2-3 『氷鷹』の妃

 わたしが負の感情の海に溺れかけていると、ふわりと安心するが鼻腔を通った。

 わたしと氷月の間に、偃月が割って入ったのだ。


「王さま、出てって」

「何故」

「お姫さま怖がってるから」

「……何故?」

「何故も何もこれもないの! ほら出て行って~!」


 偃月が身長差のある氷月を医務室から追い出そうと、顔を赤く染めながら必死に彼の体を押していたが、どう見ても偃月が押し負けていた。何度も挑戦しているものの、かなしいかな氷月の軸心は一切ブレることがなかった。


「偃月」

「どうして動かないの⁉ 王さまのバカ! 銅像かよ! 太ったんじゃないの!」

「偃月、私の話を聞け。あと私の体形は標準だ。太ってもいないし銅像でもない」

「むうぅ……」

「可愛い顔をするな」

「むうぅ‼」


 確かに氷月の言う通り、リスが餌を頬張るように頬を大きく膨らまして怒っている偃月の姿は可愛らしい。

 けれどよくよく思い出してみると、彼はわたしよりも六つほど上の年齢だと会った時に言っていたような気がする。大人の男性が「可愛い」と言われて嬉しいとは限らないのかもしれない、と偃月を見て思った。


「私は花の娘に……花檻に話があって来たのだ。……入れ」


 攻める偃月を軽くいなしながら、氷月が医務室の扉に声を掛けた。もしかしたら入室してくるのは雨月かもしれない。今後のことで話し合うのだと、わたしは無意識に緊張した。


 しかしわたしの想像していた人物は訪れず、代わりに入ってきたのは大人びた高貴な雰囲気を纏う女性だった。


「え……緑黎りょくれいさま? なんで?」

「ふふ。陛下から直々にお誘いを受けたのよ、偃月」


 緑黎という女性は淡い薄緑色の着物の裾を口元に寄せて柔らかく笑った。艶やかな橙の髪に蜂蜜色の瞳。大人の女性という言葉がとても似合う人だと思った。身長も高く、氷月と並べば美男美女の似合いな二人に見えて、わたしは思わず暫くの間彼らを見つめていた。


 この人は一体誰なのだろうと首を傾げていると、氷月と目が合った。

 気まずくてすぐに逸らしたけれど、彼は気にも留めていないようだった。


「誘ってなどいない」

「あら、誘われましたわよ? 〝一緒にお愛妾めかけちゃんを見に行かないか〟って。それはもう乗り気で」

「そんな言い方はしていない」

「そうでしたっけ?」


 微笑を浮かべる美女と氷月を交互に見る。親しい仲のようにも見えるが、どういう関係なのだろう。


 そんなわたしのおかしな様子に気がついた氷月がわたしを一瞬だけ見遣ると、少しだけ面倒くさそうにして小さく溜め息をついた。今度こそ呆れられた、そう思った。



「……これは妻だ」



 それはわたしにしか聞こえないほどにか細い声だった。けれど妙にはっきりと聞こえたその言葉にわたしは目を見開く。


「つま……?」


 妻とは、つまりお妃様のこと……。

 確かにこのご時世、王が愛妾を取ることは大して珍しくはなかった。

 かと言って、目の前の氷月がすでに既婚者であったことがわたしの中では予想外だった。そもそもと言われてこの国に来ているのだから、当たり前の話ではあった。

 けれど、この国に来てからというもの、脳が忙しくてそこまで思考がすぐに追いつかなかったのも事実だった。


 呆気に取られていると、妻だと言われた緑黎がそっとわたしの手を触れた。

 見る度に自分は惨めだと思い知らされてきた冷たくてボロボロな手は、優しくて柔らかい彼女の手によって包み込まれた。


「随分と冷えているのね」

「ぁ、あの……」

「それはそうよね。ここは『氷都』。氷の国ですもの。暖かい気候の『花都』とは天地の差があるでしょう?」

「……」

「異国から来て初めのうちは体温管理が難しいと思うわ。わたくしもそうだった。でも徐々に慣れていく。だから不安にならなくてもいいの」


 そう言って緑黎は微笑んだ。

 もしも、母親という存在がいたのなら、彼女のように温かい笑顔をする人だっただろうか。

 わたしは憶えてもいない母親のことをなんとなく考えた。

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