4-2 「幸せ」とは「 」である
それから、この部屋に戻って暫くは嬉しさのあまり眠気がさっぱり消えてしまったので、寝台の上で仰向けになりながら明日のことを考えていた。
なかなか寝つけずにいると、どこからか〝シュルシュル〟と、獣とは違う生き物の息遣いが聞こえてくる。
……ずぐん、と再び下腹部が重くなる。
寝台からそろりと起き上がれば、そこには蟒蛇がいた。
『花都』にいた頃はこんなに頻繁に現れることはなかった。
わたしの不安や恐怖などの感情がこの蟒蛇を呼んでいるのだろうか?
いいや、違う。
わたしが幸せだと感じた時に現れるのだ。
「……」
わたしは必死に蟒蛇を睨みつける。ここで恐怖に支配されてしまっては、あれの思うつぼだ。
あれはわたしの幸せを嫌う、心の中に棲みつく化け物だ。
シュルシュルと舌をなめずった蟒蛇は口角を上げると、その口から夜に似合う低音を響かせた。
「――臭うナ。不快な幸せの臭いダ……」
「……臭いたくないなら、どうして現れるのですか……」
「気が変わったのサ。……ナァ、手を貸してやろうカ?」
キキキ、と蟒蛇の独特なにたり声が妙にはっきりと頭に入ってくる。
それよりも今、目の前にいる化物は何を言った?
「気が変わった……?」
「キキキ。お前も薄々気づいているのだろう? あの女の腹の刻印に」
「……!」
「あれは昔、ワタシが刻み込んだものだヨ」
「やっぱり……」
わたしはなんとなく分かっていた。緑黎の下腹部に刻み込まれていた刻印の幾何学模様は自分のものと酷似していたから、もしかしてとは思っていた。
刻印は、蟒蛇が付けたものだ。『花都』にいた頃というのがどれくらい前のことなのかまでは分からないけれど、あの国にいたことがあったのならあの刻印が蟒蛇との接触によって刻まれた可能性が極めて高いとは思っていた。
そしてそう思ったからだろうか、わたしは蟒蛇の出現を心のどこかで望んでいた。
「蟒蛇が付けたものなら、解呪も、できますか……?」
「アァ、できるとも。……だが代償がいるねェ」
嘲笑を浮かべながら蟒蛇がわたしに近づく。
代償。分かっているんだろう? と、蟒蛇の目が嗤っている。
「……」
分かってる。代償の意味も、それが何を指し示しているのかも。
わたしは一糸まとわぬ姿になり蟒蛇の前に立った。醜い体だ。それでも、この体には利用価値がある。
わたしの「幸せの記憶」たった一つの犠牲で、氷月夫婦が幸せでいられる未来が訪れるのなら……安いものだった。蟒蛇の長い舌が、わたしの首筋を撫でる。
「キキ。今日は一段と花の香りが濃いなァ。幸せの臭い。アァ、気分が悪くなるねェ。早く吸い上げてしまわねば」
「……幸せは不味いんでしょう」
「お前を美味しくいただくためには、
ぐぱっと大きく開いた蟒蛇の口に光る鋭い牙がわたしの首筋を貫いた。瞬間、痛みが走り感覚が鈍くなり体が痺れ始める。
この痛みは幻。もう慣れた。
蟒蛇は感情を食らう化け物だ。実体を持たず、人の弱き心に巣食い、喜怒哀楽によって味が違うらしい「感情」を全て食らい尽くす。そうして食われた者は廃人と化すのだ。今までその毒牙によって失われていった命を、いくつも見てきた。
「幸せ」とは、毒である。
わたしの体内には清らかな血液は流れていない。全てこの蟒蛇に穢された。毒と化したわたしの血液を好んで呑む蟒蛇は、愉悦感に浸る表情でわたしを見つめている。
そんな気色の悪い表情を見たのを最後に、わたしの「今日」の記憶は途切れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます