉を否定できない。
(俺は心の何処かで……変わりたいと思っているのか?)
わからない。
わからないけど……今まで感じたことの無い気持ちが昂っている。
(でも、変わるのは――怖い)
そんな時、蝶姉が俺の頭を撫で始めた。
優しい手つき。
その優しさを振り払える事はできない。
「大丈夫、怖くないよ。何があっても、お姉ちゃんだけはユイの味方。もし乃彩さんに振られたら――その時はお姉ちゃんと結婚すればいいんだよ」
「それは――イヤだな」
「ちょっ……流石にお姉ちゃんも乙女なので、それはNGだぞ〜」
さっきまで優しかった蝶姉の手が、俺の頬をつねり始めた。
冗談でも俺と結婚だなんて、言わないでほしい。
いくら従姉弟が結婚できるからって、羽衣に合わせる顔が無い。
それに、蝶姉にはもっと素敵な旦那さんを迎えてほしいのだ。
だから、ここで蝶姉が求めている回答を与える。
「ごめん蝶姉、俺には乃彩がいるからさ」
「……じゃあ諦めるしかないかぁ」
あっさりと引いてくれる蝶姉。
たまに冗談のように「一生独身」と宣言している彼女だが、いずれ必ず良い人が現れる。
「頑張れ〜、まだまだユイの青春は長いんだからね~」
まだトイをやめられる気はしない。
だけど蝶姉の言う通り俺の青春時代はこれからなのかもしれない。
(それこそ……ゆっくりと考えていけばいいか)
そう考えると肩の荷が下りた。
カップルチャンネルだってまだ始動していない。
全てはまだまだこれからなのかも、な。
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