後編 王の務め

「——偃月!」

「ぅはい! んぇ? 王さま⁇」


 氷月は王室から出てすぐ、窓の外に見かけていた偃月を呼びつけた。

 偃月は城内の庭園に遊びに来ていた動物たちと戯れていたようで、気を抜いていたのか氷月の声に跳ね上がるようにして返事をした。


「来い!」


 まるで飼い犬に命じるような凄い剣幕で氷月が偃月を呼ぶ。いつものことと言ってしまえばいつものことなのだが、ただならぬ雰囲気の氷月に何かを感じたのか、偃月はすぐに彼のもとに駆け寄った。氷月は彼に振り向かず、ズカズカと靴音を鳴らしながら前を行く。

 ふと、彼の隣に雨月がいないことに不安を覚えた。偃月はおずおずと話しかけるのをどうしようかと躊躇ちゅうちょしながらも、上目遣いで氷月に問う。


「……あの、王さま? 雨月は?」

「あれは今、花の娘の介抱に当たっている」

「え……?」


 氷月の言う〝花の娘〟というのが花檻姫を指しているのはすぐに理解ができた。しかしというのは一体どういうことだろう。


(怖くなって、苦しくなっちゃったのかな)


 そうだとしたら合点がいく。この国に来るまでの彼女の様子を知っている偃月からすれば、彼女が倒れてしまったと聞いてもそれほど驚くことはなかった。それに、過去に自分も同じような経験をしているからこそ、偃月は彼女の心情に妙に納得していた。


 先ほどまで彼女について聞きたがっていた偃月が急に黙ったのを不思議に思ったのか、氷月が偃月を見遣る。彼の中で何かが引っ掛かっているのだろうかと氷月は考えた。


「……偃月」

「うん?」

「お前は、花の娘をどう見た」


 氷月の言葉に、偃月はまんまると澄んだ双眸を大きく見開いた。氷月がここまで他人に関心を寄せることなど、偃月の知る限りでは一、二度ほどだ。

 偃月は少しだけ間を置いて、氷月に彼女についての素直な印象を伝えることにした。


「か、可愛いと思ったよ。お花の国のお姫さまだからかな、お花の甘い匂いがしたんだ。話しかけたらね、ちゃんと聞いてくれたよ。……あとね、多分だけどこの国に来た意味を理解してると思う……」


 偃月の言う〝意味〟とは『氷都』へ嫁ぐことではなく、として来国したことを理解しているということだろう。謁見時の佇まいから、彼女は自分の立場について理解していたように思えた。そしてどこか身分を弁えているようにも。しかし——。


「……仮にも一国のお姫さまだって聞いてたのに、ボロボロだったのは、気になったかな……」


 氷月も同じことを考えていた。仮にも『花都』という『氷都』と並ぶ二大国の姫君であろう彼女は随分とみすぼらしい姿をしていた。

 花を彷彿とさせる淡い薄桃色の髪はくるりと簡単に結われていても分かるほど酷く痛み切っていたし、服装も下級貴族と同等かそれ以下のものを着ていた。

 お世辞にも、身綺麗とは言い難かったのが氷月の印象だった。

 同情せざるを得ないような、儚い雰囲気を身に纏っていた敵国の娘は、今にも死にそうな顔をしていた。


 なんでも不思議な力を持つ娘だとして先の交渉材料に使われたという花檻姫。

 その全容についての詳細の一切を、ついに『氷都』側に明かされることはなかった。ただ目にすればその意味が分かる、とだけ。つくづく食えない国だと舌を打つ。

 偃月が、眉をひそめる。その顔は今にも泣き出しそうだった。


「……お迎え行った時ね、馬車での長旅で疲れたんだろうね、寝ちゃったの。それでね、怖い夢を見たんだと思う。お姫さま、魘されてた。もう嫌だって、泣いてたんだよ……」


 勝利したはずの自国が、たかだか敗戦国に言い負かされたような感覚に複雑な胸中になり氷月の中で苛立ちが募る。国としての力は劣れども、どうやら『花都』の交渉官は一枚上手で随分と口が達者だったらしい。

 心優しい礼儀の出来た雨月に交渉を任せたのは間違いだったか、と氷月は自らの弟をおもんぱかった。同情はともかくとしても、厄介事を押しつけられたような気分になり氷月は滅入った。



 ~❅~



「……心に留めておこう」


 一通り偃月の考えを聞き終えた氷月は、突然きびすを返した。そもそもどこへ向かおうとしたのか分からなかった足は、今度は来た道を戻ろうとしている。王の羽織る外套が激しく揺れ風になびいた。


「えっ、どこ行くの王さま!」


 急なことで反応に少し遅れた偃月だったが、持ち前の反射神経ですぐに順応した。


「偃月。お前は花の娘の許へ向かえ」

「え?」

「雨月が言っていた。お前には心を開いているようだと。……目を覚ました時、頼れる者がいない見知らぬ場所は恐怖でしかないだろうからな」


 言葉が少なく、分かりづらい人だとは思う。けれど、こうして人を思う心が寛大な人だとも、偃月は氷月に対して思っていた。


 偃月は氷月から花檻姫が運ばれたという医務室に向かうよう指示を受けると「分かった!」と晴れた顔をして颯爽と駆け出して行った。


 偃月の足の速さは国で一、二を競うほどだと以前雨月から聞いていた氷月は、実際の彼の走りを見て、


「……相変わらず、忙しいやつだな」


 と小さく笑った。


 小さくなっていく偃月の背中を見つめる彼の瞳は、王として立つ氷月ではなく、まるで家族に向けるような眼差しだった。

 それは『氷鷹』と怖れられる時とは違う、慈愛に満ちたものだった。



 これから氷月が向かうのは『花都』とは別の意味で厄介な相手の部屋である。

 その人物との交渉次第では良きように事が運ぶだろうと踏んでの賭けだった。


 王自らが動かずとも〝『氷都』は最強である〟と示しを表した先の戦争であったが、ここで動かなければあの花檻姫と呼ばれる娘の時間は一生止まったままである。


 鋭い眼光に冷めた表情を持つ『氷鷹』の王は、国の在り方とは裏腹にとても心優しい青年であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る