4-3 瞳の奥の「彼」

 気づけば今に至る。わたしはちゃんと衣服を着て寝台の上で眠っていた。

 蟒蛇に食らわれてから今までの記憶が無いということは、その間に蟒蛇がこの体を乗っ取って何かをしていたに違いない。


 それがわたしにとっての利だったかまでは、今となっては知る由もないけれど。



 コンコンと二回仮部屋の扉が叩かれる。「はい」と小さく答えると、入室してきたのは偃月だった。わたしは、彼の格好の雰囲気が違うことに一瞬戸惑う。


「おはよ、お姫さま」

「おはようございます……。あの、偃月……その姿は……?」


 出会った時から昨日まではどこか身軽で動きやすそうな軽装をしていた偃月。でも今目の前に立つ彼は、戦地に赴く戦士のような装備に身を包んでいる。羽織られた『氷都』の紋章が刺繍されている外套が揺れれば、その隙間から見えるのは……すらりとした刀剣。


 それは命を奪う、簡単に奪うことができる、怖ろしい道具。


 そういえば氷月が言っていた。「私たちは『葉都』に向かう」と。その「私たち」には、偃月も含まれているというこのなのだろうか。そんな気がした。


「ん? ああ、これ? これから『葉都』との話し合いに、同行する格好……かな?」

「話し合い……なのに、そんな格好……」

「うん。ほら、今あの国の人たち、全員『氷都』が怖いって感じだから。そういう人たちってね、すごく攻撃的になるんだよ。動物と同じ。自分のテリトリーや縄張りは、守りたいでしょ? おれたちは、ちょっと意味は違うかもしれないけどそこに足を踏み入れる」


 危険な場所に行くから、格好はちゃんとしなくちゃね。と、偃月が笑う。その笑顔は、これから戦場に向かう者の笑顔ではなかった。

 どちらかと言えば戦場に向かうことを喜んでいるような、まるで新しい玩具おもちゃを貰った無邪気な子供のような表情だった。偃月の空気に背筋が凍る。

 美しいと思っていた彼の水晶の双眸は、今は何も映していない。


「……偃月……」

「んー?」

「あなた、誰」

「…………おれは『偃月』だよぉ?」


 目の前にいるのが偃月だと、わたしの感覚は認めなかった。この人は違うと本能が告げている。


 今は目の前の偃月かれが怖い。息が詰まる思いをしながらも、無意識にわたしの体は彼との距離を取ろうとする。しかしわたしの体は正直なのか、取ろうとするも恐怖心から足がすくんでしまいその場から動けないでいた。


「……怖がらせて、ごめん。もう行くね」


 偃月から笑みが消える。その顔は迷子の子供のようだった。

 わたし、偃月を悲しませてしまった。

 わたしはすぐに彼に謝ろうとした。違う人かもしれないとしても、今目の前にいるのは「偃月」だ。


 仮部屋を出て行こうとする偃月の裾を掴もうと手を伸ばしたその時、扉が自ら開いたかと思えば香紆が鉢合わせた。そしてわたしたちを数回交互に見ると、香紆は突然偃月の頭を叩いた。

 乾いた音が静寂を切り裂いた。急なことにわたしは驚いて声も出なかった。偃月も同じ気持ちらしく、まんまるな双眸をぱちくりと瞬かせて、目の前に仁王立ちしている香紆を見つめていた。


「……香紆……」

「何をこんなところで油売ってるんだ偃月。もう出立の時間だと氷月陛下がお怒りだぞ」

「い、痛いな! 何すんだよお前、おれの部下の癖に‼」


 香紆に噛みつく偃月の纏う空気が知っているものに変わった。元に、戻ったのだろうか……? わたしは無意識に胸元をぐっと握る。着物がぐしゃりとないた気がした。


「ほらほら、早く氷月陛下の許にお行きなさいよ。これ以上待たせると何が起こるか分からないんだから」

「そんなに怒ってるの⁉ ご、ごめんねお姫さま! 行ってきます!」


 偃月は慌ただしく仮部屋を出て行った。結局何のために彼はこの部屋を訪れたのだろう。その理由は分からず仕舞いだったけれど、元に戻ってくれて良かったと心から安堵する。

 あの瞳の奥にいた「彼」は、いったい誰だったのだろう。


 ふとその場から動かない香紆が目に入った。


「……香紆さん……?」


 声をかければ、ゆっくりと視線がわたしに向けられる。その瞳は少しだけ水分を含んでいるように見えた。


「……あいつ、たまにああやって別人みたいになるんですよ。外から見たら、分かりづらい変化なんですけどね」


 香紆が悲しげに微笑んだ。きっと、彼の雰囲気の変化には、彼の過去が大きく関係しているのだろう。そしてその過去を、香紆は知っている。だからそんな顔をする。


「もし、あなたの前でああなったとしたら、思い切りビンタしてやってください。そうしたら元に戻るので」


 そう言って香紆はわたしに頭を深く下げ、そして仮部屋を出て行った。


 慌ただしい朝が終わりを告げた。わたしは複雑な胸中になりながらも、彼らを見送りに行かなければ思い立ち、身なりを簡単に整えて仮部屋を出た。

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