第四話

4-1 会談前夜

 微かに雨の降る音が、耳元で囁いている。

 しとしと、その音が心地良くて、ゆっくりと目を開けばそこは『氷都』であてがわれた仮部屋だった。

 丸窓から覗く外の世界では囁きの音の通りしとしとと雨が降っている。そういえばこの国の雨はほんのりと甘い香りがすると聞いた。

 緑黎から、この国の雨は不思議な香りがするのよと教えてもらったのは昨日のことだ。思えば、偃月の纏うにおいも、降る雨のように甘い香りがしていた。


(不思議と安心するにおい……)


 心の中で呟いて、頬を綻ばせた。けれど、すぐにあることが脳裏をぎってわたしの心は悲しみに色づいていく。


 今日は『氷都』と『葉都』の、国を挙げた会談日だ。



 ~❀~



 それは急遽決まった。


 緑黎との夜の茶会を終えたわたしは香紆の迎えを断って一人で回廊を歩いていた。緑黎を困らせてしまったけれど一人になりたかったからと強引に押し切って。

 ここから仮部屋までの距離はそう遠くない。

 戻る途中、何やら考え事をしながら回廊をゆく氷月とばったり出逢った。


「……花檻?」

「あっ……氷月陛下……」


 わたしはすぐに頭を下げる。まさかこんなところで鉢合わせるとは思っていなかったので、どういう顔をすればいいのか分からなかった。先のこともあり、恥ずかしさや恐怖心から氷月のことを見ることができない。

 王室での話の後に氷月から少しでも離れたくて偃月の後ろに隠れていた時に、偃月は「王さま、何も気にしてないよ?」と言っていたけれど、それが本当かどうかも怪しいと思っていた。


「花檻」

「は、はい」

「気分は、もういいのか」

「は、い……え?」


 わたしは彼の発言に思わず顔を上げた。

 今、わたし心配されてる?

 顔を上げた勢いで氷月と目が合えば、そこには微かに心配の色が見えた。


(……本当に、気にしてないのかしら……?)


 気にし過ぎていたのはわたしだけなのか。その答えに辿り着けば、途端に顔が熱くなる。わたしはこんな顔を見られたくなくて再び下げた。


「花檻っ?」

「あ、わ、たし、わたし……大丈夫、です!」

「そ、そうか。それなら、良かった」


 優しい低音声が耳を通る。そろそろと顔を上げて氷月を窺えば、彼は柔らかい笑みを静かに浮かべていた。その横顔がとても美しいと、思ってしまった。


「緑黎はまだ起きているか?」

「あ、はい。先ほどまでお茶会……に呼ばれていましたので、まだ起きていらっしゃるかと……」

「そうか。……花檻」

「はい」

「先ほど会議で決まったのだが、明日あす、私たちは『葉都』とこれからについて話し合いをしに行く予定だ」

「は、はい」

「そこで……お前には、緑黎の側についていてもらいたい」

「はぃ……?」


 わたしは思わず目を数回瞬いた。


「緑黎と仲良くしてくれて、とても嬉しく思う。少しの間だが、緑黎のことを頼んでもいいだろうか」


 あれは存外、寂しがり屋なんだ。ぽろっと彼の口から紡がれた小さな願いは、わたしの心に深く深く刻まれた。


 人のために、存在できること。

 それがわたしにとってどれだけの救いであるかを彼は知らない。

 わたしは泣きたくなるほどに込み上げる嬉しさをぐっと胸に仕舞い込んで「かしこまりました」と深く頭を下げる。


「頼んだぞ」とわたしの頭を一回ポンと撫でた後、氷月は緑黎のいる部屋へと消えていった。


 この感情がなんと呼ばれるものなのかは、まだわたしは知る由もないけれど、心が満たされたことが嬉しくて、仮部屋へ向かう足取りが先ほどよりも軽くなったのはここだけの話だ。

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